【依頼人】パワハラと墜落
サウス区、ルイン・イン。
薄汚れた外壁、所々剥がれかけている塗装。安宿としても三流の部類に入る建物だった。
フロントには無愛想な老人が座っていたが、客の顔すら見ようとしない。
このエリアでは、他人に関わらないことが最善の生存戦略だ。
午前2時17分。
ナタリア・ベッカーは、震える手でカードキーを握りしめていた。
37歳。ドイツ系の女性。
かつては美しかったであろう面影は、今は疲労と悲しみで深く刻まれている。
目の下には隈が張り付き、頬はこけていた。この3日間、彼女はほとんど眠っていない。
「40、4号室……」
彼女は錆びついた金属のような声で呟き、薄暗い廊下を進んだ。
蛍光灯が不規則に点滅し、壁紙は黄ばんで湿気を吸っている。
彼女は404号室の前で立ち止まる。
部屋番号のプレートは半分剥がれかけており、「404」の数字がかろうじて読み取れる程度だった。
ナタリアはカードキーをスロットに差し込んだ。
電子音が鳴り、ドアが開く。
中は予想外に清潔だった。
ベッド、小さなテーブル、椅子が一つ。
最低限の設備。まるでこの部屋だけがホテルの時間から切り離されているかのようだった。
窓からは、サウス区の夜景――というより、無数の違法建築物の明かりが見えた。
ナタリアは部屋に入り、ドアを閉める。
そして椅子に座り、両手を組んで祈るように待った。
本当に来るのだろうか。
404号室の始末屋。都市伝説。
しかし、もう他に頼るものは何もなかった。
時間が針のように肌を刺す感覚だった。
5分、10分、15分――
「……っ?」
その時、ナタリアは気配を感じた。
振り返ると、部屋の隅の闇が濃くなった場所に人影が立っていた。
「え……」
いつの間に。ドアの開く音も、足音も、呼吸の音すら聞こえなかったのに?
水色の髪。白いパーカー。小柄な少女。
そして、暗闇でも微かに燐光を放つ赤い瞳。
「……あなたが……まさか」
ナタリアの声は震えていた。
少女――カーバンクルは無言で頷いた。
そしてテーブルを挟んで向かいの椅子に、音もなく腰を下ろす。
「私は404号室の始末屋。あなたがここに来た理由を話して」
カーバンクルの声は低く、感情の起伏がない。
ナタリアは一度深呼吸をし、唇を震わせながら口を開いた。
「息子が……息子が死にました。3日前に」
彼女の目から涙が溢れた。しかし声は途切れない。執念が彼女を支えていた。
「フェリックス。フェリックス・ベッカー。23歳でした」
■
――1年前。イースト区、ベッカー家のアパート。
「やったぞ、母さん! 合格した!」
フェリックスが玄関から飛び込んできた。
金髪の若者は、母親に採用通知のデータを表示した端末を見せた。
そこには「クロムウェル・システムズ」のホログラムロゴが輝いている。
「本当!? フェリックス、おめでとう!」
ナタリアは息子を抱きしめた。涙が止まらなかった。
……夫を3年前に事故で亡くして以来、ナタリアは一人で息子を育ててきた。
イースト区の工場で働きながら、フェリックスの学費を稼いだ。
息子は優秀だった。
奨学金を得て大学を卒業し、そして今、セントラル区の大企業から内定を得たのだ。
「これで母さんも楽になるよ。給料が入ったら、もっと綺麗な空気が吸える場所に引っ越そう」
「フェリックス……無理だけはしないでね」
「大丈夫だよ。これは俺たちの未来へのチケットなんだから」
フェリックスは笑顔だった。希望に満ちた、太陽のような笑顔だった。
■
――11ヶ月前。
クロムウェル・システムズ本社ビル、15階開発部門。
「フェリックス・ベッカーくん、だね? この部分のコード、バグがある」
「え……あ、本当だ」
先輩社員に指摘され、フェリックスは慌てて確認した。
確かにケアレスミスだ。
入社1ヶ月目の新人としては、あり得るミスだった。
「すみません、すぐ修正します」
「ああ、頼む。ヤン社長は完璧主義者だから、ミスには……」
先輩の言葉が途切れた。
背後から冷たい空気が流れ込んできたからだ。
「――誰がミスをしたんだね?」
フロア全体のキーボードを打つ音が、一斉に止んだ。
フェリックスが振り返ると、そこにはヤン・ジュンソクが立っていた。
