【依頼人】最期まで、兄を守って――
――時間が経過していた。どれくらい経ったのか、アイリスにはもうわからなかった。
部屋は静かだった。黒服の男たちは壁際に立ち、無表情で見つめている。
レイザーだけが活発に動き回り、時折データパッドに何かを記録していた。
「うぇ……ひ、ぐぅ……」
「すごい! すごいぞ! まだ生きている、まだ生きようと頑張ってるッ!」
アイリスの体からは血が滴り落ちていた。
両腕には無数の小さな切り傷。火傷の痕。皮膚を剥がれた箇所もある。
何より痛々しいのは、頭に突き刺さったケーブルだ。レイザーはアイリスを拷問しながら、その痛みの感覚をデータとして抽出していたのだ。
それでも、彼女はまだ意識を保っていた。まだ、兄の居場所を明かしていなかった。
「素晴らしいよ! 14歳で、この痛みへの耐性。それも末期の免疫不全症を抱えているのに!」
「はぁー……はぁー……っ……も、やめ……」
彼はマインドプローブを手に取った。アイリスの心臓が激しく鼓動した。
「さて、最終段階だ。このケーブルは脳に直接繋げている。なので当然君はもうじき死ぬわけだ」
「う……あ」
「それで、ここから逆に痛みの飽和データを流し込むことで、もっと凄まじい痛みを体験できるんだよ。君が一生分で味わうであろう痛みを凝縮したようなものをね」
「……い……」
アイリスは恐怖で震えた。しかし、頭の中には一つの思いだけがあった。
(わたしが、お兄ちゃんを、守らないと)
(今まで、ずっと長い間、迷惑をかけてきた)
(だから、最期くらい――)
「最後のチャンスだ。マルコの居場所は?」
アイリスは目を閉じた。そして、かすれた声で答えた。
「知り……ませ……ん」
レイザーはその言葉に深い為息を吐いた。そして、涙を拭う。
「ああ……ああ! なんて美しいんだ。病気の少女が、死にかけで兄を思いやるんだ。どうだ、感動的だろ!?」
レイザーは心からの涙を流しながら部下の黒服たちに微笑みかける。
黒服はいずれも曖昧な苦笑を返すばかり。彼の性癖にはついていけない、とその表情が語っている。
「あ、う……は、あぁ、うあ……」
「これから起こることを記録する。死にかけの子供が、極限の痛みにどう反応するか」
レイザーはスイッチを入れた。
「あああぁーーーーーーーーーーッッ!!!!」
アイリスの体が弓なりに反り、叫び声が部屋中に響いた。
それは人間の声とは思えないような悲鳴だった。
「いぎゃあああああああああ!!!! やめ゛、ああああああああああっ!!?」
「いやぁ、いい声だなぁ。もっと痛みのレベルを上げてみよう!」
「――――――――!!!!」
彼がダイヤルを回すと、アイリスの叫び声はさらに激しくなった。黒服が思わず耳をふさぐ。しかし、数秒後に突然止んだ。
「あれ!?」
レイザーは首を傾げた。
「まだ終わらせるつもりはなかったのにな……さすがに無茶しすぎたか」
彼は少女の顔を覗き込んだ。アイリスの目は開いたままだったが、そこに生命の輝きはなかった。
「死んでしまったか。いやぁ……それにしても感動したなぁ。やっぱり子供は最高だよ」
彼は装置を外し、ケースに片付けた。そして、部下の一人に向かって言った。
「壁に書け。『これが代償だ、マルコ』ってね」
男は無言で頷き、アイリスの血を指につけ、壁に文字を書き始めた。
レイザーは死体の前に立ち、少女の顔を見つめた。
「ああ泣いた泣いた……ありがとう、アイリスちゃん。素晴らしいデータが得られたよ」
彼は部下たちに向かって手を振った。
「片付けは適当でいい。見つかるように残しておけ」
レイザーは部屋を出る前に、もう一度振り返った。
椅子に縛られたまま、頭を垂れた少女の姿。彼は満足げに微笑んだ。
「ヴェックスさんも喜ぶだろ。完璧な見せしめになった」
アパートのドアが閉まり、足音が遠ざかっていく。
静寂だけが残された部屋で、アイリスの体から血が滴り続け、床に小さな赤い湖を作っていた。
■
――それから、時間は現在に戻る。
サウス区の薄暗い路地、夜間照明の多くが故障したままの通りを、マルコは壁に寄りかかりながら進んでいた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……」
呼吸するたびに胸が刺すように痛む。恐らく肋骨が何本か折れているのだろう。
左腕は銃撃を受けて血まみれ、応急処置に使ったジャケットの切れ端が赤黒く染まっている。
顔の半分は腫れ上がり、片方の目は完全に塞がっていた。
(なんで警備隊が、こんなこと……っ!)
