【断罪】殺しの後悔
意識が混濁から浮上した時、ダニエルは冷たい床の上に転がっていた。
全身が軋むように痛む。
顔、腹、腕、脚。
鈍い痛みが、まるで体中に鉛を詰め込まれたかのように重く響いていた。
霞む目を開けると、見慣れない天井がぼんやりと映った。
「こ、こは……どこだ?」
体を起こそうとして、脇腹に走る鋭い激痛に顔を歪めた。
肋骨が何本か折れているのかもしれない。
「あぐっ! ぐ、う……っ!」
痛みに喘ぎながら彼は周囲を見回した。
そこは、和風のしつらえが施されたホテルの客室だった。
畳を模した床材。壁には水墨画風の風景ホログラムが投影されている。
そして――部屋の隅に置かれた、見覚えのある旧式の車椅子。
「……母さんの、泊まってた部屋……?」
ダニエルの唇から、掠れた声が漏れた。
「正解」
「ッ!!」
氷のように冷たい声が返ってきた。ダニエルは弾かれたようにそちらを向いた。
窓際に、カーバンクルが立っていた。
逆光でその表情は影になっているが、二つの赤い瞳だけが、暗闇の中で捕食者のように爛々と光っている。
「なんで……」
「あなたを運んできた」
カーバンクルは音もなく一歩近づいた。
その小さな体躯からは想像もつかない威圧感が部屋の空気を支配していた。
「マーガレットが死んだこの部屋で、あなたにも同じように死んでもらおうと思ってね」
その言葉に、ダニエルの顔から血の気が引いた。
「ま、待て……!」
「でも、やめた」
カーバンクルは無表情のまま続けた。
「殺すのは簡単すぎる。それじゃあなたの罪には見合わない」
彼女はゆっくりとダニエルの前にしゃがみ込み、その赤い瞳で彼の恐怖を覗き込んだ。
「あなたには、ちゃんと苦しんでもらう必要がある」
次の瞬間、カーバンクルの小さな拳が、ダニエルの顔面にめり込んだ。
「がっ……!?」
鈍い音と共に、鼻から熱い血が飛び散る。ダニエルは衝撃で床に倒れ込んだ。
カーバンクルは静かに立ち上がり、うずくまるダニエルの腹部に、容赦のない蹴りを叩き込んだ。
「ぐはっ……や、やめ……!」
彼女は止まらない。
折れているであろう肋骨に。脇腹に。脚に。
人体の急所を知り尽くした動きで的確に、しかし決して致命傷にはならない場所を選んで暴行を繰り返した。
「マーガレットは」
カーバンクルの声が、わずかに震えていた。それは怒りか、それとも悲しみだろうか。
「とても、優しい人だった」
蹴る。
「あなたたちに、あんなに酷いことをされても」
蹴る。
「それでも、家族を愛していた」
蹴る。
「なのに、あなたたちは……!」
カーバンクルの声が、制御できない感情を帯びた。
純粋な怒り。深い悲しみ。そして脳内の戦闘データが煽る破壊衝動。
彼女は何度も何度もダニエルを殴り、蹴り続けた。
本来であれば命を奪うこともできる。だがあえて、ただ痛みを与えるだけの打撃を繰り返す。
ダニエルは床で丸まり、もはや言葉にならない悲鳴を上げた。
「ひっ……や、やめぇ、ギッ……し、死ぬ……!」
「まだ死なせない」
カーバンクルは冷たく言い放った。
「殺すのはもっと痛めつけて、から……」
振り上げた彼女の拳が、ぴたりと止まった。
「……!?」
「はぁ、はぁ……」
荒い呼吸を整えるように、深く息を吸い、そして吐く。
内なる衝動を必死に抑え込もうとしているようだった。
「……ダメだ」
カーバンクルは一歩下がり、自分自身から距離を取るように呟いた。
「これ以上は、ルール違反になる……」
彼女は自分の手を見た。ダニエルの血で赤く汚れている。
「私は……」
その時、ふらついたカーバンクルの肘が、部屋の隅に置かれていた荷物に当たった。
それはマーガレットが持ってきた古びたスーツケースだった。
それがバランスを崩して倒れ、留め金が外れて中身が床に散らばった。
着古した衣服、常備薬、ささやかな化粧品。
そしてその中から、一冊の古びたアルバムが滑り落ちた。
カーバンクルは動きを止めた。
床に落ちたアルバムを、吸い寄せられるようにじっと見つめる。
その表紙には丸みを帯びた文字で、こう書かれていた。
「大切な思い出」。
カーバンクルはゆっくりとアルバムを拾い上げた。
指先についた血が表紙を汚さないように、慎重にページをめくる。
最初のページには、若い頃のマーガレットの写真があった。
隣には実直そうな男性。夫だろう。二人は幸せそうに笑い、腕の中の赤ん坊を見つめている。
次のページ。
幼い子供の写真。ダニエルだ。まだ3歳くらいだろうか。母親に抱きつき、屈託なく笑っている。
次のページ。
ダニエルと並ぶ女性の写真。ソフィアだ。二人ともどこか恥ずかしげに写真に写っている。
次のページ。
