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【断罪】生き延びた者たち・2

(ヘステロス・アーロンの場合)


 ノース区、クリーンゾーン地下奴隷居住区。


 薄暗い地下通路の隅で、一人の男が壁に寄りかかっていた。

 かつてヘステロス――クリーンゾーンの王と呼ばれていた男の姿は、見る影もなく変わり果てていた。


 髪は抜け落ち、頭皮には紫色の斑点が浮かんでいる。

 皮膚は灰色に変色し、ところどころ水ぶくれができていた。

 歯茎から血が滲み、呼吸するたびに肺が焼けるように痛む。


 日々の作業により浴びせられた、高濃度の放射線の影響だった。


 かつて実験によって強固な放射線耐性を得たはずの彼の肉体は、汚染によって内側から崩壊していた。

 王の力は、完全に失われたのだ。


「……う、ぐ……」


 ヘステロスは震える手で、床に置かれた金属製の皿を掴んだ。

 中にはどろどろに腐りかけた合成食料が少しだけ入っている。一日分の配給だ。


 口に運ぼうとしたが、手が震えて半分以上こぼれてしまう。


「くそ……くそが……!」


 かすれた声で呪詛を吐く。

 かつて何百人もの奴隷を震え上がらせた威厳ある声は、もう戻らない。

 喉の粘膜が被曝で損傷し、まともに声を出すこともできなくなっていた。


「おい、ヘステロス」


 声がした。顔を上げると、数人の男たちが立っていた。

 皆、痩せこけて汚れた服を着ている。

 かつてヘステロスが奴隷として、虫けらのように扱っていた者たちだ。


「……何、だ……」


 ヘステロスは警戒して身構えようとしたが、体がまったく動かない。


「お前の分の水、もらっていくぜ」


 男の一人が、ヘステロスの横に置いてあった水筒を無造作に掴んだ。


「待、て! それは俺の……!」

「お前の? ああ、そうだな。だが今は俺たちのものだ」


 男は冷たく笑った。


「25年間、お前は俺たちから何もかも奪ってきた。家族も、尊厳も、希望も。だから今度は俺たちがお前から奪う番だ。まずは、その汚い命を繋ぐ水からなぁ!」


 男たちは嘲笑しながら、水筒を持って立ち去っていく。

 ヘステロスは立ち上がろうとしたが、足に力が入らず、そのまま床に倒れ込んだ。


「……畜生……畜生が……!」


 ヘステロスは床を拳で叩いた。

 その拳からは血が滲むだけで、何も変わらなかった。


 絶対的な権力者だった彼が、今は水一杯さえ守れない。

 その事実が、放射線の痛みよりも深く彼を蝕んだ。



 それから数日後。


「ぜ、ひ……ゼヒューッ……」


 ヘステロスの体調はさらに悪化していた。

 食事はほとんど喉を通らず、水も満足に飲めない。


「ゼハァー……っ、だれ、か……誰か……手を貸せ……ッ」


 骨と皮だけの姿になり、彼は通路を這いながら誰かに助けを求めた。

 しかし、誰も立ち止まらない。

 かつての奴隷たちは、彼に冷たい視線を向けるだけで通り過ぎていく。


 もはやそこには憎しみすらない。

 ただ、無価値なものとして無視されているのだ。


 そのとき、一人の老人が通りかかった。

 ヘステロスは最後の力を振り絞り、老人の服を掴もうとした。


「ぐぐ……ぎっ」

「……お前は」


 老人は立ち止まり、ヘステロスを見下ろした。

 その目には、深い憎しみが宿っていた。


「俺の息子を殺したな。外での作業中、お前が見殺しにした」

「……あ……」


 ヘステロスは何も言えなかった。

 何人殺したかなどもう覚えていない。数えるほどの価値もないと思っていた。


「苦しめ」

「な、に……」

「お前が俺たちに味あわせてきたように、孤独と渇きの中で、ゆっくりと……苦しみ抜いて死ね」


 老人は冷たく言い放ち立ち去っていく。

 ヘステロスは床に崩れ落ち、声にならない喘ぎを漏らした。



 さらに一週間が経過した。


「……、……っ」


 ヘステロスはもはや動くこともできず、通路の隅で横たわっていた。

 皮膚は壊死し、黒ずんでいる。

 目は白く濁り、ほとんど見えなくなっていた。


(……死ぬのか……俺は……!?)


 意識が朦朧とする中、ヘステロスは自分の人生を振り返った。


 ――25年前。

 ノース区が封鎖されたとき、生き延びるための力に手を伸ばした。


 そして王になった。

 弱者を支配し、搾取し、絶望を与え続けた。

 それがこの地獄で生きる唯一の正しい方法だと、信じて疑わなかった。


(……間違って、いたのか……?)


