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【依頼人】これは私の記憶じゃない

 鈍い痛みが額を叩く。


 エリナ・マクレイは、唸り声を上げながら目を開いた。

 頭蓋の内側から脳を押し潰すような圧迫感。

 まるで脳が腫れあがり、骨を突き破ろうとしているかのようだ。


「どこ……ここは」


 自分の声が聞き慣れないものに聞こえる。掠れて、不安定で、知らない人の声のようだ。


 瞬く間もなく、天井を見上げる。

 灰色の染みが広がる古いパネル。

 ドームの照明が壁の亀裂から漏れ、部屋に薄暗い光を投げかけている。


 ゆっくりと上体を起こそうとしたとき、全身に激痛が走った。


「痛っ……!」


 エリナは震える手で自分の腕を確かめた。

 青あざ、針の跡、そして見覚えのない小さな切り傷が点々と残っている。

 首筋を触ると、そこには特に大きな注射痕があった。指先で触れただけで痛みが走る。


「何が……何があったの……?」


 部屋の中を見回す。見知らぬアパートだった。

 いや、見知らぬ、というわけではない。どこかで見たことがある。

 だが、自分のものだという実感がまるでわかない。


 散らかった衣服。床に落ちた空の食品パッケージ。

 壁には何かの染みが残り、家具は乱雑に配置されている。

 まるで長い間誰も片付けていないかのようだ。


 バスルームのドアが半開きになっているのが見えた。よろめきながら立ち上がり、そちらに向かう。

 冷たいタイルの床に足を踏み入れると、彼女は息を飲んだ。


「何よこれ!?」


 床には使用済みの注射器が散らばり、錠剤の破片が点々と落ちている。

 鏡を見上げると、そこに映っていたのは、ほとんど見知らぬ顔だった。


「これ……私……!?」


 青白い顔色、くぼんだ頬、血走った目。

 かつては美しかったはずの顔が、今は生気を失い、何かに蝕まれたように見える。


 髪は不自然に明るい緑色に染められ、所々切れ毛が目立つ。

 エリナは自分の顔に触れ、それが確かに自分であることを確かめようとした。


「私、こんな……髪を染めたりしない……はずよ」


 しかし確かに、これが現在の自分の姿だった。


 リビングに戻ると、テーブルの上に散らばった書類が目に入った。

 家賃の督促状。赤い文字で「最終警告」と書かれている。


 震える手でスマートフォンを探し、ようやく見つけて電源を入れる。バッテリーは残りわずかだった。

 通知が次々と表示される。すべて読まずにいた何十ものメッセージ。


 最後のメッセージが特に目を引いた。


「もう関わらないでって言ったよね。次は警察を呼ぶから。お願いだから、これ以上私たちに近づかないで」


 送信者は「クラリス」。親しい名前に思えるが、顔が思い浮かばない。


「クラリス……? 誰……?」


 エリナはバンキングアプリを開いた。

 残高:0クレジット。


「どうして……? 奨学金があったはずじゃない!」


 自分で発した言葉に躓く。

 奨学金? そう、彼女は確か奨学金をもらっていたはずだ。

 何の奨学金だったのか。どこの大学だったのか。


 記憶が断片的に浮かんでは消える。


 突然、脳内で閃光が走った。フラッシュバックだ。


 ――派手なネオンライト。

 鮮やかな色彩が溢れる部屋。

 見知らぬ男たちと笑い合う自分。


 誰かが首に腕を回し、グラスを差し出す。

 オレンジ色の液体。

 一口飲むと、世界が歪み始める――


「違う!」


 エリナは頭を激しく振った。頭痛が増す。


「これは私じゃない。こんなことするはずない……!」


 涙が頬を伝う。何かがひどく間違っている。

 自分の人生が、自分のものではなくなったような感覚。


 部屋の隅には大学のバッグらしきものが放り出されている。

 よろめきながらそこに向かい、中身を確認する。


 ノートとデータタブレット。かろうじて読めるタイトル。


「神経工学実験記録:記憶の電気的安定性に関する研究」


「研究……そう、私は研究してた……記憶の……」


 言葉につまる。何を研究していたのか、詳細が思い出せない。

 エリナは膝から崩れ落ち、震えながら床に座り込んだ。


「誰か……助けて……記憶が……私の人生、どうなってるの!?」


 窓の外では、ネオ・アルカディアの人工的な夜明けが始まっていた。

 ドームに張り巡らされた光ファイバーが徐々に明るさを増し、偽りの太陽が都市に昇る。


 その光の中、エリナ・マクレイは自分の失われた記憶の断片を必死に掻き集めようとしていた。


 しかし、それは砂を握りしめるようなものだった。強く握れば握るほど、指の間から零れ落ちていく。


 記憶という名の砂の城は、既に潮に洗い流されてしまっていた。



 ――三ヶ月前。


 セントラル区第三教育機関、神経工学棟の研究室。


「エリナ、また素晴らしい結果だね。君の研究は実に興味深い方向に進んでいる」