小学生のライアン。野球のユニフォームを着て、祖母であるマーガレットと肩を組んでいる。
二人とも満面の笑みを浮かべていた。
カーバンクルは一枚一枚ページをめくり続けた。
家族旅行の写真。誕生日の写真。卒業式の写真。
全てのページに、マーガレットの慈愛に満ちた笑顔があった。
子供たちを、孫を、愛おしそうに見つめる優しい目があった。
「これは……」
アルバムの最後のページに一枚の便箋が挟まれていた。
カーバンクルはそれを取り出し、そこに綴られた文字を読む。
「……ダニエルへ。
もしあなたがこれを読んでいるなら、私はもうこの世にはいないのでしょうね。
あなたを育てるのは、大変なこともあったけれど、とても幸せな時間でした。
小さい頃のあなたは、いつもニコニコしていて、とても優しい子でした。
いつから、あなたはそんなに辛そうな顔で笑うようになったのかしら。
それは、きっと私の責任なのでしょう。
もっとあなたの話を真剣に聞いてあげればよかった。
もっと一緒にいる時間を作ってあげればよかった。
もっとあなたを愛していると、言葉で伝えてあげればよかった。
そうすれば、今とは何か違っていたのかもしれない。
でも、時間はもう戻らない。
だから、せめてこの手紙で伝えさせてください。
私はあなたを愛しています。
ソフィアも、ライアンも、みんな心から愛しています。
どんなに冷たくされても、どんなに邪魔者扱いされても。
それでも、あなたたちは私の大切な、かけがえのない家族です。
だから、どうか幸せになってください。
私が残すお金は、そのために使ってください。
どうか、争わないで。仲良く分けてくださいね。
そして、もしできれば――
時々でいいから、私のことを思い出してくれたら嬉しいです。
たくさんの愛を込めて
母より』
カーバンクルの手が、微かに震えた。
手紙を持つ指先から、力が抜けていく。
「…………」
彼女は何も言えなかった。言葉が思考から消え失せてしまったかのようだった。
床で倒れているダニエルもその手紙の内容を聞いていた。
腫れ上がった彼の視界に、カーバンクルが落とした手紙の文字が見える。
「かあ……さん……」
ダニエルの口から呻くような声が漏れた。
彼は震える手を伸ばし、その手紙を掴む。
「あ、あ――ああああああぁ……!!」
ダニエルは手紙を胸に握りしめた。
そして――声を上げて泣き始めた。堰を切ったように、嗚咽が溢れ出す。
「かあさん……ごめん、なさい……ごめん……」
後悔と自責の念が、彼の心を粉々に砕いていく。その慟哭が、静かな部屋に響き渡った。
いつからだっただろう。老いた母が煩わしくなったのは。
一度嫌い始めてしまうと、もはや止められなかった。かつて本当に愛していた母であっても、殺すことを厭わなくなるほどに。
しかし振り返ってみれば、確かに母の愛を感じ、そしてそれを信じて生きてきた人生だった。
ダニエルの脳裏に、走馬灯のように母との思い出が駆け巡る。
カーバンクルはただその様子を見つめていた。
赤い瞳が、これまで見せたことのない複雑な光を帯びている。
その時――乱暴にドアが開かれた。
「あなた!」
ソフィアが飛び込んできた。
「何の音なの……って」
彼女は部屋の惨状を見て凍りついた。
床に倒れ、血まみれで泣きじゃくる夫。
そしてその横に静かに佇む、水色の髪の少女。
「あんた……!」
ソフィアの顔が恐怖から怒りへと歪んだ。
「何をしてるのよ! 夫に!」
続いてライアンも部屋に駆け込んできた。
「親父! おい、大丈夫か……って、てめえ! 何をしていやがる!」
彼は護身用に持っていたナイフをポケットから取り出した。
カーバンクルはゆっくりと二人を見た。
その表情は再び氷のような無表情に戻り、静かに佇んでいる。
「……全員揃ったね」
彼女の声は、地を這うように低かった。
「ちょうどいい。まとめて始末できる」
カーバンクルは戦闘態勢に入った。
赤い瞳が再び幾何学模様に変化し、その小さな体から濃密な殺気が溢れ出る。
脳内の戦闘データが完全に起動する。
100人を超える殺人者たちの技術と経験が、彼女の中で目を覚ます。
『殺せ』
『全員殺せ』
『復讐を完遂しろ』
カーバンクルは一歩、前に踏み出した。
その一歩だけで、ライアンは怯えて後ずさった。ソフィアは声にならない悲鳴を上げた。
カーバンクルの拳が固く握られる。
次の瞬間、三人は死ぬ。
それは高いところから低いところに水が落ちるように、確実なことだった。
彼女は二歩目を踏み出そうとした――
その時。
誰かが、彼女の手を掴んだような気がした。
「……?」
カーバンクルは動きを止めた。
自分の手を見る。
しかし、そこには誰もいない。
だが確かに感じた。