会社の雇った警備隊は容赦なかった。
アイリスの死体のある自宅を出た直後から執拗に彼を追い、友人の家にも襲撃を仕掛けてきた。
友人のラモンはマルコをかばって撃たれた。彼の死体を見た時の感覚が、まだ指先に残っている。温かかった。
「アイリス……」
妹の名前を呟きながら、マルコは再び咳き込んだ。
口から血が溢れる。内出血しているのかもしれない。
あれから48時間が経っていた。
妹の冷たい遺体を見つけてから、マルコはほとんど休まず、食べず、隠れ家を転々としていた。
しかし、どこにも安全な場所はなかった。
『ネオファブ社の不正が明らかに。販売されたチップに大きな欠陥があったのに、販売を強行したと――』
NeuroSyncチップの欠陥情報は確かに広まった。ニュースは大々的に報じ、会社の株価は暴落した。
しかしそれは、彼にとって何の慰めにもならなかった。
「ごめん……」
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
アイリスか。ラモンか。それとも自分自身か。
通りの角を曲がると、古びたネオンサインが目に入った。「ラスト・ステイ・ホテル」。
薄汚れた外壁、所々剥がれかけている塗装。サウス区の安宿としては標準的な外観だった。
(ホテル……か。一時的に隠れるならちょうどいい、か……?)
それを見てマルコは足を止めた。
突然、記憶の断片が鮮明に蘇ってきたのだ。
■
「――ねえ、お兄ちゃん。変な噂話聞いたよ」
それは3年前、アイリスの病状がまだそれほど深刻でなかった頃。
珍しく外出できた日、二人でイースト区を散歩していた時のことだった。
「どんな噂?」
アイリスは明るく笑いながら、道に面したホテルを指さした。
「ホテルの404号室を予約すると、悪い人をやっつけてくれる人が来るんだって。
ホテルならどこでもいいらしいよ。サウス区でも、セントラル区でも……とにかく、404号室なんだってさ」
「何だいそれ? 都市伝説みたいだね」
「でもね、本当なの。学校のリコちゃんのお父さんが、会社で酷い目に遭ってたんだって。
それで、ホテルの404号室を予約したら、翌日には会社の悪い上司がいなくなったんだって」
「いなくなったって……殺されたの?」
アイリスは肩をすくめた。
「わかんない。でも、リコちゃんのお父さんは『天使が助けてくれた』って言ってたんだって」
マルコは苦笑しながら妹の頭を撫でた。
「作り話だよ。本当だったら、とっくに当局が動いてるさ」
「そうかな?」
アイリスは眉を下げて笑う。
「でも、そんな人がいたら……この街も、もう少しいい場所になると思うんだけどね」
■
――記憶が途切れ、マルコは現実に引き戻された。
鉄の味がする血を吐き出し、ホテルの入り口を見つめた。
「404号室……」
彼は苦笑した。といっても、息を吐いただけで、口角は上がりもしなかった。
通りの向こうから、規則正しい足音が聞こえてきた。
警備隊が近づいている。休む暇もなく、追われ続ける日々。
これが、自分の残り短い人生なのか。
「アイリス……お前の言ってたこと、本当かな。誰かが、悪い人をやっつけてくれるかな?」
マルコはよろめきながらホテルのドアに向かった。
悪い人をやっつける。その役割は、自分が担ってきたつもりだった。妹を守り続けてやれるつもりでいた。
そんな彼の自負は踏みにじられた。一労働者に過ぎない彼は、企業という巨人によって家族も、友人も、そして自分も踏み潰されそうになっている。
「アイリス……」
自動ドアが開く。
入り口の老人は、血まみれのマルコを見ても特に驚いた様子もなく、ただ無表情でフロントを指さした。
サウス区では、瀕死の人間を見かけることは珍しくないのだろう。
フロントには禿げかけた中年男性が座っていた。
マルコが近づくと、男は鼻をひくつかせただけで、何も言わなかった。
