【断罪】殉職
カーバンクルは頭を抱えたまま、数秒間静止していた。
脳内を嵐のように吹き荒れていた無数の声が、潮が引くように静まっていく。
脳内の冷却ファン……のようなイメージが唸り、リミッターが再接続される。
瞳の幾何学模様が消え、いつもの赤い瞳が戻ってきた。
彼女はゆっくりと顔を上げた。
視界の端に、動かない影が見えた。
「……コバヤカワ」
カーバンクルは駆け寄り、膝をついた。
コバヤカワは仰向けに倒れていた。
顔面は原型を留めないほどに破壊され、口からは絶え間なく血が溢れている。
呼吸は浅く、胸の上下動は今にも止まりそうだった。
「コバヤカワ、聞こえる?」
呼びかけに、腫れ上がった瞼がわずかに反応した。
必死に開かれた瞳は、もう焦点を結んでいない。
「……あ……」
潰れた喉から、空気の漏れるような音がした。
カーバンクルは彼の手を握った。冷たくなり始めていた。
「大丈夫。ヴァイスには勝ったよ」
コバヤカワの唇が微かに震えた。
最期の力を振り絞り、言葉を紡ごうとしている。
カーバンクルは耳を寄せた。
「……と……う……」
「うん」
「……父……さん……の」
その一言だけが、聞き取れた。
涙が一筋、血に汚れた頬を伝う。
彼は最期まで、敬愛する父のことを想っていた。
父の背中を追い、その正義を守ろうとした自分の生き様が、間違っていなかったと信じたくて。
カーバンクルは強く手を握り返した。
「あなたは、お父さんの正義を守った。立派な刑事だった」
「は、は……」
コバヤカワの唇が、わずかに吊り上がった。
痛みで歪んではいたが、それは確かに安堵の微笑みだった。
「ありが、とう、な……」
「…………」
「また……飯で、も……奢っ、て……」
彼の手が、カーバンクルの手を握り返そうとして――
ふっ、と力が抜けた。
胸の動きが止まる。
瞳から光が消え、永遠の静寂が訪れた。
苦しみと矛盾に引き裂かれるような日々だっただろう。
そんな中で、カーバンクルとショウとの交流は、きっと彼にとっても救いだったのだ。
警察と犯罪者。
その垣根を越え、一つの正義のために戦った友ができたのだから。
……カーバンクルは、彼の手をそっと床に置いた。
その死に顔は、重荷を下ろしたように穏やかだった。
「……おやすみ」
彼女が静かに瞼を閉じさせた、その時だった。
「くそッ……くそぉぉぉッ!」
獣のような咆哮が響いた。
ヴァイスだ。
壁に寄りかかり、ふらつきながらも立ち上がろうとしている。
口から血を吐き、顔色は死人のように白い。内臓破裂は致命傷のはずだ。
だが、その眼光だけは異様にぎらついている。
「私の計画……理想は、まだ……!」
血まみれの拳で壁を殴りつける。
「まだなにも終わっていない。終わってなどいないぞ、No.021……!」
彼はよろめきながら、窓の方へ後退し始めた。
カーバンクルが立ち上がる。
「逃がさない」
「君は……私の最高傑作だったのに! 君は世界を救えるのに! なぜ私を拒絶する!?」
ヴァイスは血を吐き散らしながら叫んだ。怒りと、絶望と、理解不能なものへの恐怖。
「私は人類の救世主だぞ! 君と共に新世界を創る男だ!」
「興味ない」
カーバンクルは冷たく言い放った。
「私は404号室の始末屋。依頼を完遂するだけ」
「愚かな……ッ!」
ヴァイスは踵を返し、ひび割れた窓へ向かって走り出した。
全力の体当たり。
ガシャァァァン!
