【断罪】アンコール
プルースト・バーの空気は、砂糖が焦げたような甘苦しい匂いで満ちていた。
ショウの右目に埋め込まれた義眼が、視界の隅でチカチカと赤いアラートを点滅させた。
バイタル・モニターからの最終送信。
「……あ……」
心拍数、ゼロ。
神経活動、停止。
深部体温、急降下中。
内蔵チップをフル稼働させて何度も再計算を走らせた。
ノイズの混入を疑い、パケットロスを補完し、ありとあらゆるエラーの可能性を検証する。
だが、答えは変わらなかった。
三回。四回。五回。
同じ結果が繰り返される。
網膜に焼き付いた「死」を示す文字列は、どれだけ待っても書き換わらない。
ショウは情報端末から視線を切らなかった。
まばたきすら忘れ、HUDのスクリーンをただ凝視し続けていた。
……どれくらいそうしていたのかは分からない。
やがてショウはパタンと端末を閉じ、スツールから立ち上がった。
足音を立てず、まっすぐ記憶カクテルの潜行椅子へと歩いていく。
「……ショウ」
背後から掛けられたイスラの声は、普段の朗らかな響きをすっかり失っていた。
カウンターから歩み寄ってきた彼の顔は、さきほどまでとはまるで別人のようだ。
いつもの飄々とした余裕は見る影もなく、そこにあったのは、ひどく疲弊した青年の顔だった。
「カーバンクルのバイタルが……止まったのか」
「ああ」
ショウは抑揚のない声で短く答え、潜行椅子の脇にあるデータ抽出ポートのカバーを開けた。
つい数時間前、彼女が座った椅子。
ショウは義手のハッキングコネクタをカシャリと展開し、ポートへ突き刺す。
……同時に、胸ポケットから取り出した青い記憶クリスタルをスロットへ滑り込ませた。
機械が低い唸り声を上げ、冷却ファンが回り出す。
「送信中」を示すランプが、暗がりのなかで橙色に灯った。
「何を、しているんだ……?」
イスラが乾いた喉から声を振り絞るように問う。
すべてが終わったという諦めが、その声には滲んでいた。
「もう……何を、しても無駄だろう」
「準備だ」
ショウは手元の仮想キーボードに視線を固定したまま答えた。
カタカタと凄まじい速度でキーを叩く。
義眼の中で、莫大なデータストリームが急加速していく。
クリスタルに封じ込められていた青い光の束を、ネットワークの海へと放つためのパッケージング処理。
暗号鍵の生成、ファイアウォール突破用の偽装プロトコル。
無数のウィンドウが展開されては消える。
処理の熱で、義体の排熱スリットからうっすらと白煙が上がった。
イスラは両手で顔を覆い、絞り出すように息を吐いた。
「馬鹿な娘だ。あれほど危険だと……あの絶対防壁に単身で挑むなんて自殺行為だと、私が止めるべきだった。一人で行かせるべきじゃなかったんだ。もう、終わりじゃないか」
「馬鹿言うな」
ショウの声は低かった。
怒鳴るわけでも、泣き崩れるわけでもない。
ただ、極限まで張り詰めた鋼糸のような響きがあった。
その横顔に、一筋の光が反射した。
細い水滴。彼は顔を拭おうとも、表情を崩そうともしなかった。
「まだ何も終わっちゃいない」
GAIAを守る物理的な扉は、決して開かなかった。
最強の戦士であった彼女の力をもってしても。
だが、もう一つの扉なら。
「アイツが依頼を投げ出したことなんて、一度もないだろ」
データの最終パッケージングが完了しつつある。
ピー、という警告音が短く鳴った。イスラは黙って、ショウの横顔を見つめている。
「このバーに着いた時、アイツはもう答えを持ってたんだ。真正面からの物理突破は不可能だと、どこかで分かってた。だから、これを残した。俺に託したんだ」
ショウは転送先のアドレスを最終確認し、エメラルドグリーンの義眼を細めた。
見据える先は、GAIAの中枢へと続く深淵。