温かい手。優しい手。
少し震えている、年老いた手。
「マーガレット……?」
彼女はほとんど聞こえない声で呟いた。
幻覚だ、そんなはずはない。
マーガレットはもう死んでいる。
冷たくなってこの部屋で発見され、昼にはもう運び出されたのだ。
でも――確かに、手を掴まれた気がした。
そして、声が聞こえた気がした。
『あなたに、新しい罪を背負わせたくないの』
マーガレットの声。
カーバンクルの体が微かに震えた。
固く握りしめられていた拳が、ゆっくりと開かれていく。
嵐のように吹き荒れていた殺気が、少しずつ凪いでいく。
赤い瞳の幾何学模様が元の静かな光に戻る。
「……やめた」
カーバンクルは、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「これ以上はダメだ……」
彼女は二人から目を逸らし、床で泣き続けるダニエルに視線を落とした。
彼はまだ母の手紙を胸に抱きしめ、子供のように泣いている。
ソフィアとライアンも、その手紙が見えたのだろう。
二人の顔から怒りや恐怖が消え、みるみるうちに青ざめていった。
「これは……」
ソフィアが震える声で言った。
「お母様の……字……?」
カーバンクルは踵を返し、窓に向かって歩いた。
「マーガレットはあなたたちを愛していた」
彼女は振り返ることなく静かに言った。
「最期まで。最期の時まで」
窓のロックを外し、開け放つ。
「でも、あなたたちは彼女を殺した。その罪は決して消えない。いつか、必ず償うことになる」
そして――
彼女は窓から夜の闇へと身を躍らせた。
4階の高さから。
「なっ……!?」
ソフィアは驚いて窓に駆け寄った。
しかし下の通りを見下ろしても、カーバンクルの姿はどこにもなかった。
まるで影のように、闇に溶けて消えていた。
部屋には深い静寂が戻った。
ダニエルの嗚咽だけが、いつまでも響いている。
ソフィアはゆっくりと床にしゃがみ込み、散らばったアルバムを拾い上げた。
ページをめくる。
そこに写っているのは、幸せだった頃の家族の姿。
誰もが心から笑っていた、もう二度と戻らない遠い日々。
「あ……」
彼女の目から大粒の涙が溢れ出した。
ライアンもそのアルバムを覗き込んだ。
そこには野球のユニフォームを着た自分が、祖母と満面の笑みで写っていた。
「おばあ、ちゃん……」
彼もまた、膝から崩れ落ちた。
三人は母が殺された部屋で、ただ泣き続けた。
体の痛みよりも遥かに大きな痛みが、彼らの心を容赦なく引き裂いていた。
母を殺した罪。
母の愛を裏切った罪。
そして――もう二度と取り返しがつかないという、絶対的な絶望。
「俺たち……俺たち、いったい何をやってたんだ……」
「でも……! でも仕方なかったじゃない! お金がいるんだから……!」
ソフィアがヒステリックに反論する。
しかし、その虚しさは彼女が一番感じていた。
「欲に駆られて、大切だった人の命を奪った」。
その後悔が消えることは、もう決してないのだ。
■
深夜のサウス区。
カーバンクルは人気のない路地を歩いていた。
パーカーのフードを深く被り、影のように街を移動する。
マーガレットの顔が、何度も脳裏に浮かんだ。
優しい笑顔。温かい手。
……彼女を守れなかった。
……依頼がなかったから。
ルールに縛られて、何もできなかった。
「……これでよかったのかな」
小さく呟いた。答えは出ない。
カーバンクルは立ち止まり、空を見上げた。
ドームの天井。人工の星空が輝いている。
その時、左耳のイヤーカフが、小さく振動した。
「ん……? 依頼?」
カーバンクルは指先でイヤーカフに触れた。
電子音が鳴り、音声が流れる。
『404号室の予約が確認されました』
機械的な声。AIによる自動通知だった。
『ホテル名:クリスタル・パレス』
「……どこだっけ、そこ?」
カーバンクルは眉をひそめた。聞いたことのない名前だ。
『所在地:ノース区、セクター7-B』
その音声を聞いた瞬間、カーバンクルの体が硬直した。
「……ノース区?」
それは封鎖されたエリア。
2055年の事故以来、誰も立ち入ることができない死の区画。
そこにホテルがあるはずがない。
人が生きているはずもない。
それなのに――404号室の予約?
『依頼者名:不明。24時間以内の対応を推奨します』
通信が途切れた。
カーバンクルはしばらく立ち尽くしていた。
ノース区。
彼女が生まれた場所。あるいは、作られた場所だ。
「……いったい、どういうこと……?」
ノース区、閉ざされた地。なぜそんな場所から予約が……?
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