強化ガラスが粉砕され、破片と共にヴァイスの体が虚空へ踊り出る。
ここは地上500メートル。
「待て、てめ……ッ!」
ショウが叫んで窓辺へ駆け寄る。
眼下を見下ろすと、ヴァイスは建物の外壁にあるメンテナンス用足場に、片手でぶら下がっていた。
チタン製の腕力と骨格が、落下の衝撃に耐えたのだ。
彼は足場に飛び移り、器用に下層へ降りていく。
ヴァイスは一度だけ振り返り、二人を見上げた。
風に煽られる髪。血に濡れた顔には、おぞましい執念が張り付いている。
「これで勝ったと思うなよ、カーバンクル! 私は諦めない! 必ず、必ず君を迎えに来る!」
呪詛のような叫びが、ビル風に乗って届いた。
「私は人類の希望だ! 終わりではない、ここからが本当の始まりだ!」
ヴァイスは足場を駆け下り、下層階の窓を破って姿を消した。
カーバンクルは風に吹かれながら、その消失点を見つめていた。
ショウが隣に立つ。
「追うか?」
彼女は頷いた。
「うん。依頼は終わってない」
振り返り、コバヤカワの亡骸を見る。
「コバヤカワは私に託した。ヴァイスを止めろって」
カーバンクルは拳を固く握りしめた。
「404号室の始末屋として、必ずケリをつける」
「……ああ。そうだな」
ショウも壊れかけた義手を見つめ、口元を歪めた。
「仲間を殺された借りは、きっちり耳揃えて返さなきゃな」
二人は頷き合い、背を向けた。
執務室を出ていく足音が、遠ざかる。
残されたのは、コバヤカワの遺体だけ。
窓から吹き込む風が、彼の髪を優しく撫でていた。
コバヤカワ・タクミ。享年29歳。
父の正義を継ぎ、法と市民を守ろうとした男。
彼の鼓動は止まった。
だが彼が灯した正義の火は、まだ消えてはいなかった。
■
ヴァイスは、よろめきながら市庁舎の地上エントランスを抜けた。
非常階段を降りる間、何度壁に血反吐をぶちまけたか分からない。
内臓が焼け付くように熱い。
視界はノイズ交じりで、耳鳴りが警告音のように鳴り続けている。
それでも、彼の足は止まらなかった。
自動ドアが開くと、セントラル区の洗練された街路が広がっていた。
だが、いつもの優雅な光景ではない。
そこには、黒い波があった。
「おいおい、マジかよ……」
「なんなんだこの映像は!」
「出てこい、市長! 説明しろよ!」
群衆。
数千人の市民が、市庁舎前広場を埋め尽くしていた。
彼らは一様に携帯端末を掲げ、先ほどのライブ配信の録画を貪るように見つめている。
ヴァイスの告白、人体実験、新人類計画。
再生されるたびに、彼への嫌悪と恐怖が伝染していく。
ヴァイスが血まみれのスーツで現れたのを、最前列の男が見つけた。
「おい、あれ……市長だぞ!?」
数千の視線が、一斉に彼を刺した。
かつての威厳は見る影もない。血と脂汗に汚れ、青白い顔をした死に損ない。それが今の彼だった。
ざわめきが波紋のように広がる。
「本当に……あの人が……」
「悪魔だ」「人殺し!」「説明しろ!!」
「……どけ……」
ヴァイスは彼らを無視し、人混みをかき分けて進もうとした。
だが、市民たちが壁となって立ちはだかった。
「待てよ! どこへ行く気だ!」
「逃げるのか! 警察を呼べ!」
一人の若い男が、ヴァイスの鼻先にスマートフォンのカメラを突きつけた。
「おい市長! よくも俺たちを騙してくれたな! 子供を実験台にして……恥ずかしくないのかよ!」
男の背後には、同じように端末を構えた群衆がいる。
彼らは安全圏から石を投げ、その様子を拡散しようとする傍観者だった。
「今、全ネットに流してるんだぞ! 何か言ってみろよ!」
ヴァイスは立ち止まり、若い男を見下ろした。
その瞳には、侮蔑を超えた昏い怒りが燃え始めていた。
「……ライセンスもないのに記者気取りか?」
