【断罪】完全再現拷問データ
ネオファブ工場、最上階オフィス。
夜間でも研究棟と、最上階オフィスの灯りだけは消えることがない。
電力節約のために従業員エリアの照明は落とされていても、ヴェックスのいるオフィスだけは例外だった。
彼は特権を享受する側の人間だ。
ヴェックスは窓際に立ち、タンブラーに注いだ高級スコッチを揺らしていた。
シャツの袖はまくり上げ、ネクタイは緩められている。
彼の整った顔には疲労の色が見えるが、満足げな微笑みを浮かべていた。
「株価はすでに回復傾向にある……」
自分に言い聞かせるように彼は呟いた。
情報リークによる一時的なダメージは、内部告発者の解雇と、情報通信企業への根回しによって最小限に抑えられた。
会社は欠陥チップを回収すると発表したが、実際には最低限の対応で幕引きを図るつもりだ。
数千の人命より、利益の方が重要なのだから。
彼はコンソールに向かい、連絡を試みる。
「レイザー、マルコは見つかったのか? そろそろ状況を報告しろ」
通信端末からは応答がない。すでに3時間も連絡が取れていない。
「チッ……あの男は一体何をしている?」
ヴェックスは苛立って端末を叩いた。レイザーの仕事はいつも完璧だったのに。
マルコの始末も奴に任せている。レイザーの連絡が途絶えるなど前代未聞だった。
「所詮はヤツも無能か。まったく、この世には無能ばかりだ」
スコッチを飲みながら、彼は酒臭い息を吐いた。
くだらない正義心に踊らされて企業に迷惑をかける無能。
バレないとでも思っているのか、始末対象を不要に損壊する無能。
それだけではない。この企業に属するほとんどの人間は無能。
有能と言えるのは経営陣に数名、そして自分だけ。ヴェックスにはそう見えていた。
そのとき、オフィスの照明が突然ちらついた。
ヴェックスは眉をひそめた。電力系統の異常だろうか?
このフロアには独立した非常用電源があり、三重のバックアップシステムが組み込まれている。なのに、何故……。
そして、全ての照明が消えた。
「なっ……?」
漆黒の闇がオフィスを覆う。外の景色だけが窓から微かに見える程度だ。
ヴェックスはコンソールのパニックボタンに手を伸ばす。
無能の警備を呼び出すボタンだ。何時だろうが関係ない、来なければクビだ。
「警備を――」
彼の言葉は途中で止まった。背後に誰かがいる気配を感じたのだ。
振り返ると、薄暗がりの中に小さな人影が立っていた。
水色の髪。白いパーカー。赤い瞳。
「誰だ!?」
ヴェックスは声を張り上げた。
「ここは立入禁止区域だぞ。どうやって入った?」
少女は黙ったまま、ポケットから小さなデバイスを取り出した。
それはレイザーの持っていたデバイス。拷問を記録した端末だ。
「……ん? それは確か、あのバカが持っていた……レイザーはどうした?」
「終わったよ」
少女の声は冷たく、感情がない。
「私は404号室から来た」
「なに……?」
ヴェックスは一瞬、目を見開いた。
「404号室」――彼は確かにその噂を聞いたことがあった。
サウス区やイースト区の労働者たちの間で囁かれる都市伝説。悪人を始末する謎の存在。
しかし、それは単なる噂に過ぎないと思っていた。
下層民の間の迷信、現実逃避でしかないはずだ。
「馬鹿げている……冗談はやめろ、ガキ。私は忙しいんだ」
ヴェックスは緊張を隠すように笑い、コンソールのボタンに手を伸ばしながら話を続ける。
「いいか、お嬢さん。君はセキュリティエリアに入り込み、危険なゲームをしている。
今すぐ立ち去れば、何もなかったことにしてやる」
その瞬間、カーバンクルは動いた。
一瞬で距離を詰め、ヴェックスの手首を掴む。
彼はその握力の強さに驚き、痛みで顔を歪めた。
「ぐっ……何をする! 放せ! 私を誰だと思ってる!?」
「ヴェックス。ネオファブ社製品部門開発局長。社内だけでなく、社外にも強いパイプを持つ」
カーバンクルは冷徹に彼のプロフィールを述べると、ヴェックスをオフィスチェアに押し込み、あっという間に拘束した。