 その問いに、答えは返ってこなかった。

 ただ今、自分は誰にも看取られず、誰にも悼まれず、かつて虐げていた者たちと同じように朽ちていく。それが答えだった。


 その時、誰かの足音が近づいてきた。

 ヘステロスは朦朧とした意識の中で、その人影を見た。


 小さな子供だった。

 10歳くらいの少年が、じっと彼を見下ろしている。


「……お前が、ヘステロスか」


 少年の声は、年齢に似合わないほど静かで、冷たかった。


「お前が俺の親父を殺した。防護服も与えずに外に出して、被曝して死んだ」


 少年は懐から小さな、錆びたナイフを取り出した。


「! ……」

「俺は、お前をこの手で殺したかった。親父が苦しんだように、お前を苦しめて殺したかった……」


 ヘステロスは恐怖に震えた。しかし、もう抵抗する力は残っていない。


「……でも」


 少年はナイフを懐に戻した。


「母ちゃんが言ってた。お前と同じになったら、俺たちの負けだって。お前がいなくなっても、俺たちは生きていかなきゃならない。憎しみを次の奴にぶつけても、何も変わらないってな」


 少年はヘステロスの傍らに、持っていた小さなパンの欠片を置いた。

 それは、彼の今日の配給の半分だったのかもしれない。


「これは復讐じゃない。情けでもない」


 少年はヘステロスをまっすぐに見つめた。


「俺はお前とは違う」


 少年は背を向け、静かに去っていった。

 ヘステロスは、目の前に置かれたパンの欠片を、濁った目で見つめた。手を伸ばそうとするが、もう指一本動かない。


 それは彼が25年間、誰からも受け取ることのなかった「人間性」の証だった。

 そして彼が最も軽蔑し、踏みにじってきたものだった。


(クソ……野郎が)


 喉が渇き、腹が減り、全身が痛む。

 目の前には食べ物がある。しかし、決して届かない。


(俺はお前と違うだと……当然だろうが……俺は、王……お前は、奴隷……なんだ……)


 最後に彼の目に映ったのは、その小さなパンの欠片だった。



 数日後。


 地下通路の清掃係がヘステロスの遺体を発見した。

 すでに腐敗が始まっており、そばにはカビの生えたパンの欠片が転がっていた。


「また一人死んだか。さっさと片付けるぞ」


 清掃係たちは無感情に呟き、遺体を引きずって焼却場へ運んだ。

 ヘステロスの名前を確認することもなく、ただの一体として処理された。


 かつてノース区の王と呼ばれた男は、こうして誰にも悼まれず、名前すら記録されずに消えていった。


 しかし、彼が支配した地獄は少しずつ変わり始めていた。

 ヘステロスという絶対的な恐怖が消えたことで、人々は奪い合うのではなく、分け合うことを学び始めていた。


 少なくとも、そこには合理性があった。

 王を喜ばせるためだけの過激な粛清や特権は存在せず、死の大地で細々と生きるための営為が。


 通路の広場では、あの少年が仲間たちと共に、配給された食料を分け合っていた……。



(ダニエル一家の場合)


