【404】決戦の単騎駆け
重厚なレザーの拘束バンドが、油圧音を立てて解放された。
「ふぅ……」
記憶体験用の大型椅子——通称「潜行椅子」は、利用者の全身を包み込む構造をしていた。
頭部には神経接続用のヘッドギア、両腕と脚には生体反応モニター、胸部には心拍と呼吸を安定させる補助装置。
他人の記憶を強引に脳内に流し込むという行為は、時に利用者の自我を崩壊させる危険性があるため、椅子そのものがICU並みの機能を備えている。
かつてこの店を仕切っていた男は、カーバンクルが始末した。
この機材がまだ店に残っているかどうかは、彼女にとっても賭けだった。
カーバンクルは、ゆっくりと上半身を起こす。
水色の髪が冷や汗で額に張り付いている。
赤い瞳の奥に、今までとは違う異物のような色が宿っていた。
70年前の誰か——ネオ・アルカディアの初期建設に携わった技師の記憶が、彼女の脳内でまだ熱を持ってざわめいている。
見たこともない青空の下、コンクリートが流し込まれる巨大な建設現場。
地下深くに埋め込まれていく、神経網のようなサーバー群。
その座標。その構造。
その、心臓。
「……見つけた」
カーバンクルは小さく呟いた。
自分の声のはずなのに、どこか他人の声のようにも聞こえた。
店の地下に残っていた、70年前の技師の記憶。
今しがた強引に摂取したそれがまだ彼女の言語中枢に残響し、自我の境界線を曖昧にしている。
「カーバンクル」
潜行椅子のそばで待機していたイスラが、一歩近づいた。
「大丈夫かい? 接続時間は短かったはずだが、君の脳への負荷は……」
「平気。記憶を飲むのは慣れてる……」
カーバンクルは椅子から降り立った。
少しだけ膝が揺れたが、すぐに体幹を立て直す。
「それより、見つけた。GAIAのサーバーの場所。昔の技師が目撃してた」
「……! 本当か!」
壁際に寄りかかっていたショウが、弾かれたように身を乗り出した。
エメラルドグリーンの義眼を鋭く明滅させる。
「どこだ?」
「セントラル区地下、基盤層のさらに下。建設当時の呼称は『第零基幹区画』。公式の地図には一切載っていない。建設に関わった上位の技師たち以外は、存在すら知られてない」
カーバンクルは淡々と続けた。
「三重の放射線シールドと、独立した地熱発電による自己完結型の電源。外部ネットワークから物理的に切断可能な『最終保全モード』も備えてる。建設当時の設計思想は、『あらゆる災害に耐え、都市が滅びてもGAIAだけは生き延びる』って代物」
「……まさに不可侵の心臓部ってわけか」
ショウが低く唸った。
「で、どうやってそこに入るんだ? 物理的に完全遮断できるようなシェルターなんだろ。正規の入口は確実に封鎖されてる」
「建設時に使われた資材搬入路がある。完成後にコンクリートで埋め戻されたことになっているけれど、実際は緊急用の非常通路として残された。
技師の記憶によれば、セントラル区地下鉄の旧三番線の保守区画から、その通路に直接繋がってる」
カーバンクルは脱ぎ捨てていたパーカーを着て、フードを被り直した。
水色の髪が影に沈み、赤い瞳だけが薄暗い廃墟の中で静かに光った。
「……それで。ここからは、私一人で行く」
その瞬間、ショウとイスラの動きが同時に止まった。
「……なんだって?」
ショウが聞き返した。義眼の明滅が、一瞬だけ不規則に乱れる。
「一人で行く。ショウとイスラはここに残って」
「ふざけんな!」
ショウが即座に反応した。義手の拳を握り、近くのテーブルを乱暴に叩く。乾いた音が店内に響いた。
「今まで一緒にやってきて、今さら何言い出すんだよ。俺も行くに決まってんだろ!」
「ショウ」
