【依頼人】人間がいっぱい
セントラル区、「バベルファクトリータワー」27階層。
ネオ・アルカディア最高級食肉加工施設「プライム・ミート・ファクトリー」は、そこに君臨していた。
強化ガラスの向こうには、下層区の街並みが腐った回路基板のように広がっている。
ここから見下ろせば、貧困も暴力も、ただのエピソードにしか見えなくなる。
ソーン・マクラウドは無菌室仕様の白い防護スーツに身を包み、ARバイザー越しに作業台を見つめていた。
年齢は32。イースト区出身の「這い上がり組」だ。
十年前、倍率五百倍の実技試験をパスしてこの聖域に足を踏み入れた。
彼の手元にあるのは、鈍い光沢を放つステンレス台と、その上に鎮座する赤黒い塊。
本物の、牛肉。
ネオ・アルカディアにおいて、家畜は宝石よりも希少だ。
市民の99%が啜る栄養ペーストや培養肉とは、存在の解像度が違う。
DNA配列のゆらぎ、筋肉繊維の不均一さ、そして血管に残る微かな鉄の臭い。
一キロあたり百万クレジット。イースト区民の半年分の給料が、このまな板の上にある。
彼は超音波振動刃を起動した。
微かな高周波音と共に、刃先が肉に吸い込まれていく。
細胞膜を傷つけず、繊維の目に沿って滑らかに解体する。
AIアシストすら凌駕する、十年かけて磨いた職人芸だった。
「よう、ソーン。今日の『ブツ』はどうだ?」
隣のレーンで豚肉を処理している同僚、ジェイソンが通信越しに話しかけてきた。
「極上だ。A5ランク、マーブリング指数98%……。どこぞの企業役員の誕生日パーティー用らしい」
「へっ、食った瞬間に動脈硬化で死ねばいいのにな」
軽口を叩きながらも、二人の手は止まらない。
加工場内は、死体安置所のように静謐で清潔だった。
ナノマシンによる除菌システムが常時稼働し、空気中の塵一つ見逃さない。
床は鏡のように磨き上げられ、作業員たちの白い影を映し出している。
ソーンは、この仕事に奇妙な誇りを持っていた。
決して自分の胃袋には入らない肉。
だが、この「完璧な切断」には美学がある。
イースト区の工場で泥にまみれて廃材を分別していた頃にはなかった、プロフェッショナルとしての尊厳。
ピピッ。
ARバイザーに『加工完了』の緑文字が浮かぶ。
ソーンは切り分けた肉を真空パックし、ベルトコンベアへ流した。
それは自動で搬送され、窒素冷凍され、天上人の食卓へと昇っていく。
「ふぅ……」
作業台を洗浄し、次のロース肉をセットする。
単調だが、集中力を要する作業。
そのリズムの中で、ソーンの視線は無意識にフロアの奥へと吸い寄せられた。
――第4加工エリア。
そこには、分厚い鉛の遮蔽扉が立ちふさがっている。
『動物肉セクター』
警告色のマーキングがされたその扉は、ソーンが入社して以来常にそこにあった。
表向きは「希少生物加工エリア」。ドーム外から密輸された絶滅危惧種や、特殊なジビエを扱う場所だとされている。
だが、違和感はずっと拭えない。
「なあ、ジェイソン。動物肉セクターの担当って、また入れ替わったのか?」
「ああ。先月入った新人が、もう辞めたらしい。精神的に参っちまったんだと」
「精神的に? ただの肉屋だろ?」
「さあな。噂じゃ、解体する『動物』の鳴き声が、夢に出てくるらしいぜ」
ジェイソンは肩をすくめ、話題を打ち切った。これ以上話すのは社内のタブーだった。
ソーンはナイフを動かしながら記憶を手繰る。
数日前、深夜残業中に見た光景。
動物肉セクターの扉が開き、防護服――それも完全密閉型のNBCスーツを着た作業員たちが、大型の冷凍コンテナを運び出していた。
台車の車輪が軋むほどの重量。
すれ違いざま、彼らの会話が漏れ聞こえた。
『……今月で、もう15体目だぞ』
『上からのオーダーが増えてる。新鮮なのがいいんだと』
『新鮮ったって……まだ脳波が残ってたぞ、さっきの』
脳波……。
家畜相手に使う言葉だろうか?