「404号室……空いてますか……」
マルコの声はかすれていた。男は一瞬、目を細めてマルコを見つめた。
「404号室? なんの話だ。そんな部屋はない」
「いいや」
瀕死の重傷の中、マルコの目は爛々と光っていた。強い気迫とともに男を睨む。
「いいや、あるはずだ。そこ以外に用はない。404号室だ」
「あんたねぇ……」
男はしばらくマルコを見つめていた。それから、無言でカードキーを差し出した。
キーには、確かに「404」と刻まれている。web上において「存在しない」ことを表す3つの数字が。
「料金は……」
「明日でいい。エレベーターは壊れてる。階段だ」
マルコは頷き、残りの力を振り絞って階段を上り始めた。
一段上がるごとに、体から力が抜けていくようだった。
4階に着く頃には、ほとんど這うような状態だった。
廊下の照明は薄暗く、所々で点滅している。
部屋番号を確認しながら、マルコは壁に寄りかかって進んだ。401、402、403――
そして404号室。
ドアの前で立ち止まり、マルコはカードキーを差し込んだ。
電子音が鳴り、ドアが開いた。
中は予想外に清潔で、ベッド、小さなテーブル、椅子が一つ。
最低限の設備だが、無秩序なサウス区の安宿としては上出来だった。
マルコは部屋に入り、ドアを閉めた。
そしてベッドまで歩き、力尽きたように倒れ込んだ。天井を見つめながら、彼は自問した。
本当に、誰か来るのだろうか。
それとも、これはありもしない夢を見ながら死を待つだけの場所なのか。
ここが、自分の終着点なのだろうか。
「ヴェックス……」
マルコは憎しみを込めて名前を呟いた。
目の前にアイリスの笑顔が浮かび、すぐに拷問で歪んだ死に顔に変わる。
「絶対に……絶対……許さない……」
言葉が途切れた。意識が遠のいていく。マルコの目蓋から涙があふれる。
「……助けてくれ……誰か……」
部屋は静寂に包まれた。
窓の外では、人工的な夜が続いていた。
ネオ・アルカディア。壁に囲まれた、希望も絶望も入り混じる閉ざされた世界。
マルコはその夜、初めて妹の死後に眠りについた……。
■
真夜中。
天井のライトパネルが不規則に点滅し、404号室に暗闇と青白い光が交互に満ちては消える。
ベッドでは高熱に侵されたマルコが、半ば意識を失ったまま身もだえしていた。
開いたままの左腕の傷口からは、まだ血が滲み出ている。
「う、あ、ア……イリス……」
唇は乾き、割れていた。
何度目かの悪夢から目覚め、彼は天井を見つめた。
「……ああっ!」
部屋は変わらず、空っぽだった。
当然だ。都市伝説を信じた自分が愚かだった。熱で頭も働かない。
自分はここで死ぬのだろう。もうどうでもいい。アイリスのいない世界に生きていても仕方がないのも確かだ――
――そのとき、部屋の隅に影を見た。
マルコは瞬きをした。幻覚か、と思った。
だが違う。確かに誰かがいる。
彼は上半身を起こそうとしたが、激痛が走り、呻き声を漏らした。
「動かないで」
声は低く、静かだった。
少女の声。その言葉と同時に、影が動いた。
点滅するライトの下、少女の姿が現れた。
澄んだ水色の髪。それが最初に目に入った特徴だった。
ふわりとした質感のショートヘアが跳ね、まるで猫の毛並みのようだった。
その顔は幼く見えた。十三歳くらいだろうか。
しかし、その無表情には子供らしさはない。
最も印象的だったのは、その赤い目だ。義眼だろう。通常の義眼よりも鮮やかな赤で、暗闇でかすかに発光しているように見えた。
少女の視線がマルコに向けられると、彼は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼女は白いパーカーを着ていた。サイズが合っておらず、やや大きめで体のラインはほとんど隠れていた。
フードは下ろされており、首元には薄いチョーカーがあった。
「…………」
