15.朝の挨拶
前夜に同居ルールを決めた翌朝。
部屋の窓から差し込む朝陽が、魔術灯の残光と混ざって柔らかなピンク色を帯びていた。
外からは、遠くの街路を馬車が通り過ぎる音や、早朝の商人たちの呼び声が微かに聞こえてくる。
マリンの朝は、プレスト王国の山間の朝とは違い、どこか穏やかで、湿った空気が肌に優しい。
部屋全体が、昨夜のハーブティーの残り香と、朝の新鮮な空気が混じり合って、静かな安堵感を漂わせている。
俺は日の出前に目を覚まし、ルール通りに音を立てないよう注意しながら支度をしていた。
洗面所で顔を洗うときも、水を流す音を最小限に抑え、足音は忍ばせて。
キッチンでは、買ってきたパンを軽く温め、果物を丁寧に切る。
包丁の音が響かないよう、ゆっくりと刃を動かした。
セシリアの個室の扉はまだ閉まったまま。
テーブルの上に置かれた昨夜のルール表が、朝陽に照らされて白く光っている。
その紙を見ているだけで、胸の奥が少し温かくなった。
――ちゃんと“同居人”になったな。
そんなことを思いながら、俺はソファに腰を下ろし、果物をフォークで刺した。
箸で食べようかと思ったが、今日はフォークにしてみる。
昨夜のセシリアの箸挑戦を思い出して、くすりと笑いが漏れた。
その時、個室の扉が小さく軋む音を立てて開いた。
「……ん……」
寝起きのセシリアが、髪を少し乱したまま姿を現す。
彼女の長い金髪は、夜の間に少し絡まり、朝陽を受けて淡く輝いている。
寝巻きの上に軽く羽織ったローブが、肩からずれかかり、細い鎖骨がわずかに覗いている。
目はまだ少し腫れぼったく、長い睫毛が重そうに伏せられ、頰には枕の跡が薄く残っている。
足取りはふわふわで、まるで夢の中から抜け出してきたように頼りない。
彼女は壁に軽く手をつき、目を細めて部屋を見回す。
寝ぼけた視線が、俺の顔に止まり、一瞬だけ固まる。
それから、ゆっくりと焦点が合っていく。
唇がわずかに開き、息を吸う音が聞こえた。
セシリアの肌は、朝の光に透けるように白く、頰が自然なピンク色を帯びている。
ローブの袖から覗く手首は細く、指先が少し震えている――寝起きの冷えか、それとも昨夜の緊張の残りか。
彼女は髪を耳にかける仕草をし、乱れた前髪を直そうとするが、うまく行かず、かわいらしく眉を寄せる。
全体として、普段の研究者らしい凛とした雰囲気とは違い、柔らかく、無防備な少女のようだ。
その姿が、俺の胸を不思議とくすぐる。
「おはよう、セシリアさん」
俺はルール通り、声をかけながら立ち上がった。
昨夜の「おやすみ」の余韻が、まだ胸に残っている。
自然と、柔らかい笑みが浮かぶ。
「……おはよう……エドモンドさん」
彼女の声は眠そうで、少し掠れている。
それでも、ちゃんと返事をしてくれた。
ぎこちないが、温かい挨拶。
セシリアは目をこすりながら、ゆっくりとリビングへ進んでくる。
俺の準備した朝食を見て、少し驚いた顔をする。
腫れぼったい目が、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「……もう、準備してるんですね」
「早起きなので。セシリアさんはまだ寝てていいですよ」
「いえ……私も、起きます。ルール通り、声かけますよね」
彼女がテーブルに寄り、果物の皿を覗き込む。
自然と、俺の隣に立つ形になる。
肩が触れそうで触れない距離。
セシリアの寝起きの匂い――ハーブの残り香と、柔らかな布の匂いが、ふっと鼻をくすぐる。
彼女のローブの裾が、俺の足に軽く触れそうになる。
セシリアは気づいていないようで、髪をもう一度耳にかける。
その仕草で、首筋が露わになり、朝の光がそこを優しく照らす。
「果物……切ってくれて、ありがとうございます」
「どういたしまして。セシリアさん、紅茶淹れますか?」
「お願いします……」
俺はキッチンに戻り、ポットを火にかける。
セシリアはテーブルに座り、ルール表をぼんやり見つめている。
その横顔が、朝陽に照らされて優しく輝く。
寝ぼけた表情が、少しずつシャープになっていく。
「……昨夜のルール、早速守ってるんですね。音、気をつけてくれて」
「ええ。セシリアさんが夜型だって知ってるから」
彼女が小さく微笑む。
頰の枕跡が、まだ薄く残っている。
「私も、夜中は静かにします。……一緒に暮らすって、こういうことなんだな」
「そうですね。毎日、少しずつ慣れていきましょう」
紅茶の湯気が立ち上る。
俺はカップを二つ用意し、セシリアの隣に座る。
触れそうで触れない距離が、なんだか心地いい。
朝の静かな部屋で、二人の息遣いが混ざる。
セシリアが紅茶を一口飲んで、ふっと息を吐いた。
彼女の指が、カップを優しく握る。
寝起きの指先は、まだ少し冷たそうだった。
「……朝から、こんなに穏やかだなんて……思ってなかった」
「俺もです。異国で、こんな朝を迎えるなんて」
彼女が、ルール表の端を指でなぞる。
指先が、紙の上で優しく滑る。
「……これから、毎日『おはよう』って言い合えるんですね」
セシリアの頰が、ほんのり赤くなる。
朝陽のせいか、それとも照れか。
彼女は目を伏せて、髪を指でいじる。
「……楽しみです」
彼女の声は小さくて、でもはっきりしていた。
俺たちは、静かに朝食を続ける。
果物の甘み、紅茶の温かさ、窓から入る朝の光。
すべてが、昨夜の約束を優しく包み込んでいるようだった。
この朝は、日常の始まり。
昨日までの“客人”から、今日からの“同居人”へ。
穏やかで、少し甘い余韻を残して、時間がゆっくりと流れていった。