値踏みするような冷たい目が、フェリックスを見下ろしている。
「あ、あの、私です。すぐに修正を……」
「名前は?」
「フェ……フェリックス・ベッカーです」
ヤンはフェリックスの顔をじっと見た。
そして、わざとらしくため息をついた。
「ああ、君か。ネオ・アルカディア工科大学……だったかな。三流大学出身者は、やはり仕事も三流だな」
「なっ……」
フェリックスは何も言い返せなかった。
周囲の社員たちは誰も助けに入らない。
皆、自分のモニターに魂を吸い取られたかのように見て見ぬふりをしている。
「謝罪はいい。時間の無駄だ。君のような人材を雇ってしまった人事部の責任だな。後で担当者の評価を下げておこう」
ヤンは踵を返し去っていった。
その背中を見送りながら、フェリックスは拳を握りしめた。
自分のせいで誰かの評価が下がる。
その事実が鉛のように重かった。
これが、悪夢の始まりだった。
■
――9ヶ月前。
深夜2時、クロムウェル・システムズ本社ビル。
フェリックスは目を擦りながら、コードを書き続けていた。
フロアには彼を含めて5人の社員が残っている。皆、疲労で顔色が土のようだった。
「もう無理だ……帰りたい……」
隣のデスクの同僚が、モニターに映る自分に呟いた。
フェリックスも同じ気持ちだった。
しかし帰れない。ヤン社長は、全社員の労働時間を監視している。
定時で帰ろうものなら、翌日に「君は成長意欲が低いようだね」と個人面談が設定されるだろう。
「ん……通知?」
フェリックスの端末に、母親からのメッセージが届いた。
『フェリックス、大丈夫? 無理しないでね』
「……っ」
彼は返信を打とうとしたが、やめた。
母親に心配をかけたくない。自分は大丈夫だと強がりたかった。
その時、フロアの照明が自動で一段階明るくなった。
VIPの入室を知らせるサイン。ヤン・ジュンソクだった。
「まだ頑張っているね。感心だ」
ヤンは満足げに頷いた。
しかしその次の言葉は社員たちの心を折った。
「だが、君たちの生産性は低いままだ。働き方が悪いんじゃないか? 明日は土曜日だが、特別に私が効率的な働き方を指導してあげよう。全員出社だ」
「……っ!」
社員たちの顔が絶望に染まる。
ヤンはそれを見て、愉悦の笑みを浮かべた。
■
――3ヶ月前。
クロムウェル・システムズ本社ビル、12階の空き会議室。
フェリックスは会議室に隠れていた。
昼休みが終わって20分。もう限界だった。
頭が痛い。目がかすむ。手が震える。
ニューラルチップが、過労による健康被害を警告し続けている。
「少しだけ……10分、だけ休めば……」
フェリックスは机に突っ伏した。
その時、会議室のドアが静かに開いた。
「ベッカーくん。ここで何をしている?」
「ひっ……!」
心臓が凍りついた。
フェリックスは跳ね起き、振り返った。
ヤン・ジュンソクが、冷たい笑みを浮かべて立っていた。
「し、社長! これは……!」
「14分32秒。君は貴重な会社の資産である時間を、無駄に消費していた」
ヤンは腕の端末を見せた。
「も、申し訳ございません! 体調が……」
「体調管理も仕事のうちだ。できないなら、君の価値はない。そうだろう?」
ヤンは一歩近づき、フェリックスの顔を覗き込んだ。
「君、最近パフォーマンスが落ちているね。三流大学出身の限界かな? それとも、君を育てた母親の教育に問題があったのかな?」
「っ、母は……関係ありません!」
「おや、反抗するのか。いいね、そういう無駄なエネルギーがあるなら仕事に使ったらどうだ?」
フェリックスの目から涙が溢れた。
悔しさか、それとも絶望か。自分でも分からなかった。
「今月の給与は30%カットだ。ああ、それと君の母親に『息子さんの教育について』というテーマで、一度面談を申し入れておこうか?」
ヤンは会議室を出て行った。
一人残されたフェリックスは、机に拳を叩きつけた。
「くそっ! くそぉ……!!」
音を立てないように、声を殺して泣いた。
家族を人質に取られた気分だった。
■
――3日前。
クロムウェル・システムズ本社ビル、最上階CEO執務室。
フェリックスは、ヤンの前に立たされていた。
ヤンは椅子に座ったまま、面白がるように彼を見上げた。
「君を、明日からプロジェクトリーダーに任命する」