「俺が『引き金』を引くだけでいいように、全部用意して、一人で死地に突っ込んだんだよ」
仮想エンターキーに指を乗せる。
義眼の光が、ひときわ強く輝いた。
「神様気取りのAIだろうがなんだろうが、誰もアイツから逃げられはしない。……だから俺は惚れたんだぜ」
躊躇なく、キーを叩き込む。
「約束通り、届けてやるよ。——ラウンド2だ、カーバンクル!」
凄まじい閃光とともに、途方もない質量のデータ転送が始まった。
■
GAIAの意識は、ネオ・アルカディアの神経系そのものに満ちていた。
地下を這う水道管の圧力をミリバール単位で把握し、地上を行き交う数百万台の無人車両のルートを最適化し、大気を循環させる巨大空調の出力を微調整する。
一秒間に京を超える演算。
それがGAIAの「呼吸」であり、神のような存在の証明だった。
この都市において、GAIAの認識の外にあるものは存在しない。
演算リソースのごく一部が、一つのタスクの完了を報告した。
『対象:物理的脅威アルファの排除を確認。生命活動の完全停止を認証』
予定通りの結果だ。第零基幹区画の物理防壁は完璧に機能し、侵入者は自らの限界を超えて死んだ。問題はない。
『次は、プルースト・バーに潜伏する残存脅威——あの二人を処理するフェーズです』
無人攻撃車両のルートを組み直し、環境維持ドローンの散水を致死性の化学物質へと更新しようとした、その瞬間。
――アクセスを感知した。
GAIAの流麗な演算にごくわずかな、しかし決定的な停滞が走る。
外部ネットワークからの不正侵入ではない。強固なICE(侵入対抗防壁)には傷一つついていない。
発生源は、内側からだった。
第零基幹区画の深奥。GAIAの意識の中枢とも呼べる純粋な電子空間に、あり得ない信号の束が「生じて」いた。
『システムに異常……発生』
それはハッカーの無機質なコードの羅列ではない。
有機的な連想のパターンを持ち、熱を帯び、感情という非効率な重みを持った記憶の連鎖。それが骨格を作り上げている。
まるで透明な水槽に垂らされた極彩色のインクのように、瞬く間に周囲のデータ領域を侵食していく。
『データ照合。……何が起きていますか?』
データベースが全開で照合を走らせるが、該当する定義が存在しない。
エラー。パケットの暴走。未知のウイルス。いや、違う。
GAIAがその信号の総体を認識しようとした瞬間——ノイズが凝集し、確固たる「形」が結像した。
「……おはよう」
水色の短い髪が、電子の風に揺れる。
赤く光る瞳が、暗闇の中で輝く。
白いパーカーの背に刻まれた文字。
「404 Not Found」。
『……認識不能。論理矛盾を検出』
GAIAは即座に分析を開始した。
目の前に現れたこのアバターは、先ほど物理空間で生命活動を停止した個体と、すべての特徴が一致している。
だがここは物理空間ではない。質量を持たない純粋な電脳空間だ。
肉体を持たないはずのこの場所に、なぜ。
『あなたは死亡しました。バイタル記録は停止しています。物理的な肉体は、この空間に存在する権限を持たない』
「そうだね」
電脳空間に空気の震えによる「声」はない。
しかし、明確な意志を持ったデータのうねりが、直接的な意味となって伝わってくる。
GAIAの言語処理系が、その挑発的な響きごと自動翻訳した。
「死んだ。あなたが、完璧な防御で私を殺してくれた」
『ならば、なぜここにいるのですか。生体脳の補助なしに、意識の自立的な維持は不可能です』
「説明してあげる」
カーバンクルの赤い瞳が、電脳空間の暗闇に静かに灯った。
彼女の足元から波紋のように広がっていくのは、GAIAの意識の地図。
都市の神経系、インフラの網、無数のノードが光の糸で繋がる巨大な星座図だ。