特殊なバインディングワイヤーが彼の手首と足首を固定する。
「待て、待て! 話し合おう! 金が欲しいのか? いくらでも支払うぞ!」
カーバンクルは彼の言葉を無視し、何か機械的なゴーグルを取り出した。
ドリーマービジョン-VX10。最先端の神経接続VR装置だ。
普段はVRゲームや映画の体験用に使われる高価な機器だが、今回は別の用途に使われようとしていた。
「それは……な、何をするつもりだ?」
恐怖がヴェックスの声に混じる。カーバンクルは淡々と準備を続けた。
装置のヘッドセットはヘルメットのように全頭を覆い、複数の細いニードルが内側に並んでいる。
これらが脳の感覚野に直接信号を送り、完全な感覚シミュレーションを可能にする。
「や、やめろ! 近づくな!」
ヴェックスの抵抗も虚しく、カーバンクルはヘルメットを彼の頭に被せた。
ニードルが頭皮を通過する痛みに、彼は悲鳴を上げる。
「あぁっ! ぐっ……!」
「これはあなたの命令の結果を体験するためのものだよ」
カーバンクルはレイザーのデバイスをVR装置に接続した。
アイリスの拷問データがロードされはじめる。
「なっ、何のことだ!? わからんぞ! 私はただビジネス上の決断をしただけだ!」
「アイリス・エンデバー。14歳。免疫不全症。あなたの命令でレイザーに拷問され、死亡した」
「ち、違う! 私は見せしめにしろと言っただけだ! 殺せとは言ってない! 奴が拷問までするとは知らなかった!」
「嘘だね……。レイザーは前科があったし、あなたも黙認してたでしょ」
彼女はVR装置の出力を最大に設定した。
通常の設定では、使用者の安全のために感覚入力のデータ量は制限されている。
特に、痛みなどのネガティブな感覚は緩和されるようになっている。
しかし、カーバンクルはそれらの制限を全て解除した。
「それじゃ、始めようか」
「待て! おい待て、何をする気だ!? やめろと言ってるだろ! 聞こえないのか!」
スイッチを入れると、ヴェックスの体が硬直した。彼の目が見開き、全身が震え始める。
まず彼の脳に流れ込んだのは、マインドプローブによる痛み。
頭蓋骨に穴を開けられ、脳に直接侵入される感覚。
耐え難い激痛に、ヴェックスは叫び声を上げた。それは人間の声とは思えないような悲鳴だった。
「ぎゃああああああっ!! 止めろ! お願いだ、止めてくれ!」
しかし、誰も答えない。VRの中では、レイザーの声が彼に語りかける。
『これからが本番だ、アイリスちゃん。お兄さんの居場所を教えてくれれば、痛みは止まるよ』
「レイザー! やめろ! 私だ! ヴェックスだ!」
彼の混乱した叫び声がオフィス中に響く。カーバンクルは冷静に見つめていた。
次に来たのは皮膚感覚。
無数の切り傷、火傷、皮膚剥離の痛み。
ヴェックスの体は拘束されているにもかかわらず、激しく痙攣した。
汗が全身から噴き出し、服を濡らす。
「ああああっ! 誰か! 助けてくれ! これを止めろ、この機械を!!」
VRの中でレイザーは続ける。
『素晴らしい反応だ。データを取らせてもらうよ』
「やめろ、私を誰だと思ってる! やめろ! 私はお前の上司だぞ!」
無意味な叫びだった。
レイザーの拷問は、過去にアイリスに対して行われたものの記録でしかない。
いくら叫んだところで、記録は止まらない。カーバンクルが止めない限りは。
「痛い! 痛い! もうやめろ、やめてぇ! 何でもする! 何でもぉぉ!」
ヴェックスの顔は涙と汗でぐしゃぐしゃになっていた。
尿が椅子を濡らし、鼻血が流れ出している。
カーバンクルは時計を見た。アイリスが拷問に耐えた時間を計測している。
彼女は14歳の少女だった。末期の病に冒されていた。
それでも彼女は2時間32分間、耐え抜いたのだ。
「あと1時間47分。もし耐えられたら、あなたは生かしておいてあげるよ」
カーバンクルは冷たく告げた。
「む、無理だ、死んでしまう! し……心臓が持たない……!」
