【依頼人】記憶と体を売らされて
「もう一回……あと一回だけ……」
抽出室のリクライニングチェアに横たわっているエリナの額から汗が滴り落ちる。
これで三度目の記憶抽出だった。今日だけで。
頭に接続された細いケーブルの先では、複雑な機械が彼女の脳から電気信号を吸い上げている。
彼女の記憶が、バイナリデータとなって永久保存される瞬間。
「素晴らしい品質ですよ、エリナさん」
白衣を着た女性技術者が笑顔で言った。
「あなたの17歳の誕生日パーティーの記憶は、とても価値が高いでしょう」
「う、ん……」
エリナは虚ろな目で答えた。その誕生日は特別だった。
サウス区で暮らす彼女の両親が、一年間の貯金をはたいてケーキを用意してくれた日。
彼女が奨学金を獲得した祝いを兼ねていた。
でも、もう思い出せない。
抽出された記憶は薄れていく。
大切な日の鮮明さが失われ、ぼやけた写真のようになる。
「先日のVIPルームの支払いは、これで完了です」
彼女は頷き、よろめきながらチェアから立ち上がった。
足元がふらつく。心に空洞ができたような感覚だった。
■
さらに、一ヶ月後。
「エリナ・マクレイ、あなたの奨学金は正式に停止されました」
大学事務局からの通知がホロスクリーンに浮かぶ。
「また授業を全て欠席しています。このままでは退学処分も検討せざるを得ません」
メッセージの下には、グリフィス教授からの個人的なメモ。
「心配しています。何があったのか話し合いませんか?」
彼女はスクリーンを消した。今はそんなことを考える余裕がない。
彼女の脳は「次の記憶」だけを求めていた。
記憶を提供する代わりに得られる「無料クレジット」では、もはや足りなくなっていた。
彼女の欲望は増す一方だったからだ。
プルースト・バーのカウンターに座り、彼女はヴィットを待った。
彼は客と談笑していたが、彼女を見つけるとすぐに近づいてきた。
「エリナさん。今日は何を望まれますか?」
「もっと強いものが欲しい……『絶対的な力』か『完全な恍惚』を」
ヴィットは難色を示した。
「それらは非常に高価な記憶です。あなたの提供した記憶では……」
「じゃあ何をすればいいの!? 私、私はあれがないともう……!」
声を荒らげたエレナに、彼は意味ありげに微笑んだ。
「より価値のある『体験』が必要です。それを作って、売るんです」
「体験を作る……? どうすれば……」
ヴィットは彼女の耳元で囁いた。
「特別な紳士たちが、あなたのような美しい知性を持つ若い女性と……記憶に残る時間を過ごしたいと望んでいます」
彼女はハッとした。
「あなた……私に売春をさせようとしてるの?」
「そんな俗な言葉は使わないでください」
ヴィットは軽く笑った。
「これは『記憶創造セッション』です。価値ある体験を作り、それを記憶として提供する。
そして、もっと素晴らしい記憶を体験する権利を得る……循環するシステムですよ」
エリナは震えた。
これは、完全に間違っている。
しかし、彼女の脳が次の記憶体験を求めて疼いていた。
「特別なことはありません。それに、記憶抽出を行えば、その体験自体も薄れていきますから」
「でも、記憶が薄れても……体はどうなるの?」
「そのための薬もあります」
ヴィットは用意周到に、小さな青い錠剤を見せた。
「これを飲めば、体も無事でいられますよ。ナノマシンによる回復促進薬です」
エリナはそれを受け取ると、自分が頷いているのをどこかから見ていた。
自分自身の意志とは別に、彼女の体が動いているようだった。
■
セントラル区・高級ホテル。
「ありがとう、最高だったよ」
見知らぬ中年男性が彼女の頬に触れた。
高級スーツ姿の男性は、彼女が提供した「サービス」に満足しているようだった。
エリナはぼんやりとベッドに座っていた。
打たれた薬の影響で、何が起きたのか詳細は覚えていない。
ただ、体の痛みと不快感だけが残っている。ゾクゾクするような快感と不快感……。
「ヴィットには、特別だったと伝えておくよ」
男は高額なクレジットチップを彼女のバッグに入れた。
それはすぐにプルースト・バーでの支払いに使われるだろう。
男がドアを閉めて去ると、エリナはシャワーへと向かった。
熱い湯が肌を焼くように流れても、内側の汚れは洗い流せない気がした。
後で、このセッションの記憶も抽出される。
そして彼女は「絶対的な力」という記憶カクテルを体験できる。
それはセントラル区の企業所有者の記憶だと言われている。
全ては、そのためだった。
■
「あら、探してたところよ」
プルースト・バーの裏口で待っていたのはレイラだった。
エリナは驚いた顔を上げる。
「何……?」