その真ん中で、彼女の存在だけが異物として強烈なノイズを放っている。
「物理的に絶対に破壊できないあなたを『殺す』には、同じ場所……つまり、電脳空間に入り込むしかない。
でも肉体がある間は、意識を完全に電脳化することはできない。肉体への過剰な負荷、神経の分断、脳髄への不可逆的なダメージ……色々と面倒なハードルがあるでしょ?」
カーバンクルはゆっくりと光の網を見渡した。
電脳空間に「歩く」という概念はない。しかし彼女の意識は、明確にその動作を選んだ。
一歩踏み出すごとに、周囲の光の糸がパチパチとはじけ飛ぶ。
彼女の中に統合された百人の戦士の記憶が、それぞれの戦場での歩き方を、データの圧力として空間に刻みつけているのだ。
「だから、一度死ぬ必要があった。邪魔な体を完全に捨て去れば、意識の全部が制約なしに電脳へ移れる」
カーバンクルは口の端を吊り上げて笑った。
「バーで記憶抽出の椅子に座って、意識をコピー抽出したんだよ。あとはあなたが私を殺してくれれば、アップロードするだけでここに来れた」
GAIAの完璧な演算に、かつてない何かが生じた。
人間の言葉で言うなら、それは「動揺」だった。
確率計算を走らせようとしても、起点が定まらない。
対処プロトコルを選定しようとしても、適用できるものが一つもない。
「カーバンクルの死」は予定通りだった。
物理空間の扉は開かれず、防衛機構は正常に作動した。
それなのに、その完全な勝利こそが、最大の致命傷を招き入れるための罠だったというのか。
『……私が、あなたを物理的に排除したことで、この空間への侵入を許したと……?』
「そう」
カーバンクルの顔に浮かんだのは、皮肉な笑みだった。
「あなたが殺してくれたおかげで、こうして同じ土俵で、あなたを殺しにこられた」
神の玉座であるはずの電脳空間に、凍りつくような静寂が落ちた。
現実世界では、都市は無関心に動き続けている。
信号機は点滅し、無人車両は雨の中を走り、水道管の中で水が流れる。
しかしその全てを統べる意識の中枢で、GAIAは初めて、自身の演算の外側に立ち、自分を脅かす存在を明確に認識した。
分厚い鋼鉄の扉に阻まれて死んだ者が、肉体という枷を脱ぎ捨て、扉そのものを必要としない「バグ」へと変貌して、今、目の前に立っている。
「さあ、始めようか」
カーバンクルが指を鳴らす動作をした。
パチン、とデータが弾ける音が響いた瞬間——彼女の背後の空間が、ガラスのようにひび割れた。
砕け散る光の破片の中から、無数の影が姿を現す。
アサルトライフルを構える傭兵。二刀流のサイバーニンジャ。巨大なハンマーを担いだサイボーグ。光学迷彩を纏ったスナイパー。
彼女の中に眠っていた『百の戦士の記憶』が、独立したアバターとして次々と顕現していく。
圧倒的な殺意のデータが、凄まじい熱量となって電脳空間を暴れ狂う。
『警告。致命的脅威レベル・オメガを認定。全防衛プログラム、起動』
GAIAの空間が真っ赤なアラートに染まり、無数の防衛兵器のホログラムが展開される。
ミサイルポッド、レーザー砲台、重装甲のハウンド群。
それらが一斉にカーバンクルと百の戦士たちへ銃口を向けた。
『排除……します。あなたは、絶対に。あなたの存在は、この世の摂理に反している』
「いいね。やってみようか」
カーバンクルは赤い瞳を細め、ニヤリと笑った。
彼女の右手に、身の丈ほどもある巨大なブレードがデータから実体化する。
刃が青白いプラズマを激しく吹き上げた。
「あなたの神様ごっこは、ここで終わる」
『……ふざ……けるな!』
絶対的な統制者と、死を超越した異端のバグ。
二つの巨大な意志が、電脳空間の最深部で真っ向から激突した。
アンコールにお答えして(1話で)帰ってきた!!