ヴェックスは激しい拷問の感覚に泣き叫んだ。ちょうど、記録の中の女の子のように。
「殺して……殺してくれぇ! もう耐えられない!」
カーバンクルは無表情のまま、彼を見つめていた。
「これはアイリスが感じた痛み。あなたの命令による結果だよ」
「ひっ、ぎ、いいいい! やめてぇぇ、指はそっちにはぁぁあ゛あ゛あ゛!!」
「うるさいな……」
拷問データは無慈悲に再生され続ける。
ヴェックスの悲鳴は次第に弱まっていった。
彼の脳が激しい痛みに耐えきれなくなっていたのだ。口から泡を吹き、全身が痙攣する。
カーバンクルはデータをモニターし、彼の生体反応を確認した。
おそらくあと数分で心臓が停止するだろう。
VRの中でレイザーが最後の言葉を告げる。
『いやぁ、いい声だなぁ。もっと痛みのレベルを上げてみよう!』
「ぐ、ぎ、ぎ……ぐげ……」
それは、マインドプローブが最大出力になったときの記録だった。アイリスの死の瞬間。
――ヴェックスは絶叫した。
それは地の底から響く獣のような声だった。
そして直後、彼の体が弛緩した。あまりの痛覚に脳機能が焼け焦げ、停止したのだ。
カーバンクルはVR装置のスイッチを切り、静かにヘルメットを外した。
ヴェックスの顔には、極限の恐怖と苦痛が刻まれていた。
尊厳も何もない、ただの死体。こうなってしまえば、金も権力も無意味だった。
「二人目。死亡確認」
カーバンクルは小さく呟き、現場を整理し始めた。
警備システムを復旧させ、ヴェックスの死亡記録を改ざんする。
システムログには「心臓発作による突然死」と記録され、VR装置は回収される。
それは誰かに殺されたようには見えなかった。だが、壮絶な死体だった。
彼の体に目立った外傷はない。ただ、脳がオーバーフローを起こす激痛によってショック死したのだ。
カーバンクルはオフィスを出る前に、最後に一度だけ振り返った。
兄妹を苦しめ、利益のために多くの死者を許容しようとした男の哀れな死体を見て、なお何も感じなかった。
ただ任務が完了したという事実だけを、彼女は噛み締めていた。
「レイザー。ヴェックス。……お前たちはもう、どこにも|存在しない《404 Not Found》」
彼女は扉を閉め、闇の中に消えていった。
■
サウス区、メモリアル・ループ。
巨大ドームの底層に位置するこの場所は、サウス区、イースト区の住民のための最低限の弔いの場だった。
白い円形ホールの壁面に無数の小さなニッチが並び、各々にメモリーキューブと呼ばれる小さな結晶体が収められている。
これが、ネオ・アルカディアの貧しい人々の「墓」だった。
キューブには故人の名前と生体データが保存され、タッチすると簡素なホログラムが表示される。
セントラル区の高級メモリアルホールのような完全な意識シミュレーションではなく、単なる静止画像だ。
それでも、何もないよりはましだった。
マルコは一人、壁の隅にあるキューブの前に膝をついていた。
公式の登録ができなかったため、彼はハッカー友達の助けを借りて、違法にこのスペースを確保していた。
キューブは粗末な自作品で、内部にはアイリスのDNA標本と、彼女の断片的なデータが保存されている。
「アイリス・エンデバー 2066-2080」
キューブをタッチすると、青白い光が揺らめき、アイリスの小さなホログラムが浮かび上がった。
マルコの持っていた唯一の画像データは彼女が12歳の時のもの。
病気になる前の、笑顔の画像だった。
「ごめん、アイリス……」
マルコは掠れた声で呟いた。目は乾いていた。もう涙も枯れたのだ。
「俺が……俺が間違った選択をした。お前を一人残して……馬鹿だった……」
彼はホログラムに向かって手を伸ばしたが、指は光をすり抜けるだけだった。
胸の中に燃えていた復讐の炎も、今は冷たい灰に変わっていた。
「正しいことをしようとしただけなのに……なんでお前が犠牲にならなきゃいけなかったんだ……」
それは自問自答だった。メモリアル・ループの微かな動作音だけが返事をする。