 イースト区、メモリアル・ガーデン。


 墓地の一角に新しい墓石が建っていた。

 華美ではないが、磨き上げられた白い大理石で作られた気品のある墓。


 墓石には金色の文字で刻まれている。


「マーガレット・コールマン

 その愛は永遠に我らの心に」


 その前に、ダニエルは膝をついていた。

 かつての傲慢な表情は消え、やつれた顔には深い疲労と後悔の色が浮かんでいる。


「……母さん」


 彼は震える手で、墓前に花を供えた。

 安価な合成花ではなく本物の生花だ。イースト区では贅沢品とされる、白い菊の花束。


「今日も、来たよ」


 ダニエルは毎日この墓を訪れていた。

 仕事の前に、そして帰りに。それが彼の贖罪であり、唯一の心の支えだった。


「……ごめん。本当に、ごめんなさい」


 何度謝っても答えは返ってこない。

 それでも、彼は謝り続けた。


 墓石の横には、小さな銅板が埋め込まれている。

 そこには、マーガレットが残した手紙の一部が刻まれていた。


「私はあなたたちを愛しています。

 どんなに冷たくされても、それでも、あなたたちは私の大切な家族です」


 ダニエルはその文字を指でなぞった。

 目から涙が溢れる。もう何度泣いたかわからない。


「俺は……最低だった……」


 あの日以来、ダニエルは変わった。

 母が遺した800万クレジット。その大半をこの墓と、母が生前世話になっていた教会や孤児院への寄付に使った。


 金で罪が償えるとは思わない。

 だが母が愛した人々に、母に代わって感謝を伝えたかった。


 足音が近づいてきた。

 振り返ると、息子のライアンが立っていた。


「……父さん」

「ライアンか。学校は?」

「今日は休みだ。……また来てるのかって、母さんが」


 ライアンは父の隣にしゃがみ込み、持ってきた一輪の合成花を供えた。

 あの日以来、父子の間にはぎこちないながらも、静かな時間が流れるようになっていた。


「父さん。俺、決めたんだ」

「……何をだ」

「学校辞めて働くよ。このままじゃ生活が苦しいだろ」


 その言葉に、ダニエルは驚いて息子を見た。


「馬鹿を言うな。お前は学校を卒業して、ちゃんとした仕事に就くんだ」

「でも!」

「これは俺の罪だ。お前にまで背負わせるわけにはいかない」


 ダニエルは息子の肩を掴んだ。その手は力強かった。


「お前は、おばあちゃんが誇りに思うような人間になるんだ。それが俺たちにできる唯一の償いだ」


 ライアンは父の真剣な目を見て、黙って頷いた。

 父の背中が、以前よりもずっと大きく見えていた。



 その夜、ダニエル家のアパート。


 夕食は質素な合成食料だけ。

 本来ならば今頃、マーガレットの金で豪勢な食事をしているはずだった。


 しかし、テーブルの上の雰囲気は以前とは違っていた。

 ソフィアが、おずおずと口を開く。


「あなた……新しい仕事、決まったんですって?」

「ああ。プラントのメンテナンス作業員だ。給料は安いが安定はしている」


 かつてエリートだったダニエルが、今や肉体労働者だ。ソフィアの表情は複雑だった。

 彼女もまた罪の意識に苛まれていたが、ダニエルほど深く自分を罰することができずにいた。

 現実的な生活への不安が、後悔の念を上回ることがあった。


「……そう。ライアンのためにも、頑張らないとね」

「母さんのためだ」


 ダニエルの静かな訂正に、ソフィアは言葉を失った。



 食事の後、ダニエルは古い木箱を部屋に置いた。

 中にはマーガレットの遺品が収められている。


「これ……母さんのアルバムだ。一度、ちゃんと見ておこうと思って」

「ああ……」


 ページをめくると、そこには自分たちの知らない母の人生があった。

 若い頃の笑顔、亡き夫との結婚写真、そして生まれたばかりのダニエルを抱く幸せそうな姿。


 ページが進むにつれ、家族の写真は減っていく。

 代わりに、教会や孤児院の子供たちとの写真が増えていた。

 マーガレットは家族から与えられなかった愛を、他の人々に与えられていたのだろうか。


 最後のページに、一枚の写真が挟まっていた。

 野球のユニフォームを着た幼いライアンと、満面の笑みで肩を組むマーガレット。


「……おばあちゃん」


 ライアンの目から涙が溢れた。

 彼はあの夜、祖母を見殺しにした。その罪悪感が今も重くのしかかっている。


「俺……俺も、共犯者なのに……!」


 ダニエルは黙って息子を抱きしめた。


「悪いのは俺だ。俺がお前たちを歪ませた」

「父さん……」

「……ねぇ。これは?」


 その時、ソフィアがアルバムの中から一枚のメモを見つけた。

 マーガレットの震える文字で書かれている。


『ライアンへ。あなたのための学資保険です。おばあちゃんからの最後のプレゼント。夢を、諦めないで』

「……これは、暗号化コード?」


 メモにはデジタル証券のコードが記されていた。

 ダニエルが調べると、それは50万クレジットにものぼる額だった。


 マーガレットがこつこつと貯めていた金だ。

 彼女は自分の死後さえも、孫の未来を案じていた。


「母さん……!」


 ダニエルは嗚咽した。ソフィアもまた、思わず顔を覆う。

 自分たちが奪おうとした遺産よりも遥かに大きな愛を、マーガレットは遺してくれていたのだ。



 一年後。


 メモリアル・ガーデン、マーガレットの墓前。


 三人は、どこか晴れやかな顔で墓前に立っていた。


「母さん、報告がある」


 ダニエルは墓石を優しく撫でた。


「ライアンが大学に合格したんだ。母さんが遺してくれたお金で、学費を払うことができたよ」

「おばあちゃん……ありがとう」


 ライアンは深く頭を下げた。

 彼は福祉学を専攻することに決めたらしい。いつか祖母のような人を助ける仕事に就きたいと考えている。


 失ったものは大きかった。

 しかし彼らはそれ以上に大切なものを、マーガレットの死から教わっていた。


「母さん。俺たちは……人を憎んだり羨んだりじゃなくて、助け合う人生を送りたい。それが俺たちの贖罪です」


 三人は墓前で、静かに手を合わせた。

 風が吹き、墓前の白い菊が優しく揺れる。


 罪は消えない。だが、罪を背負いながらでも人は再生できる。

 ダニエル一家は母の愛を道標に、その長い道を歩み始めた。

次回からは長編が始まる予定です!!

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