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【依頼人】たった一人の妹だったのに

 ――血だった。


 リビングの床に広がる濃い赤。壁に飛び散った粘度の高い斑点。

 かつて白かったソファには、今はもう乾いて褐色に変わりつつある染みが広がっている。


 そしてその中心には、彼女がいた。


「あ……あ、あ……あああああぁぁッ!!」


 アイリス。たった14歳の少女。

 その体の前で悲嘆に暮れるのはマルコ。製薬会社に務める24歳の青年であり、アイリスの兄だ。


 最愛の妹は、ぎこちない姿勢で床に横たわっていた。

 骨が何本も折れているのだろう、人体がとり得ない角度で腕と脚が曲がっている。

 白く細い腕には無数の切り傷と火傷の痕。所々、皮膚が剥ぎ取られて生々しい肉が露出している。


 そして最も残酷な傷は頭部にあった。髪の毛が部分的に剃られ、頭蓋骨に開けられた小さな穴からは、黒ずんだケーブルが伸びていた。

 マインドプローブ。記憶を強制的に抽出する装置だ。

 脳の組織を直接刺激し、耐え難い痛みを与えながら脳内情報を引き出す。市販の装置ではない。軍事用の拷問装置。


「アイリス……アイ、リス」


 マルコは悲鳴を上げ、よろめきながら妹の遺体に駆け寄った。

 足がもつれ、床に膝から崩れ落ちる。手が勝手に震え、震えが全身に広がっていく。


「アイリス! 嘘だ、嘘だ……返事をしてくれ!」


 激しく肩を揺さぶるが、少女の首はただ無機質に揺れるだけ。現実が容赦なく突き刺さる。


「ごめん……ごめんアイリス……うわああああぁぁっ!」


 喉が裂けるような叫びを上げながら、彼は妹の体を抱き上げた。

 あまりに軽い。骨と皮だけのような、人形のような感触。

 狂ったように泣き崩れる中、ふと顔を上げた時、壁に書かれた文字が目に入った。


『これが代償だ、マルコ』


 ぎこちない文字。まるで子供が書いたような。しかし使われたのは紛れもなく血だった。アイリスの血。

 その瞬間、マルコの体から全ての力が抜け、次の瞬間には怒りが全身を焼き尽くすような熱さで満たした。


「ヴェックス……!」


 叫び声は絞り出すような低いうなり声に変わった。唇を噛み切り、口の中は血の味でいっぱいになっている。

 ヴェックス。それは彼の上司の名だった。

 気づけば、自分の拳を壁を何度も打ちつけていた。皮膚が裂け、血が流れても痛みすら感じない。


「どうしてこんな、こんなこと――病気の子供だぞ……!?」


 イースト区の薄暗いアパートに、マルコの絶叫と物を壊す音が響き渡った。

 パーティションの薄い壁の向こうの住人たちは、全員が聞こえないふりをした。

 誰かが静かに通報ボタンを押したが、警備会社は「イースト区の日常的な騒音」として記録するだけだった。


 未来都市ネオ・アルカディアでは、他人の不幸に首を突っ込むほど愚かな行為はない。


 遠くで工場のサイレンが鳴り、次の勤務シフトの開始を告げていた。

 国を覆うドームの人工照明が「夜」のモードに切り替わり、壁を伝う血の色を暗く、より黒ずんだ色に変えていく――。



 その惨劇の3日前。イースト区、ネオファブ工場。

 研究棟地下3階、品質管理ルーム17。


 薄暗い蛍光灯の下、マルコは目を見開いた。

 検査装置のスクリーンに映し出された波形は、明らかに通常とは異なるパターンを示していた。

 拡大表示、解析、再検査。結果は同じだった。


「これは……ッ」


 手元の「NeuroSync-E9」チップ。

 脳幹に埋め込み、労働効率を30%向上させるという最新鋭のインプラント。

 サウス区の工場労働者向けに大量生産されていた製品だ。


 マルコは冷や汗を拭いながら、検査結果をもう一度確認した。

 模擬神経系に接続したチップは、初期段階では正常に機能する。


 しかし300時間稼働後のシミュレーションでは、神経伝達物質の分泌異常が発生。

 さらに450時間後には、脳幹への電気刺激が激増し、制御不能になる。

 最終的には、使用者の脳に出血を引き起こす可能性が98.7%。


 死亡率は、ほぼ100%。


「こんなものが市場に出てるなんて……!」


 マルコは震える手でデータをコピーし、上司のヴェックスに報告する決断をした。



「――つまりお前が言っているのは、既に出荷済みの製品に欠陥があるということか?」


 研究棟最上階、ヴェックスのオフィス。