地を這うような低い声。
若い男は一瞬ひるんだが、背後の群衆の視線に後押しされて虚勢を張った。
「ライセンス? 俺は市民だ! 納税者だ! 知る権利があるんだよ! あんたには説明責任が――」
「黙れ」
ヴァイスが一歩踏み出すと、殺気に圧された周囲が少しだけ引いた。
「説明など無意味だ。お前のような蒙昧な輩に、私の崇高な理想が理解できるはずがない」
若い男は顔を真っ赤にして叫んだ。
「蒙昧だと!? あんたこそ何様だ! 犯罪者のくせに!」
「お前たちは何も分かっていなァい!」
ヴァイスは血を吐きながら咆哮した。
「私は人類を救おうとしたのだ! お前たちのような、食って寝て垂れ流し、匿名という安全圏で文句を言うだけの無知な家畜を救うために! それを……!」
群衆からブーイングが爆発する。
「ふざけるな!」「言い訳するな!」「死ね、クソ野郎!」
若い男はさらにカメラを近づけ、ヴァイスの顔をドアップで映した。
「今の発言、全部拡散してやるからな! ネットの炎上からは逃げられないぞ! あんたはもう社会的に終わりだ!」
……その瞬間、ヴァイスの中で理性が焼き切れた。
「――だがここは、匿名の場ではなァァい!!」
ドゴォッ!!
ヴァイスの拳が閃いた。
チタンの拳骨が、若い男の顔面を真正面から打ち抜く。
鼻が陥没し、頭蓋骨が砕ける不快な音。
「グベッ――」
男の身体が後方へ吹き飛び、地面に叩きつけられた。
ピクリとも動かない。頭部から広がる血だまりが、敷石の目地を染めていく。
静寂。
数千人の群衆が、凍り付いたように沈黙した。
市長が、市民を殺した。
目の前で。
カメラの前で。
自分たちと同じ「安全圏」にいた人間を。
「ひっ……」
誰かの悲鳴がスイッチだった。
パニックが炸裂する。
「ぎゃあああああああっ!」
「逃げろ!」
「殺されるぞ!」
群衆は蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。誰もヴァイスを取り押さえようとはしない。
ヴァイスは動かなくなった男を見下ろし、血に濡れた拳を眺めた。
「愚民め……」
彼は吐き捨てるように言った。
「大勢いれば安全だとでも思ったか? 現実には常に死が隣にいる。お前たちはそれを忘れている」
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
ヴァイスはよろめきながら、裏路地へと走り出した。
背後では、遠巻きにした市民たちが罵声を浴びせている。
「ひ、人殺し!」
「逃げるな!」
「誰か捕まえろ!」
だが、誰一人として追いかけてはこない。
彼らはただ吠えるだけの羊だ。彼はそれを嫌というほど理解していた。
ヴァイスは路地の闇に消えていく。
セントラル区の清潔な舗道に、点々と続く血の足跡を残して。
ネオ・アルカディア市長、マーカス・ヴァイス。
彼は今、全ての地位と名誉を失い、追われる身となった。
彼の築き上げた虚飾の塔は崩壊した。
だが、彼の狂気はまだ死んでいない。
(終わりじゃない)
脳内には戦闘データがある。
ネオ・テック社には研究のバックアップがある。
他都市との秘密協定もある。
(まだ何も終わりではない!!)
逃げ延びれば、まだ再起できる。
ヴァイスは暗闇の中を走り続けた。
内臓の激痛に耐え、血反吐を飲み込みながら。
人類の救世主として。
いや――ただの殺戮者として。
コバヤカワくん、ぶっちゃけプロット段階には影も形もなくて「12体の敵のうち1体倒したな…次から2人1組にするか」「でもなんかそれだと一人余るよな、どうしよ」「なんか単独行動でハブられてるやつでも出すか」と急に湧いたキャラなんですが、今となっては大変愛着深かったです…………