少女は無言で近づいてきた。その足音はまったく聞こえなかった。
黒いショートパンツと滑らかな生足、ブーツ。
左耳には小さな銀のイヤーカフが光り、右手首には古い型のデジタルウォッチが見えた。
「だ、れ……だ?」
言葉を発する前に、少女はマルコの傷口に手を伸ばした。
小さな手。しかし、その動きは的確で無駄がなかった。
室内に備えられたバッグから医療用具を取り出し、傷口を調べ始める。
「感染してる。ちょっと痛むよ」
「え、あ……」
短く言い放つと、少女は消毒液と包帯を手早く準備した。
その素早さと正確さは、長年の訓練を感じさせた。
彼女は治療を進めながら、一度だけマルコの顔を見上げた。
「私を呼んだでしょ?」
マルコは一瞬、言葉の意味が分からなかった。動かない頭を必死に動かす。
「……君が、まさか……404号室の、都市伝説?」
「そう。私は404号室の始末屋。404号室の怪物と呼ぶ人もいる」
「始末……」
「依頼の理由は?」
少女は再び傷口に集中しながら言った。
マルコは唇を舐めた。乾いていた。
「俺の、妹が……殺された。ひどい、拷問をされてて」
少女の手が一瞬止まった。そしてすぐに作業を再開した。
「ターゲットは?」
質問ではなく、要求のような口調だった。
「ヴェックス。ネオファブ工場の監督官だ。命令したのは、確実にあいつだ。妹は……」
マルコの目に涙が溢れ、頬を伝って落ちた。震える唇から言葉を絞り出す。
「彼女は14歳だった。病気だった。それでも毎日、懸命に生きていたんだよ。なのに……!」
少女はマルコの腕の処置を終え、包帯を巻き終えた。そのことに彼は気付いていない。
「どうしてアイリスなんだ……! 俺が殺されればよかったのに……俺にだったら、どんな地獄を与えたっていい! なんで妹を……必死に、生きていたあの子を……」
少女はただ目を閉じて、マルコの悲嘆に暮れる声を聞いていた。
その目が再び開かれる。やはりそこには何の感傷もないように見える。
「殺すのは、ヴェックスだけ?」
「……他にも、誰かいる。妹を直接殺した奴だ。誰かはわからない。でも……お願いだ、何でもする。その実行犯も……」
言葉が出なくなった。その瞬間、マルコは自分が言おうとした言葉を、先に少女が口にしていたことに気付いた。
「殺す」、と。
「殺して……くれるのか? そいつらを?」
「そのために呼んだでしょ?」
「いや、そ、そうなんだが……そもそも、全然詳しくは知らないし、何より……君がやるつもりなのか?」
「そう。始末屋は私だけ」
「無茶だ! ヴェックスは企業の人間だし、ボディーガードもセキュリティも万全のはずだ!」
少女は静かに立ち上がり、窓際に歩み寄った。背中を向けたまま嘆息する。
「そういう心配はしなくていい。私は、依頼を受けたら必ず殺す」
「必ず、って……君、子供だろ? だめだ、よせ。あいつらは子供だろうと容赦は……!」
「依頼は引き受けた。あなたの恨みは晴らしてみせる」
彼女の声はこれまでと変わらず淡々としていたが、マルコには、何か別の響きがあるように感じられた。
「君は……」
「カーバンクル」
それが彼女の名前なのか、何かの暗号なのか、マルコには判断できなかった。
少女――カーバンクルは再びマルコに近づき、冷たい手で彼の額に触れた。
「熱がある。薬を飲んでおいて」
「むっ、ぐ」
カーバンクルは小さな錠剤をマルコの唇に押し当てた。マルコは素直に従い、それを飲み込む。
「12時間はここから動かないで。目を覚ますころには、すべて終わってる」
カーバンクルはバッグを閉じ、ドアを開けた。廊下には誰もいなかった。
一瞬の間、彼女の姿は部屋の薄暗がりの中で奇妙に浮かび上がった。
水色の髪、白いパーカー。パーカーの背中には黒い文字が見えた。
「404 Not Found」。マルコは視界がぼやけながらも、そのロゴを鮮明に記憶に刻んだ……。
制裁だーーッ!