【依頼人】正義の継承
ヴァイスは、ゆっくりと顔を上げた。
その表情にあったのは――恐怖でも、動揺でもない。
あまりに冷たく、粘着質な嘲笑だった。
「ふふ……ははは」
「……!?」
「はっはっ、ははははは!」
乾いた笑い声が、執務室の空気を震わせる。
彼は流れ続ける市民の罵詈雑言を見つめながら、楽しそうに肩を揺すった。
「なるほど、これが君の切り札かコバヤカワ刑事」
「何が……おかしい……!?」
「いや、見事だ。私の言葉を全市民に届け、私の計画を白日の下に晒した。実に見事な手腕だよ」
彼はパン、と一度だけ手を叩き、次の瞬間にデスクの通信スイッチを切った。
ホログラムが消滅し、コメントの奔流が遮断される。
「――で? それがどうした」
「……!?」
ヴァイスは三人を見回した。
その瞳には、狂人の濁りのない確信が宿っている。
「それで何が変わる?」
「……何?」
コバヤカワが眉を顰める。
「市民が怒っている? 当然だ。彼らは真実の価値を理解できない愚民だ。目の前の感情だけで動く、思考停止した家畜の群れだ」
彼の声には、同情すら混じっていた。
「だが、衆愚というものは面白い。結果さえ与えれば、昨日の悪魔を今日の神として崇める。今は私を罵るだろう。だが10年後、私が外界を制圧し、この閉鎖空間から人類を解放した時――彼らは私を何と呼ぶと思う?」
彼は窓の外、ドームの天井を指差した。
「『人類を救った偉大な指導者』だ。歴史書にはそう刻まれる」
「寝言を言うな。お前は今ここで逮捕され、裁かれるんだ」
「君は視野が狭いな」
ヴァイスはデスクから一冊のファイルを放り投げた。
床に落ちて開いた書類には、『ニュー・エデン』『ユーロドーム』『シャングリラ』といった他都市の印章が並んでいる。
「新人類計画は、私一人の妄想ではない。世界規模の生存戦略だ。他の都市の指導者たちは、すでに私を支持している」
彼は歪んだ笑みを浮かべた。
「ネオ・アルカディアの民意など、取るに足らないノイズだ。この都市の住人が私を拒絶するなら、私は他の都市へ拠点を移すだけのこと。私は人類という『種』の救世主であって、800万人の愚民のご機嫌取りではないんだよ」
コバヤカワの顔が怒りで歪む。
「お前……自分が何を言っているか、分かっているのか……!」
「事実だ。選ばれた人間だけが、正しい選択を行えるのだよ」
ヴァイスは一歩、コバヤカワに近づいた。
その表情から急激に温度が消え失せる。
嘲笑から、底冷えする憤怒へと。
「それはそれとして――私をコケにしてくれた罪は、相応に償ってもらう」
突如、ヴァイスの拳が閃いた。
狙いはコバヤカワの顔面ではなく、胸元。
ガシャッ!
咄嗟に身を捻ったが、間に合わない。
チタン合金の拳が胸ポケットを直撃し、中のボディカメラごと肋骨を打ち砕いた。
破壊された電子部品が床に散らばる。
「がぁっ……!」
衝撃でコバヤカワがたたらを踏む。配信が途絶えた。
ヴァイスは粉々になったカメラを踏みつけ、冷ややかに告げた。
「これでショーは終わりだ。さて、続きを始めようか」
間髪入れずに放たれた右ストレートが、コバヤカワの顔面を捉えた。
硬質なハンマーで殴られたような、ドッ、という音が響く。
頬骨が砕け、鼻が潰れる感触。
「ぐあああっ……!!」
コバヤカワの体が数メートル吹き飛び、床に叩きつけられた。
口から大量の血が溢れ出す。
「コバヤカワ!」
ショウが叫んで飛び出そうとするが、ガーディアンのガトリングガンが唸りを上げて行く手を塞ぐ。
カーバンクルも動けずにいる。
ヴァイスは、虫の息のコバヤカワに歩み寄った。
「私の計画を否定したな。私の高潔な理想を、下劣な見世物にしてくれたな」
彼は倒れたコバヤカワの髪を掴み、無理やり上体を起こさせた。
「愚かな男だ。父親と同じで、身の程を知らない!」
ドガッ。
無防備な顔面に、チタンの拳がめり込む。
歯が砕け飛び、顎が歪む。
「が……は……っ」
「やめろ……! やめろっ!」
ショウの絶叫も届かない。
ヴァイスは無表情に、機械的に殴り続けた。
三発、四発、五発。
コバヤカワの顔は原型を留めないほどに腫れ上がり、意識は闇に沈みかけている。
だが、彼の手は動いた。
震える指先が、腰のホルスターへ伸びる。
父の形見。.357マグナム。
それだけが、彼の正義の最後の拠り所だった。
「まだ抵抗するか」
ヴァイスは呆れたように吐き捨て、その手首を万力のような力で掴み上げた。
「ウグ……!」
「離せ」
ギリギリと骨が軋む。だが、コバヤカワは離さない。
指の骨が折れようとも、これだけは手放せない。
「しぶとい男だ」
ヴァイスは苛立ち、コバヤカワの腹部に膝蹴りを叩き込んだ。
ドズッ!