 ホロスクリーンに浮かぶ脳波データを前に、グリフィス教授は満足げに頷いた。

 エリナ・マクレイは謙虚に微笑む。


「ありがとうございます、教授。まだ仮説の段階ですが、記憶の電気的マッピングができれば、損傷した記憶の復元も不可能ではないと思うんです」


 ホロスクリーンに指を伸ばし、彼女は複雑な神経接続のパターンを示した。

 小さく輝く青い光点が複雑なネットワークを形成している。


「ここで見られるシナプス結合の特異的パターンは、特定の記憶と強い相関関係があります。もし私たちがこのパターンを人工的に再現できれば……」

「記憶障害の治療に革命を起こせるかもしれないね」


 グリフィス教授は彼女の肩に軽く手を置いた。その目には誇りの光が宿っている。


「エリナ、君はサウス区から来た学生の中で、最も優秀な一人だ。卒業後はネオテック社が君に興味を示している。最高の研究環境と待遇を約束してくれるはずだよ」

「ありがとうございます、でも私はまだ基礎研究を続けたいんです。特に記憶障害を持つ人々のための治療法を……」


 階段を下りながら会話を続ける二人。

 彼らが去った後、研究室のドアの影から一人の女性が現れた。


「…………」


 レイラ・ウィンターズ。

 セントラル区の名家の娘で、同じ神経工学を専攻する学生だ。

 彼女は唇を噛みながら、先ほどまでエリナが立っていた場所を見つめていた。


「またマクレイね……」


 彼女の声に込められた毒気は、空気を凍らせるほどだった。



 研究棟の食堂。昼食時。


「エリナ! こっちよ!」


 レイラは満面の笑顔で手を振った。

 その白い制服にはセントラル区上流階級の象徴である金の刺繍が光る。


 エリナは簡素なサウス区の低層階級の学生服を身にまとい、トレイを持って彼女の方へ歩いた。


「グリフィス教授、またあなたを褒めてたわね」


 レイラの声は甘く、表面上は友好的だった。

 しかし、その瞳の奥には何か冷たいものが潜んでいる。


「研究が良い方向に進んでるだけよ」


 エリナは謙虚に答えた。彼女は自分の才能を誇示することなど決してなかった。

 それがレイラをさらに苛立たせる要因だった。


「ねえ、ネオテックがあなたにオファーを出すって本当?」

「そう……みたいね。教授も何か言ってたけど……」

「まあ! 素敵じゃない!」


 レイラは興奮したように声を上げたが、その指先はテーブルを強く掴んでいた。

 爪が食堂のプラスチック製テーブルを傷つけそうなほどに。


「セントラル区の企業に入れるなんて、サウス区出身の人にはすごく珍しいわね」


 その言葉には微かな軽蔑が混じっていた。エリナはそれを無視することにした。

 彼女にはレイラとの争いよりも大切なことがあった。研究だ。


 レイラはエリナの様子を観察していた。

 このサウス区出身の「下層民」が奨学金を得て、自分と同じ大学に通い、自分より優秀な成績を収めていることが、彼女には我慢ならなかった。


 努力せずとも全てを手に入れてきたレイラにとって、才能と努力で這い上がろうとするエリナの存在は、耐え難い棘だったようだ。

 その憎しみはやがて、牙となってエリナに襲いかかろうとしていた――。



 神経工学専攻・試験の日。


 試験室から出てくる学生たちの表情は様々だ。安堵、落胆、疲労。

 エリナは静かな自信を浮かべていた。彼女の答案用紙は、ほぼ完璧だった。


「エリナ! どうだった?」


 試験室の外で、レイラが待っていた。

 彼女は試験から一番早く退出した学生の一人だった。


「まあまあかな」

「あら、謙虚ね。でも、あなたのことだから、ほとんど満点じゃないの?」


 レイラは笑いながら言った。彼女自身の成績は平均以下だろうことは明らかだった。


「ねえ、今夜時間ある? 今期最後の試験も終わったし、ちょっとしたお祝いをしない?」


 エリナは少し戸惑った。

 レイラと親しくなりすぎることには、常に警戒心があった。

 彼女の裏にある感情を、エリナは薄々感じ取っていたからだ。


「ごめん、研究データの整理が……」

「またぁ? いつも研究ばっかり。たまには楽しまなきゃ。最高に素敵な場所を見つけたのよ」


 レイラの目が妖しく輝いた。その輝きに、エリナは一瞬不安を感じた。


「どんな場所?」

「ウエスト区の『プルースト・バー』。最新の記憶カクテルが飲めるのよ」

「記憶……カクテル?」

「知らないの?他人の記憶を体験できるドリンクよ。ウエスト区では大流行りなの」


 珍しく、エリナの目が好奇心で見開かれた。

 彼女の研究テーマである記憶に関係するものに興味を惹かれたのだ。


「あなたみたいに頭のいい子は絶対好きになるわ。研究にもきっと役立つし」

「わ、私はお酒はあまり……」

「お酒じゃないわよ。特殊なニューロドリンクなの。科学的なものよ。研究者として、一度は体験しておくべきものだと思うわ」


 エリナは迷った。確かに記憶の研究をしている彼女にとって、記憶に関する技術を体験することは意義があるかもしれない。