「最後まで俺のこと守ってくれたんだな。居場所を話さなかったって……」
マルコは唇を噛んだ。出血しても気にしない。痛みさえ、もう何も感じなかった。
「俺は間違ってた。あの時、お前の治療薬をもらう選択をすべきだった。そうすれば今も生きてて……!」
「それでも、結局は死んでたと思うよ」
突然の声に、マルコは振り返った。
カーバンクルが数メートル後ろに立っていた。白いパーカー、水色の髪、無表情な顔。
いつの間に現れたのか、足音ひとつ聞こえなかった。
「どういう意味だ?」
カーバンクルはゆっくりと近づいてきた。
「誤魔化しだった。ヴェックスにはセントラル区の薬を手に入れるコネなんてなかったよ」
「どうしてそう言える……?」
「両方とも終わった。ヴェックスと……拷問実行者のレイザー」
マルコはゆっくりと立ち上がった。
予想よりも早い報告に、彼は言葉を失った。あれから48時間も経っていない。
「どうやって……君みたいな子供が……」
「方法は重要じゃない。結果だけが重要。でしょ?」
沈黙が二人の間に流れた。サウス区の喧騒が壁の向こうから聞こえる。マルコはようやく口を開いた。
「彼らは……苦しんだか?」
カーバンクルの赤い瞳が一瞬光る。
「……レイザーはアイリスの拷問データを持ってた。ヴェックスは、それを体験した」
マルコの表情が変わった。苦しみと満足が入り混じる複雑な表情。
彼はうなずいただけだった。
「でも……復讐しても、アイリスは戻らない。俺の選択が彼女を殺したんだ。俺が……」
「選択は常に代償を伴う」
カーバンクルは冷静に言った。その声には感情はないように思える。
「あなたは多くの命を救った。ヴェックスが隠蔽をできなくなって、欠陥チップはかなりの数回収されるみたい」
「……君が、それをやってくれたのか?」
「たまたま。私は殺しただけ」
マルコは混乱した顔でカーバンクルを見つめた。
この少女は一体何者なのか。単なる始末屋以上の何かがあるのは明らかだった。
「……その代償がアイリスの命だったとしても……正しかったのか?」
「正しいか間違いかは判断できない。選択があっただけ。それと、結果があっただけ」
そう言って、彼女はポケットから小さなメモリーチップを取り出した。
「これはレイザーのデバイスからのデータ」
マルコは震える手でそれを受け取った。
「中身は……?」
「アイリスの、拷問データ。見るかどうかはあなたの選択」
マルコはチップを握りしめた。彼女の最後の考え、痛み……それらを見るべきか。
それとも、こんな忌まわしいものは破壊すべきか。彼にもまだわからなかった。
「ありがとう……いくら払えばいい?」
「もう払ってもらったでしょ。ホテル代。私はこれから泊まってくるから……」
カーバンクルは欠伸をすると振り返り、歩き始めた。マルコは思わず声をかける。
「もう会えないのか?」
少女は立ち止まり、わずかに振り返った。
「必要なら、404号室を予約すればいい。……次はもっといいホテルだといいな」
そして、無言で歩き続けた。
しばらくして、彼女の姿はメモリアル・ループの出口の光の中に消えていった。
マルコは再びアイリスのホログラムに向き合った。
指でそっと輪郭をなぞる。何も触れられないが、それでも彼にとっては大切な儀式だった。
胸の中の空虚さは埋まらない。しかし、かすかな平穏が訪れていた。
妹を殺した者たちへの怒りという重荷が、少しだけ軽くなったように感じた。
「アイリス。お前なら俺を許してくれるかな……」
ホログラムの少女は答えない。永遠に微笑み続けるだけ。
マルコはキューブに唇を寄せ、そっと額を触れた。
「――さよなら」
彼はゆっくりとメモリアル・ループを後にした。
■
ネオ・アルカディアの人工的な夜が更けていく中、どこかの部屋の灯りが消え、また別の部屋で灯りがともる。
永遠に繰り返されるドームの中の夜と昼。
そして都市のどこかには、必要とされる時に現れる404号室の始末屋がいる。
水色の髪と赤い瞳を持つ、小さな少女が。