ソーンは首を振った。余計な詮索は身を滅ぼす。
ここはセントラル区。知る権利は、クレジット残高に比例するのだ。
――その時。
不意に場内アナウンスが響いた。
『ソーン・マクラウド。至急、所長室まで来なさい』
同僚たちの視線が集まる。
呼び出し。ミスをした覚えはない。むしろ、今期の加工精度はトップクラスだ。
「なんだなんだ? やらかしたか?」
「……行ってくる」
ソーンはナイフを置き、手袋を外した。
背中に冷たい汗が伝う。
■
午後2時。
ソーンは血の付いた手袋を外し、消毒液で指先を洗った。
廊下を歩く足音が、やけに大きく響く。
ミスはないはずだ。衛生違反もゼロ。解雇される理由はない。
(頼むぞ……いい知らせであれ)
所長室のドアノブは冷たかった。
「失礼します」
「入れ」
中に入ると、所長のハリソンが革張りの椅子に深々と体を沈めていた。
恰幅の良い男だ。
高級スーツに身を包み、デスクの上には本物のコーヒー豆で淹れたアロマが立ち上っている。
「座りたまえ、ソーンくん」
促されるまま対面の椅子に座る。
ハリソンは値踏みするような視線で、ソーンの全身を舐め回した。
「入社して十年。イースト区出身の作業員としては異例の好成績だ。特にナイフの使い方は芸術的だね」
「……光栄です」
「君のような人材を、いつまでも一般ラインに埋もれさせておくのは惜しい」
ハリソンはデスクの上のホログラムを操作した。空中に複雑な組織図が展開される。
「単刀直入に言おう。君を昇進させたい!」
ソーンは瞬きをした。
「昇進……ですか?」
「ああ。新設されたポストだ。『動物肉セクター』の統括チーフ。どうだ?」
心臓が早鐘を打った。
動物肉セクター。あの鉛の扉の向こう側。
「……あそこは、特殊な仕事を扱う部署だと聞いています」
「その通り! 非常にデリケートで、高度な技術と精神力を要する。だからこそ、君のような熟練工が必要なんだ!」
ハリソンは甘い声で囁く。
「給料は現在の3倍。月給90万クレジットを保証しよう!」
「きゅ……90!?」
ソーンは息を呑んだ。
90万。セントラル区の中流層ですら手が出ない金額だ。
イースト区に住む家族を呼び寄せられる。
スラムの汚染空気から解放され、医療保険に入り、人間らしい生活ができる。
「さらに居住権のアップグレード、社用車の支給、子供がいれば学費も全額負担する。……君が望む『成功』の全てがここにある」
甘美な誘惑。
だが、ソーンの背筋を冷たいものが走っていた。
タダより高いものはない。この街の鉄則だ。
「……具体的な業務内容を、教えていただけますか」
「真面目だな、君は」
ハリソンは苦笑し、立ち上がった。
「いいだろう。百聞は一見に如かずだ。ついて来たまえ」
二人は所長室を出て、工場の奥へと進んだ。
一般エリアを抜け、警告色のラインを跨ぐ。
『動物肉セクター 特別管理区域』。
重厚な鉛の扉。ハリソンが虹彩認証を行うと、圧縮空気が抜ける音と共に扉が開いた。
冷気。そして、鼻を突くホルマリンと鉄錆の臭い。
そこは広大な解体場だった。
だが見慣れた吊りフックにぶら下がっているのは、牛でも豚でもなかった。
「ヒッ……!?」
白い防水シートに包まれた、細長い塊。
それが、数十、いや数百体。整然と並んでいる。
「これ、は……」
ソーンは近くの作業台に目を凝らした。
シートから、青白い腕がはみ出している。
五本の指。爪。手首には、バーコードの焼印。
人間、だ。
「……っ」
声にならない悲鳴。
ソーンは後ずさり、腰を抜かしそうになった。
「驚くことはない! ただの『資源』だよ」
ハリソンは平然とシートを捲った。
現れたのは若い男の遺体だった。痩せこけ、肌は土気色だが、筋肉の付き方は悪くない。
首筋には、ウエスト区特有の光り輝くタトゥー。
「こいつは先週、過労死した労働者だ。身寄りなし。行政が処分に困っていたところを、我々が引き取った」
「ひき……とった?」
「ああ。『ヴァイス法』を知っているかね?」
ハリソンは遺体の腕を軽く叩いた。ペチ、と乾いた音が響く。
「5年前、あのヴァイス前市長が制定した『有機資源再利用促進法』だ。ドーム都市の閉鎖環境において、あらゆる有機物はリサイクルされなければならない。……たとえそれが、元人間であってもね」
ソーンは嘔吐感を堪えて口元を押さえた。
「ま、まさか……俺たちが加工していた肉も……?」
「いやぁ、安心しろ! 君たちが触っていたのは、本物の牛や豚、あるいは最高級の培養肉だよ」
ハリソンはニヤリと笑った。
「このセクターで加工された『これ』は、安価なミンチ肉に混ぜられる。ハンバーガー、ソーセージ、ミートボール……下層区民の貴重なタンパク源だ。素晴らしいエコシステムだろ?」
「共食いじゃないか……!」
「人聞きが悪いな。『SDGs』と言ってくれ。それに、脳は混ぜてないからプリオン病も起きん」
ハリソンはソーンの肩に手を置いた。その手は冷たく、重かった。
「ソーン。君のナイフ捌きは完璧だ。筋繊維を傷つけず、骨から肉を剥がす技術。……この『素材』を無駄なく加工できるのは、君しかいない」
目の前には若者の遺体。
それを、肉塊に変える仕事。
報酬は90万クレジット。家族を救える金。
「断れば……どうなりますか」
震える声で尋ねる。
ハリソンの目が、鋭く細められた。
「君はここを出て、元のラインに戻る。……だが、口外は許されない。もし喋れば、君自身が『資源』としてこの台に乗ることになるだろう」
脅しではない。事実としての通告。
「さあ、選びたまえ! 地べたを這いずり回るか、雲の上で美食に舌鼓を打つか」
ハリソンはソーンの耳元で囁いた。
「君も、家族に『良い肉』を食べさせてやりたいだろう?」
ソーンは、作業台の上の若者を見つめた。
虚ろな瞳が、天井の蛍光灯を反射している。
世界が歪んで見えた。
職人としての誇りも、人間としての尊厳も、圧倒的な権力の前では無力だった。
「……少し、時間をください」
絞り出した声は、自分のものではないようだった。
「いいだろう。明日の朝まで待つ」
ハリソンは満足げに頷き、出口を指差した。
重い扉が閉まる。
ソーンは廊下に一人、取り残された。
手の震えが止まらない。
消毒液の臭いが、肺の奥までこびりついて離れない。
これがこの街の正体。
ネオ・アルカディアは、死者の肉の上に築かれていたのだ。
通常営業再開です




