01.異動辞令
朝は、いつも水の音から始まる。
エドモンドは、そういう土地で育った。
窓を開けると、石組みの水路を流れる水の音が聞こえる。夜のあいだに山から下りてきた雪解け水が、町を横切り、川へと流れていく音だ。耳を澄ませば、水車の軸が回る低い唸りも混じっている。
今日も、問題なく流れている。
それを確認してから、エドモンドはようやく息を吐いた。
「……よし」
問題なく流れている、ということは、町が無事だということだ。
この国では、それが同義だった。
プレスト王国東部。
山脈に近いこの地域では、雨と雪が恵みであると同時に災厄でもある。山に降った水は、行き場を失えば町を飲み込む。だから人々は、畑より先に水路を作り、家より先に堤防を築いた。
魔法?
そんな便利なものはない。
あるのは、石と木と鉄と、人の知恵だけだ。
エドモンドは上着を羽織り、道具袋を肩にかける。中には測量用の紐、簡易水準器、木炭の入った小袋、手帳。どれも使い込まれて黒ずんでいる。
技師という仕事は、派手さとは無縁だ。
だが、町が今日も無事でいるのは、自分たちのおかげだと、エドモンドは知っている。
外に出ると、すでに人の気配があった。
「おはようございます、技師殿」
水路脇で掃除をしていた老人が、腰を伸ばして声をかけてくる。
「おはよう。昨夜はどうでした?」
「静かなもんですよ。水位も変わらん」
「それは良かった」
それだけで、会話は終わる。
余計な言葉はいらない。
水が静かなら、それでいい。
町を抜け、作業場へ向かう途中、エドモンドは石橋の下を覗いた。補強した支柱に問題はない。先日の雨で削れた部分も、仮止めがきちんと効いている。
「……次の予算、通るかな」
誰にともなく呟く。
プレスト王国は、決して豊かではない。
西と南には強国が睨みを利かせ、東は山。北もまた山だ。作物が育つ土地は限られ、輸入に頼れば足元を見られる。
だから、この国は「壊れないこと」に全力を注いできた。
壊れなければ、奪われない。
流されなければ、生き延びられる。
そうやって積み重ねてきたのが、この国の土木技術だ。
作業場に着くと、若い見習いたちがすでに集まっていた。
「エドモンドさん! 今朝の数値です!」
紙束を受け取り、ざっと目を通す。水位、地盤沈下、仮設材の歪み――数値に異常はない。
「いい仕事だ。記録しておけ」
「はい!」
彼らの顔には、誇りがあった。
剣を振るわずとも、特別な力を使えずとも、この国では技師が尊敬される。
なぜなら、技師がいなければ町が守られないからだ。
「今日は第四工区を見に行く。今後の雪解け水に備えて、排水路の勾配を再確認する」
指示を出すと、見習いたちは即座に動いた。
国家事業――東方山脈隧道計画。
この町の水路もまた、その延長線上にある。
隧道が貫通したのは、2年前のことだった。
しかし、この2年間隧道に関する発表は何一つされていない。
現場では、まだ半信半疑の空気が残っている。
「隧道は貫通していないのではないか」「国は何かを隠している」
そんな話が、酒場や詰所で囁かれてはじめていた。
「…山の向こうにも国があったって噂ですよ」
昼休み、見習いの一人が声を潜めて言った。
「国?」
「ええ。……しかも先日、王都にその国の大使が来ていたとか」
エドモンドは眉をひそめた。
「それは、同盟国の大使じゃないのか?」
「でも、見慣れない服装だったって……」
「いつも同じ服装とは限らないだろ。噂話なんて大抵なんてことないことを大げさに言っているだけだ」
そう言って話を切り上げる。
山の向こうに何かがあるかもしれない。
だが、王国が何も言っていない以上、考える必要はない。
その日の午後、作業場に一人の使者が現れた。
整った外套。
土と汗にまみれた現場では、ひどく場違いに見える。
「エドモンド・ハルフォード殿で間違いないな」
「私ですが」
「辞令を持ってきた」
周囲の空気が、張り詰めた。
「2つ先の土の日より、土木省直轄新技術調査室 二級技師を命ずる。」
即時ではない。
エドモンドは内心で安堵した。
「現場の引き継ぎに時間が必要です」
「その件については、すでに手配されている」
使者は淡々と続けた。
「貴殿に代わり当該工区の修繕管理技士として、マルク・ハルフォード元一級主任技師に、暫定的な復帰命令が出ている」
エドモンドは、思わず顔を上げた。
「……父が?」
「今回のみの措置だ」
それで十分だった。
この工区を最初に設計したのは父だ。
引き継ぎ先として、これ以上の適任はいない。
「承知しました」
短く答えると、使者は満足そうに頷いた。
使者が去ったあと、エドモンドは工事をしていた水路の方向を見た。
「……仕事だな」
そう呟いて、エドモンドは明日以降の工程を思い描いた。
自分に与えられた仕事を完遂するために。