「じゃあ……少しだけなら」


 レイラの顔に勝利の笑みが浮かんだ。


「じゃあ今夜8時。ウエスト区のセクター12よ。迎えに行くわね」



 ウエスト区・セクター12。


 夜のネオンが降り注ぐ街並み。

 昼間の姿からは想像もつかないほど、街は変貌していた。


 レッドとブルーの光が交錯し、建物の輪郭を強調する。

 ホログラム広告が空中に浮かび、通行人に商品を宣伝している。


 エリナは初めて見るウエスト区の夜の姿に圧倒されていた。

 サウス区の質素な生活と、セントラル区の整然とした環境。

 この両方とも違う、刺激的で退廃的な雰囲気がそこにはあった。


「ここよ」


 レイラは今となっては貴重な木製のドアの前で立ち止まった。上には小さな看板。


 『プルースト・バー』。控えめな外観は、周囲の派手なネオン看板に囲まれて、逆に目立っていた。


「プルースト……20世紀の作家の名前?」

「そう。『失われた時を求めて』の作者よ。記憶がテーマの小説だったでしょ。だからこの名前なのよ。マスターが言ってたわ」


 ドアを開けると、内部は外観からは想像できないほど洗練されていた。

 落ち着いた照明、アンティークな木製家具、壁には古い写真やホログラムが飾られている。

 バーの奥からは静かなジャズが流れ、客たちは小声で会話を楽しんでいた。


「いらっしゃい、レイラさん」


 カウンターからスマートな中年男性が微笑みかけた。

 黒いスーツに身を包み、銀色の髪を後ろで結んでいる。


「ヴィット! 今日は友達を連れてきたの。エリナ、こちらはヴィット。このバーのオーナーよ」


 ヴィットはエリナに視線を移した。その目が一瞬光ったように見えた。


「レイラさんの友人ですか。特別なお客様ですね」


 彼の声は低く、甘く、まるでベロアのカーテンのように優雅に漂った。


「ようこそ、エリナさん。特別な体験をプレゼントします」


 二人を窓際の席に案内し、ヴィットは小さなメニューを差し出した。

 「記憶カクテル・セレクション」と書かれている。


「初めての方には、これがおすすめですよ」


 ヴィットは小さなグラスを持ってきた。

 中には琥珀色の液体。表面に小さな金色の泡が踊っている。


 「初恋の記憶」と書かれたラベルがグラスの足に巻かれていた。


「これが……記憶ドリンク?」


 エリナは懐疑的だった。

 神経科学の学生として、彼女は記憶伝達の複雑さを知っていた。

 経口摂取で記憶を体験させるなんて、どんな技術なのだろう?


「ええ、そうですよ。完全に安全で、一時的な体験です。記憶提供者の了承を得た、幸せな記憶だけを使用しています」

「どうやって……」

「企業秘密です」


 ヴィットは微笑んだ。


「しかし、あなたのような研究者なら、原理を理解できるでしょう。ニューロ電気信号の抽出と変換ですよ」


 エリナは興味をそそられた。これは彼女の研究分野に直接関連していた。


「さあ、早く飲んでみて」


 レイナに急かされ、エリナはグラスを手に取った。液体が揺れ、金色の泡が舞う。


「ほんの一口でいいんです。効果は数分間続きます」


 エリナはためらいながらもグラスを唇に運んだ。


 一口。


 液体は甘く、少しビターな後味がある。普通のカクテルのようだった。

 最初の数秒間、何も起こらなかった。


 そして突然、世界が変わった。


 彼女の視界が歪み、目の前の景色が溶け始める。

 頭の中で何かが開き、見知らぬ感情の奔流が彼女を包み込んだ。


 ――学校の廊下。14歳の少年。初めて好きになった人の笑顔。胸の高鳴り。言葉にならない感情。

 彼が振り返るとき、世界が輝きに満ちる感覚。名前を呼ばれる喜び。触れられることのない距離感。それでも幸せだと感じる純粋さ……――


 エリナは息を飲んだ。これは彼女の記憶ではなかった。

 彼女はあんな学校に通ったことはない。14歳の少年に恋したこともない。


 それでも、その感情はあまりにも鮮明で、あまりにも真実だった。

 他人の初恋の感情が、彼女の中で鮮やかに生きていた。


 経験したことのない、純粋な恋心の感覚。

 研究ばかりしてきた彼女には未知の領域だった。


「どう?」


 レイラの声が遠くから聞こえてくる。

 エリナは気づいた。自分の頬を伝う涙に。


「信じられない……これは……本物の、記憶」


 ヴィットは満足げに微笑んだ。


「あなたの反応を見ると、特別な才能をお持ちのようですね。記憶の受容性が極めて高い」


 エリナは混乱していた。科学者としての好奇心と、人間としての感動が入り混じる。

 かつて誰かが経験した感情が、今、彼女の中に存在している。それは魔法のようだった。


 彼女の背後では、レイラとヴィットが目配せを交わしていた。

 罠は既に仕掛けられていた。


 エリナ・マクレイの破滅の始まりだった。

記憶カクテル、普通に面白そうですき

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