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【依頼人】知ってはいけない快楽

「研究のためよ……」


 エリナは自分に言い聞かせた。

 プルースト・バーの扉を開けるのは、これで三度目だった。

 レイラを伴わず、一人で。


 ヴィットは彼女を見るなり、既に顔なじみとなった常連客を迎えるように微笑んだ。


「エリナさん、今夜はどのような記憶を体験されますか?」

「何か……新しいものをちょうだい。冒険的な」


 最初の「初恋」の後、二度目の訪問では「子供の頃の海」という記憶を体験した。

 波の音、塩の匂い、そして無邪気な喜び。全てが彼女の中に鮮明に刻まれた。


 今夜、さらにヴィットは小さな青いグラスを差し出した。

 「初めての飛行体験」とラベルされている。


「提供者は元パイロットです。彼の最初の単独飛行の記憶です」


 一口飲むと——


 ――誰も体験したことのない高さでの自由落下。胃が喉まで上がるような感覚。恐怖と興奮が混ざり合う。そして、操縦桿を引くと、飛行機が滑らかに上昇。雲の上に出た瞬間の壮大な景色。世界を小さく見下ろす感覚。神になったような高揚感……――


 エリナは息を切らしながら現実に戻った。

 彼女の手は震え、全身が興奮で熱くなっている。


「素晴らしいわ……!」


 ヴィットは満足げに頷いた。


「あなたの受容性は非常に高い。通常、効果は2〜3分ですが、あなたは5分以上体験していました」


 エリナは自分の腕時計を見た。確かに、予想以上の時間が経過していた。


 彼女は財布から決済カードを取り出し、躊躇なく支払った。

 この体験は価値があると思った。研究のため。知識のため。


 帰り道、彼女は自分のアパートではなく、大学の研究室に向かった。

 真夜中まで、彼女は記憶体験を記録し、分析した。観察結果、神経伝達仮説、応用可能性……。


 研究ノートに文字が細かく書き込まれていく。

 しかし、その記録の中には科学的観察だけでなく、個人的な感想も混ざり始めていた。


『記憶カクテルの体験は、現実を超越する。他者の感情を完全に理解できる唯一の方法かもしれない』



 一週間後。


「エリナ、君の研究進捗が遅れているようだね」


 グリフィス教授は眉をひそめた。

 エリナの最新データは、これまでの精度を欠いていた。


「すみません、少し……新しい方向性を探っていまして」


 教授はため息をついた。


「卒業まであと二ヵ月だ。焦点を絞るべき時期に、新しい方向性は危険だよ」


 エリナは黙って頷いた。目の下には、明らかな疲労の影があった。


 研究室を出ると、廊下でレイラとぶつかった。


「あら、エリナ。最近あまり見かけないと思ったら……」


 レイラはエリナの疲れた表情を見て、意地悪く笑った。


「プルーストのカクテル、いいでしょ? もうやめられないんじゃない?」


 エリナは目を見開く。


「あなた……知っていたの?」

「もちろん。ヴィットは私の父の友人よ。上質なクライアントを紹介してほしいって頼まれたの」


 レイラの笑みは冷たく残酷だった。


「下層民の分際でセントラル区に来て、私より優秀な振りをして……でも、今のあなたは素敵よ。とっても、下層民にふさわしい姿」


 エリナは言葉を返せなかった。レイラが言っていることは、ある意味で正しかった。

 彼女はサウス区の人間が多く陥る依存症の初期症状を示していた。

 しかし、認めたくなかった。


「私は…研究のためよ。それだけ」

「そう言い聞かせるといいわ」


 レイラは肩をすくめた。


「でも、VIPルームに招待されたら、本当の意味で戻ってこれなくなるかもねぇ?」


 エリナは歩き去るレイラを見つめた。

 ――VIPルーム。その言葉が彼女の脳裏に刻まれた。



 プルースト・バー。三週間後。


 エリナはもはや研究を理由にしなくなっていた。

 彼女は単に記憶体験を求めてバーに通っていた。

 今夜も彼女はカウンターに座り、ヴィットと会話を楽しんでいた。


「エイプリルさんからの『サーフィン』はいかがでしたか?」

「素晴らしかったわ。波の力を感じる感覚、海と一体になる瞬間……言葉では言い表せないほど」

「気に入っていただけて何より。今や、本物の海は記憶の中にしかありませんからね」


 ヴィットは満足げに頷き、グラスを磨きながら言った。


「あなたは私たちの最高のお客様の一人です。記憶体験への反応が非常に鮮明だ」


 エリナは少し照れながらも、その言葉に誇らしさを感じた。自分が何か、特別な存在なのだと思えた。

 ……直後、思わず口から出た言葉は、彼女自身を驚かせた。


「……どうして『VIPルーム』に招待してくれないの?」


 ヴィットの手が一瞬止まった。


「なるほど……レイラから聞いたのですね」

「VIPルームが存在するのは知ってる。もっと……強い体験ができるんでしょう?」

「それは特別なお客様だけのサービスです。料金も……相当高額になります」

「いくら?」

「通常の10倍です」


 エリナは息を飲んだ。彼女の奨学金では、数回の体験で底をつくだろう。

 しかし、彼女の中の何かが、もっと強い体験を求めていた。これまでのカクテルでは物足りなくなっていたのだ。


「……わかったわ」


 ヴィットは彼女を見つめ、やがて小さく頷いた。


「では、今夜から特別なお客様としてお迎えします。VIPカードをお作りしましょう」



 VIPルーム。地下一階。


 普通のカクテルラウンジとは明らかに異なる雰囲気。