肉を通り越し、内臓を直接破壊するような重い音。
肝臓が破裂し、腹腔内で大量出血が起きる致命的な一撃。
「ごぱぁっ……!」
コバヤカワの口から、どす黒い血塊が吐き出された。
それでも、彼は銃を握りしめている。
ヴァイスは眉をひそめ、さらに脇腹へ膝を突き刺した。
メキメキと、残っていた肋骨がすべて砕ける音。
肺に骨片が刺さり、呼吸音が湿った喘鳴に変わる。
コバヤカワの身体から力が抜けた。
もはや、生きているのが不思議な状態だ。
ヴァイスは彼をゴミのように投げ捨てた。
「いやぁ、たまには運動も悪くないね。……では、死ね」
彼は動かなくなったコバヤカワの頭を踏み潰そうと、足を上げた。
その瞬間――
赤い影が走った。
カーバンクルだ。
ガーディアンの射線上に飛び込み、弾丸が肩を掠めるのも構わずに跳躍する。
痛みなど計算に入れていない。
彼女の視線は一点、ヴァイスの左手に握られたリモコンだけに注がれていた。
「なッ……!?」
ヴァイスが反応するより速く、彼女は空中でリモコンを奪い取った。
着地と同時に、全力で床へ叩きつける。
ガシャン!
プラスチックの破片が飛び散り、電子回路が砕け散る。
その瞬間、四体のガーディアンが糸の切れた人形のように停止した。
静寂。
そして、爆発的な殺気が部屋を満たす。
「よくも……コバヤカワを……!」
ショウが吠え、義手のブレードを展開して停止したロボットを一刀両断にした。
硬質のパーツが飛び散り、ロボットが崩れ落ちる。
静寂が戻った執務室に、湿った呼吸音が響く。
「……カーバン、クル」
床の血だまりの中から、かすれた声が呼んだ。
カーバンクルは振り返る。コバヤカワが、砕けた顔をわずかに上げ、彼女を見つめていた。
全身の骨が折れ、内臓が破裂していても、彼の右手だけは辛うじて生きていた。
銀色に輝く.357マグナムを、死んでも離すまいと握りしめている。
「……こっち、へ」
カーバンクルは一瞬躊躇したあとで駆け寄った。
ショウがヴァイスを牽制し、彼女の背中を守る。
コバヤカワは震える手で、リボルバーのグリップをカーバンクルの方へ向けた。
父の形見。コバヤカワ家の誇り。彼の魂そのもの。
「これを……、使え……」
カーバンクルは目を見開いた。
それは彼にとって、命よりも大切なものではなかったのだろうか。
「俺、では……もう、撃てない……」
コバヤカワは血の泡を吐きながら、絞り出すように告げた。
「だから……俺から、お前に……依頼、だ」
彼の瞳から、死の淵にあっても消えない光が放たれる。
「ヴァイスを……止めてくれ。この街と、父さんの正義を……守ってくれ……」
カーバンクルは無言で、血に濡れたリボルバーを受け取った。
ずしりと重い。
それは単なる金属の質量ではない。
二代にわたる刑事の執念と、託された希望の重さだ。
「……分かった」
彼女はリボルバーのシリンダーを確認し、カチリと戻した。
その所作には、迷いも躊躇いもない。
「依頼、引き受けた」
コバヤカワは安堵したように息を吐き、微笑んだ。
血まみれで、原形を留めない顔だったが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……頼んだ……ぞ……」
彼はそのまま、ゆっくりと床に崩れ落ちた。
動かなくなった背中に、カーバンクルは一瞬だけ視線を落とし――そして立ち上がった。
両手でマグナムを構える。
その赤い瞳が、冷徹な殺意と熱い意志を宿して、ヴァイスを射抜く。
ショウが義手のブレードを甲高い音で展開し、彼女の隣に並んだ。
「行くぞ、カーバンクル」
「うん」
「くだらないな……仲間ごっこは似合わないぞ、No.021……!」
二人の影が重なる。
対するは、チタンの骨を持つ怪物。
最後の戦いが幕を開けた。
ここに来て依頼人タグである