 窓からはドームの人工太陽が見え、セントラル区の高層ビル群が煌めいている。

 マルコはその光景とオフィスの冷ややかな空気との対比に、一瞬たじろいだ。


「はい。シミュレーション結果は明白です。NeuroSync-E9は長期使用で脳幹出血を引き起こします。即刻リコールが必要です」


 マルコはデータパッドを差し出した。ヴェックスは一瞥しただけで、鼻で笑った。


「馬鹿げている。これはシミュレーションにすぎない。実際の使用で問題が出たという報告はない」

「まだ発売から2週間です。症状が現れ始めるのはこれからです。今すぐ対策を――」

「黙れ」


 ヴェックスの声は氷のように冷たかった。彼はスマートグラスを外し、マルコを直視した。


「既に3万個が出荷済みだ。サウス区の労働者向けに特別価格で提供している。リコールすれば会社の株価は暴落する。理解できるな?」

「人命よりも株価ですか?」

「感傷的になるな。彼らは自ら選んで使っている。リスクは承知の上だ」

「同意書には脳幹出血のリスクなど書かれていません!」


 ヴェックスはため息をついた。彼の表情に、一瞬、人間らしい感情が浮かんだように見えた。

 しかしそれは錯覚だったと、マルコはすぐに理解する。


「マルコ、お前には妹がいるんだったな。アイリスとかいう名前の」

「――!?」

「彼女の治療費は大変だろう? 遺伝子治療が必要なんだったか。それで毎日毎日残業してるんだろ?」

「……妹のことは関係ありません」

「関係ある」


 ヴェックスは立ち上がり、窓に近づいた。


「私は気前がいい。お前がこの件について黙っていれば、妹の治療薬を特別に手配してやろう。最高級のものだ。セントラル区の子供たちが使っているのと同じ」


 マルコの頭の中に、アイリスの顔が浮かんだ。青白い顔。やせ細った体。咳き込むたびに吐く血。


「考えてみろ。お前一人が声を上げたところで、会社は何とでも言い訳する。製品はすでに市場にある。利益を守るために、お前は黙らされるだけだ」


 ヴェックスの声は、まるで催眠術のように耳に入ってきた。


「代わりに、妹は救われる。特別待遇だ。これ以上の条件はない」


 マルコは拳を握りしめた。

 ……両親を亡くした後、彼はアイリスを守ると誓った。どんな犠牲を払ってでも。


「……考え、させてください」

「24時間だ。それまでに返事をもらう」


 ヴェックスはフンと鼻を鳴らした。



 その夜、マルコのアパート。質素な居間のソファに横たわる少女、アイリス。

 血の混じった痰を吐き出し、苦しそうに呼吸している。


「どうしたの、お兄ちゃん? 顔色悪いよ」


 アイリスの声は弱々しく、それでも明るさを失わなかった。

 マルコは薄く笑って、妹の額に手を当てた。熱がある。


「仕事のことを考えてたんだ。気にしないで」


 アイリスはマルコの手を掴んだ。

 小さな手だった。かつては温かった手が、今はこんなにも冷たい。


「お兄ちゃん、相変わらず嘘、下手だね。何か悩んでるでしょ?」


 マルコは妹の目をまっすぐ見た。

 この純粋な瞳に嘘はつけない。昔からずっとそうだった。観念したマルコは話し出す。


「仕事で、難しい選択をしなきゃいけないんだ」

「どんな選択?」

「たくさんの知らない人を助けるか、一番大切な人を助けるか」


 アイリスは小さく笑った。乾いた、か細い笑い声だった。


「お兄ちゃんらしくないよ。迷わず、たくさんの人を助ける方を選びなよ」

「でも、一番大切な人っていうのは」

「私のこと?」


 アイリスはからかうように笑い、首を振った。


「私は大丈夫だよ。ほんとに――ゲホッ、ゲホッ」

「アイリス!」


 彼女は再び咳き込み、手のひらを血で汚した。それでも笑顔を絶やさなかった。


「お兄ちゃんはいつも正しいことをする人だから……私、尊敬してるんだ」


 マルコは胸に痛みを感じた。

 アイリスはまだ子供だ。しかし、彼女の中には、年齢以上の強さと優しさがあった。


「……ありがとう、アイリス。決めたよ、俺は――」



 閑散としたインターネットカフェ。

 サウス区とイースト区の境界エリアにある、企業の監視の目が行き届かない場所。


 マルコは汗ばんだ手で古いキーボードを叩いていた。

 匿名通信ネットワークを経由して、NeuroSyncチップの欠陥情報を送信する。

 業界監視団体、消費者保護機関、独立メディア。あらゆるルートに情報を流した。