 豪華な内装、柔らかな革のソファ、壁には本物のアート作品。そして客は数人だけ。


 全員がセントラル区の上流階級の特徴を持っていた。

 完璧な姿勢、高級な衣服、自信に満ちた物腰。


 エリナは自分が場違いな気がした。

 しかし、VIPカードを持つ彼女を、スタッフは丁重に扱った。


 プライベートブースに案内され、彼女は特製メニューを手渡された。

 通常のカクテルメニューとは全く異なるラインナップ。


「強烈な喜び」

「権力の頂点」

「至高の愛」

「完全なる解放」


 どれも暗示的なタイトルばかりで、具体的な内容は書かれていない。

 戸惑っているうち、ヴィットが彼女のブースを訪れた。


「初めてのVIP体験には、これがおすすめです」


 彼が差し出したのは、深い赤色の液体が入った小さなグラス。


「『禁断の快楽』です」

「どんな記憶?」

「それは……体験してのお楽しみです」


 エリナはためらった。しかし、好奇心と欲望が理性を上回った。

 彼女はグラスを受け取り、一口飲んだ。


 世界が、爆発した。


 ――見知らぬ豪華な部屋。高級ベッドの柔らかなシーツ。裸の肌と肌が触れ合う感覚。通常の性体験をはるかに超える快感。禁断の薬物が血管を駆け巡る感覚。脳内から溢れ出す至高の喜び。あらゆる道徳観を超越した完全なる解放感。現実のあらゆる制約から解き放たれる瞬間……――


「……ッ、あァッ!!」


 エリナは激しく息を吐きながら現実に戻った。全身が汗でぬれ、震えていた。


 これは……セックスと薬物の複合記憶だった。

 しかも、恐らく違法なレベルの薬物と、法的に問題のある性行為。彼女は言葉を失った。


「どうでしたか?」

「これは……違法じゃないの?」

「記憶を体験することは違法ではありません。実際に行為を行ったわけではないのですから」


 彼の論理は歪んでいたが、エリナの脳はまだ記憶体験の余韻に震えていた。思考が明晰でなかった。


「もう一杯……欲しい」


 再び飛び出した彼女の言葉は、自分自身をも驚かせた。ヴィットは微笑む。


「もちろん。ただし、料金は……」

「払う。払うわ」


 エリナは躊躇なく決済カードを差し出した。

 残高警告が表示されたが、彼女は無視した。


 その夜、彼女は三杯の「禁断の快楽」を体験した。

 帰り道、世界は灰色に見えた。現実が色あせて見える。

 アパートのドアを開け、彼女は鏡の前に立った。


「これは……研究の、ため……?」


 自問自答が虚しく響く。もはやそれは嘘だった。

 彼女は単に、現実よりも記憶体験を求めていたのだ。



 三日後。大学キャンパス。


「エリナ・マクレイさん?」


 彼女は振り返った。学務課の職員だった。


「はい……?」

「継続的な欠席と成績低下について、説明が必要です。奨学金の条件に違反していますので」


 彼女は唖然とした。

 確かに、最近は授業にほとんど出ていなかった。

 研究室にも顔を出していない。全て記憶体験のためだ。


「少し……た、体調を崩していて」

「グリフィス教授が心配されています。特にここ一ヶ月の研究進捗が全くないとのこと」

「時間を……もらえますか? 挽回します」

「はぁ……二週間です。それまでに状況が改善されなければ、奨学金は停止されますよ。いいですか?」


 ……二週間。彼女はぼんやりと考えた。

 その間に何杯の記憶カクテルが飲めるだろう?


 そんな思考に恐怖を覚える自分がいた。

 同時に、次の記憶体験を切望している自分もいた。



 研究室に戻る途中、彼女は無意識にウエスト区のバスに乗っていた。

 プルースト・バーに向かっていることに気づいたのは、降りるときだった。


 ヴィットは彼女を見るなり、眉をひそめた。


「エリナさん、お元気ありませんね」

「VIPルームをお願い」


 しかし、彼は首を振った。


「申し訳ありません。あなたのカードに残高がありません」

「そんな! 何か……支払い方法は!?」


 ヴィットは一瞬考え、カウンターの下からタブレットを取り出した。


「あなたのような特別な才能を持つ方には、別の選択肢もあります」

「どういうこと……?」

「記憶カクテルには、記憶の『供給者』が必要です。あなたの脳は記憶の受容性が高いだけでなく、記憶の質も非常に鮮明です」


 彼女の顔から血の気が引いていく。


「私の……記憶を、売れということ?」

「『売る』というより『シェア』です。あなたの記憶は高く評価されるでしょう。そして、対価として他の記憶を体験できます」


 エリナは震えながらタブレットを見た。契約書のようなものが表示されている。


「私の……どんな記憶を?」

「まずは無害なものから。子供の頃の誕生日、初めての遊び……些細な幸せな記憶です」


 エリナは自分の手が勝手に動くのを見ていた。

 スタイラスを取り、署名欄にサインをする手。


「おめでとうございます。これであなたは『プレミアム・プロバイダー』です。VIPルームを無料で利用できますよ」


 笑顔で言うヴィットの後ろで、レイラが満足げに微笑んでいるのが見えた。


 エリナの目に涙が浮かんだ。何かを失ったような感覚。

 自分自身の一部を売ってしまったような喪失感。


 しかし同時に、禁断の快楽への渇望が彼女を支配していた。


「……記憶の供給は、いつからできるの?」

「今からでも大丈夫です。奥の部屋へどうぞ」


 エリナは、最後の理性の糸が切れるのを感じながら、抽出室へと歩いていった。

カーバンクルーッ! 早く来てくれーッ

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