「近況を確認しに来たの。退学になったって聞いたけど」
レイラの声は甘いが、目は冷たい氷のようだった。
「あなたのせいよ……」
エリナは震える声で返した。
「あなたが私をこの地獄に引きずり込んだんでしょ!」
「私はただドアを示しただけ。入ったのはあなた自身よ」
「なぜ? なんでこんなことを!?」
「あらら、前も言ったと思うけど……。記憶抜きすぎて忘れちゃったの? 私は、あなたに相応しい場所を思い知らせたかっただけよ」
レイラは一歩近づき、エリナの顔をじっと見つめた。その目には憎悪と嫉妬が渦巻いていた。
「あなたみたいな『下層民』が、この社会で成功するなんてあり得ない。沈んでくれてよかったわ」
レイラはエリナの痩せこけた体、青ざめた肌、虚ろな目を見て嘲笑する。
「これが現実。いくら記憶漬けになって遊んだって、あなたは地獄に落ちたのよ!」
エリナは言葉を返せなかった。喉から言葉が出てこない。
「とぉっても良い実験台になってくれたわ。ヴィットも喜んでるわよ」
レイラは高級なハンドバッグからホログラフィックタブレットを取り出した。
「見て。あなたの『記憶提供』のおかげで、プルーストの売上は50%増加したんだって〜。特に『神経工学研究者の堕落』シリーズは大人気よ」
タブレットには、彼女の記憶から作られた広告が表示されていた。
「天才少女の墜落」「知性から快楽への変容」などのキャッチコピーが踊る。
恐怖と屈辱で、エリナの体が凍りついた。
「あなたは最初からモルモットだったのよ」
レイラは満足そうに言い、歩き去った。
「また会いましょう、エリナ。私のこと、覚えてたらだけどね」
■
それから、現在。ウエスト区・エリナのアパート。
エリナは床に散らばる研究ノートを必死に読み返していた。
過去の自分が書いた文字が、今の彼女には他人のもののように見える。
「記憶の電気的安定性に関する新発見」
「シナプス接続のマッピングによる記憶構造の可視化」
かつては明晰だった思考が、今は断片的な記憶の欠片に埋もれている。
「私は……研究者だったんだ。研究者、だったのに……」
彼女は苦々しく笑った。今やそれは遠い過去のことのようだ。
ノートをめくると、最後のページに走り書きが見つかった。
「プルースト・バーの真実を暴け」
「記憶抽出は違法行為の可能性」
「ヴィットとレイラの関係を調査」
そして最後に大きく書かれた言葉。
「404号室。都市伝説? 最後の手段?」
混乱した頭で、エリナは必死に思い出そうとした。
404号室。何かの暗号だろうか。それとも場所の名前?
突然、フラッシュバックが彼女を襲った。
――誰かがカフェで話している。「どっかのホテルの404号室を予約すれば、悪い奴らを始末してくれるんだって」「冗談だろ?」「いや、マジだって。知り合いがな……」――
彼女は震える手でポケットの残りのクレジットを確認した。
数日分の食事代程度だった。全財産と言っていい。
彼女の中で、決意が固まった。
■
ウエスト区・フェイデッドスターモーテル。
「404号室? そんなのないよ」
フロントの老婆は煙草を吸いながら言った。
「あるはずです。必要なんです」
「なぜ404号室が必要なんだい?」
「……助けが、必要なんです」
老婆はしばらく黙ってエリナを観察した。そして、溜息をついた。
「わかったよ。一晩だけだ」
彼女はカードキーを差し出した。
「代金は?」
「全部。お前さんの手持ち出しな」
エリナは言われたとおり、残りのクレジットを全て差し出した。これで彼女は完全に無一文になる。
老婆は黙って受け取り、カードキーを渡した。
「4階。そこのエレベーターから行きな」
■
モーテル、404号室。
部屋は狭く、ほこりっぽかった。壁紙は剥がれかけ、照明は不安定に明滅していた。
窓からは、ウエスト区のネオンが断続的に射し込んでいる。
エリナは鏡を見つめた。自分の顔はもはや他人のもののようだった。
かつての聡明で希望に満ちた神経工学の学生は消え、代わりに疲れ切った廃人同然の女が映っている。
彼女はベッドに座り、頭を抱えた。
「誰か……助けて。私の人生を返して……」
声は空しく室内に響いた。何かが起こるという確信はなかった。
都市伝説を信じて、最後のクレジットを使い果たした愚かさを自嘲した。
しかし、断片的な記憶の中に、これが最後の希望だという直感があった。
部屋は静寂に包まれていた。
何も起こらない。
エリナは疲れ果て、横になった。
目を閉じると、ヴィットの笑顔、レイラの冷たい視線、見知らぬ男たちとの「セッション」……全てが断片的に脳裏を過ぎる。
「もう……耐えられない……」
涙が頬を伝う。
いっそここで、何もかも捨てて死んでしまおうか?