 画面に送信完了のメッセージが表示された瞬間、マルコは恐怖と安堵を同時に感じた。

 決断は下した。後戻りはできない。


 明日には情報が広まるだろう。そうすれば製品は回収され、多くの命が救われる。


 ただ、これで自分とアイリスの未来が閉ざされたことも分かっていた。


 カフェを出たマルコは、友人の家に向かった。

 しばらく身を隠す必要がある。アイリスのために用意した薬を持って。

 身の安全が確保でき次第、アイリスのことも助け出さなければ。

 しばらくは企業(ネオファブ)も混乱しているだろう。アイリスの身に危険が及ぶには時間がかかるはずだ。


 ――彼はまだ知らなかった。その決断が、愛する妹の命を奪うことになることを。



 イースト区、マルコのアパート。午後3時27分。


 インターホンが鳴った。


 ソファで横になっていたアイリスは、ゆっくりと身を起こした。

 今日はお兄ちゃんが早く帰ってくる日ではない。友人の家に泊まっているはずだ。

 彼女は弱々しい足取りでドアに向かった。


「……どちら様、ですか?」


 返事はなかった。代わりに、ドアが激しい音を立てて揺れた。誰かが蹴りを入れたのだ。


「ひッ!」


 アイリスは後ずさり、携帯端末に手を伸ばした。緊急通報をするつもりだった。

 その前に、ドアが破壊された。


「こんにちは、アイリスちゃん」


 背の高い男が立っていた。筋肉質な体、完璧に整えられた髪型。

 高級なビジネススーツを着て、その手には大きなアタッシュケースを持っている。

 背後には、黒い制服を着た数人の男たちがいた。


「だ……誰、ですか?」

「レイザーだ。お兄さんの同僚と言ってもいい」


 男は微笑んだ。完璧な白い歯が見えた。


「彼を探しているんだ。知らないか?」


 アイリスは本能的に危険を感じた。この男の笑顔の裏に潜む何かが、彼女を震え上がらせた。


「知りません。お兄ちゃんは……会社にいるはずです」


 レイザーは首を傾げ、残念そうに舌を鳴らした。


「嘘をつくのはよくないよ、アイリスちゃん」


 彼は怪しい黒服とともにズカズカと部屋に入り込み、周囲を見回した。

 イースト区の労働者の部屋らしい、粗末で簡素な部屋だ。


「お兄さんは大変なことをしてしまった。会社の秘密を漏らした。たくさんの人が困ることになる」


 アイリスは後退りながら、必死に考えた。

 お兄ちゃんが何をしたのかは分からない。でも、この男が友人でないことは明らかだった。


「お兄ちゃんは……す、数日前から連絡がありません」


 レイザーは彼女の目をじっと見つめた。そして突然、笑顔が消えた。


「捕まえろ」


 一言で、黒服の男たちが動いた。

 アイリスは逃げようとしたが、病気で弱った体では無理だった。

 あっという間に捕まり、リビングの椅子に縛り付けられた。


「いやっ、何するんですか……ごほっ、ゴホッ!」

「さて、本題に入ろう」


 レイザーはアタッシュケースを開け、中から銀色の装置を取り出した。

 複雑な配線と小さな針がついている。拷問用実験具、マインドプローブ。


「これは何だと思う?」


 アイリスは答えなかった。唇を固く閉じ、目に涙を浮かべながらも、彼を睨みつけた。


「いい表情だ。勇敢だね」


 レイザーは微笑んだ。完璧に並んだ歯が白く輝く。


「それが欲しかったんだ。恐怖だけじゃ面白くない。抵抗する姿が見たい」


 彼は装置を手にしながら、アイリスの周りをゆっくりと歩いた。


「俺はね、アイリスちゃん。『感動』したいんだよ」

「……?」


 アイリスは身体を震わせた。しかし、その目からは決意が消えなかった。


「ヴェックスさんはただ見せしめにしろと言った。でも、せっかくの機会だから、君に感動させてもらいたくてね……」


 レイザーは彼女の後ろに立ち、冷たい手で首筋に触れた。アイリスはぎくりとしたが、声を出さなかった。


「お兄さんの居場所を教えてくれれば、痛みは最小限に抑えるよ」

「し……知りません」

「嘘だね」


 レイザーの声は優しかった。

 だが彼は髪を掴み、アイリスの頭を後ろに引っ張った。少女は小さな悲鳴を上げた。


「まず、痛みへの耐性を測定しよう」

「や、やめ……ッ!!」

「大丈夫! 気持ちよくしてあげるからさ」


 アタッシュケースが開く。不気味な輝きを放つケーブルが覗いていた――。

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