「え……?」
フェリックスは耳を疑った。ついに、自分も出世できるのだろうか。
しかし、ヤンの次の言葉がその一瞬の希望を打ち砕く。
「もちろん、君にそんな能力がないことは分かっている。これは実験だよ。三流大学出身の無能がどこまでやれるのか。見ものだろう?」
ヤンは一つ一つ、指を折りながら数えた。
「君はミスをする。サボる。言い訳をする。そして、弱い。そんな君にリーダーが務まるはずがない。プロジェクトは失敗するだろう。だが、その失敗は次の世代への良い教訓になる」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「お前は使えない。だが、お前の失敗は使える。これほど効率的なことはない」
ヤンは立ち上がり、窓際に歩み寄った。
「君はこの会社にとって生きた教材だ。反面教師という名のね。君の母親は、君を立派な社会貢献のできる人間に育てたじゃないか」
「……」
「君が死んでも誰も悲しまないよ。君の母親でさえ、君がいなくなった方が生活が楽になるんじゃないか? ほら、会社から弔慰金も出るしな」
ヤンは振り返り、フェリックスを見た。
その目には何の感情もなかった。
ただ、壊れていく人間を観察する科学者のような冷たい好奇心だけがあった。
「なぁ、いっそビルから飛び降りたらどうだ? それが君にできる、唯一で最大の社会貢献だ」
フェリックスの体から、全ての力が抜けた。
膝が震え、立っているのがやっとだった。
「……なぁに、冗談だよ」
ヤンは笑った。しかしその笑いには、温かさのかけらもなかった。
「リーダー就任は明日からだ。せいぜい、無様に足掻いてみせてくれ。もちろん、これまでのようなミスは許されない。君のことはもっと徹底的に監視してやるからな」
「は……い……」
フェリックスは、ふらふらと執務室を出た。
廊下を歩き、エレベーターに乗り、無意識のうちに屋上のボタンを押していた。
(……もう、疲れた)
冷たい風。人工的な夜空。
フェリックスは柵に近づいた。眼下には、ネオ・アルカディアの光の海が広がっている。
それらが全て遠く、自分とは無関係に見えた。
彼は柵に手をかけた。
「母さん……ごめん。俺は……価値のない人間だった……」
彼の目から涙が溢れた。
そして、体が前に傾いた。
落下。
風が顔を叩く。景色が回転する。
フェリックスの最後に見たのは、ドームの天井に映る偽物の星空だった――
■
――現在。404号室。
語るうちにナタリアは泣き崩れていた。
テーブルに突っ伏し、日記から得た息子の最期の様子を必死に語る。
カーバンクルは、その様子を静かに見ていた。
感情を示すことなく。ただ依頼の根拠となる事実を、一つ一つ記録するように。
やがてナタリアは顔を上げた。
「お願いします……息子の無念を……!」
「標的の、名前は?」
カーバンクルの声には相変わらず感情がない。
ナタリアは目を拭い、憎しみを込めて答えた。
「ヤン・ジュンソク。クロムウェル・システムズのCEOです」
カーバンクルの赤い瞳が一瞬、強く光ったように見えた。
「わかった。引き受けた」
短い言葉だった。しかし、ナタリアには神の宣告のように聞こえた。
「あ、ありがとう……。どうか……私に差し出せるものなら何でも差し出しますから」
「ホテル代は払った?」
「え? は、はい……」
「じゃあ、それで十分。追加料金はいらない」
カーバンクルは立ち上がった。
「ただ……時間がかかるかも。彼は私を警戒してる」
「時間、というと……どのくらい……?」
「分からない。でも、必ず終わらせる」
カーバンクルはドアに向かった。
その背中を見て、ナタリアは言う。
「あの……あなたは……」
「何?」
カーバンクルが振り返る。
ナタリアは迷ったが、聞かずにはいられなかった。
「あなたは……どうしてこんなことを?」
カーバンクルは少しの間沈黙する。
そして、静かに答えた。
「これは、私の罪を雪ぐためだから」
それだけだった。
カーバンクルはドアを開け、廊下の闇に溶けるように消えていった。
窓の外では、サウス区の夜が更けていく。
違法建築物の明かりが、まるで墓標のように点滅を続けていた――。
気持ち早めの出撃