すると、部屋の隅から静かな声が聞こえた。
「壊れかけてるみたいだね」
エリナは驚いて体を起こした。
部屋の薄暗がりの中に、小さな人影が立っていた。
明滅する照明の下、水色の髪と赤い瞳が見えた。
白いパーカーを着た少女が、冷静な表情で彼女を見つめている。
「あ、あなた……いつから……?」
「今来たところ。……記憶の欠損が激しいみたい」
エリナは唖然とした。その少女の存在は現実とは思えなかった。
もしかして、これも記憶カクテルの幻覚だろうか? または禁断症状による幻視?
「幻覚じゃないよ。私は本物」
少女は彼女の思考を読んだかのように言った。
「なぜ……ここに?」
「あなたが呼んだんでしょ。404号室を予約した」
エリナは震える声で言った。目の前の存在が何であるかなど、考えもしなかった。
「私の記憶が……奪われてる。私自身が奪われてるの」
少女は静かに近づいてきた。足音がまったく聞こえない。
「詳しく話して」
言葉が溢れ出した。
プルースト・バー、記憶カクテル、ヴィット、レイラの裏切り、記憶の抽出、強制された「セッション」……全て。
全てと言っても、どこまでを話せたのか自信がない。彼女の記憶は穴だらけだ。覚えていないこともあったかもしれない。
「ヴィットとレイラが……私の人生を奪ったの。記憶を売らされ、体を売らされ……全てを失った」
少女の赤い瞳が一瞬光る。
「ヴィット・サルガッソ。プルースト・バーの経営者。そしてレイラ・ウィンターズ。セントラル区出身の学生……だね」
エリナは驚く。ヴィットは人脈も多い有名人、知っていてもおかしくはない。
だが、彼女はどうやってレイラの詳細を? それも、この一瞬で?
「どうして……」
「私は、まぁ。物知りだからね」
少女は窓際に立ち、ウエスト区の夜景を見つめた。
「記憶は魂の一部。それを奪うのは、命を少しずつ奪うことと同じだよ」
「……助けて、くれる? 私の記憶を……私の人生を取り戻したいの」
少女は振り返り、エリナをじっと見つめた。
「私の名前はカーバンクル。依頼は受けた。あなたの記憶と人生の代償を取る」
「代償?」
「ヴィットとレイラ。彼らは二度と記憶を奪えなくなる」
カーバンクルの声には感情がなかったが、その言葉には確かな意志が感じられた。
「彼らを……殺すの?」
「それが私のやり方だからね」
エリナは衝撃を受けた。本当に殺人を依頼していいのか?
しかし、彼女の中の憎しみと絶望は、既にその答えを出していた。
「……やって」
カーバンクルは無表情のまま頷いた。
「あなたの記憶が戻るかまでは保証できない。でも、奪った者たちは……二度と誰からも記憶を奪えなくなる」
「それでいいわ。あの二人は……きっと、多くの人を私のように廃人にしてる。止めないと」
カーバンクルは窓を開け、外の闇を見つめた。
「12時間以内に完了する。ここで待ってて」
言い終えるや否や、カーバンクルはウィンドウから身を躍らせた。
エリナが駆け寄った時には、もう姿は見えなかった。
地上数メートルの高さから、少女はまるで影のように消えていた。
エリナは震える手で窓を閉め、ベッドに崩れ落ちた。
彼女は、自分が何を解き放ったのか、ぼんやりと理解していた。
「ヴィット……レイラ……絶対に……」
ウエスト区の人工的な夜が深まる中、404号室の窓からは始末屋の姿が消え、闇は深まっていった。
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