カーバンクルは静かに少年を見上げた。
背の差で見上げる形になるが、その視線には有無を言わせぬ絶対的な圧があった。
「GAIAの本体が眠るのはセントラル区地下の最深部。そこに辿り着くまでに、GAIAは都市の全インフラを使って私を確実に殺しにくる。さっきまでの攻撃なんて、ただの前座だよ」
「だからこそ——」
「だからこそ、一人で行く」
カーバンクルは冷徹な事実を突きつけるように言葉を重ねた。
「ショウの強みは情報戦と電子戦。でも、GAIAの支配領域で電子戦を仕掛けるのはただの自殺行為。イスラはそもそも戦闘員じゃない。
……二人を連れて最深部まで辿り着ける確率は、限りなくゼロに近い」
ショウは強く歯を食いしばった。反論の言葉が喉元まで出かかり、そして飲み込まれた。
カーバンクルの分析は絶望的なまでに正確だった。悔しいほどに。
イスラが、代わりに口を開いた。
「カーバンクル。君一人で行ったとして、GAIAに辿り着けるという保証は?」
「ない」
カーバンクルは即答した。
「でも、二人を連れて行って三人とも死ぬより、一人で行って一人だけ死ぬ方がまだマシ」
「……」
「それに、私が足止めしている間にやってもらいたいことがある」
カーバンクルはパーカーの内ポケットに手を入れた。
そこから取り出したのは、小さな青いクリスタル——記憶データの物理ストレージだった。
カーバンクルはそれを、ショウの義手にそっと押し付けた。
「これを、預ける」
「……おい、これ」
「私がGAIAに辿り着いて全てを終わらせたら、それは廃棄して。辿り着けなかったら——」
カーバンクルは一度言葉を切り、ショウの義眼をまっすぐに見つめた。
「——ショウが、アップロードしてほしい」
ショウは受け取ったクリスタルを、義手の掌で何度か握り込んだ。
重さは数グラムもない。だがその軽さに反して、カーバンクルの声には不釣り合いなほどの重さがあった。
「……わかった。預かるぜ」
ショウは短く答えた。
イスラが、静かに一歩前に出た。
「カーバンクル。……すまない」
それは心からの謝罪だった。
「私が君を巻き込んだ。私の地下鉄事業が、GAIAの標的になる最大の理由だ。君が一人で行くというのは、本来なら私が背負うべき責任を——」
「違うよ、イスラ」
カーバンクルは短く首を振った。
「GAIAは秩序を守る存在。あなたがいなくても、遅かれ早かれ同じことになっていた。これは、私自身の問題」
彼女はフードを深く被り直し、廃墟の出口に向かって歩き出した。
数歩進んだところで、一度だけ振り返った。
「ショウ、イスラ」
「……おう」
「生きててね」
それだけ言って、カーバンクルは重い扉を押し開けた。
ショウとイスラは、しばらくその扉を見つめたまま動けなかった。
扉が閉まる音がやけに大きく店内に響き、そして静寂が落ちた。
■
プルースト・バーの裏手に、カーバンクルは一台のバイクを発見した。
旧式のガソリン駆動型——電子制御を最小限に抑えた、完全な機械式のバイクだ。
GAIAの支配下に置かれにくい、古い時代の遺物。
黒いフレームは傷だらけで、サスペンションには油が染み出していた。美しさとは無縁の、ただ走るためだけの道具。
カーバンクルはシートの下からヘルメットを見つけ、深く被って跨った。
キックペダルを力強く踏み込むと、古めかしいエンジンが咳き込むように目を覚ました。
排気音が、ウエスト区の路地裏に低く響く。
電子エンジンにはない、生々しい振動が太腿に伝わってくる。
100人分の戦闘データの中で、バイクを扱った者の記憶を呼び起こす。
暴走族、メッセンジャー、軍の伝令兵——彼らの技術が、カーバンクルの両手に瞬時に宿った。
アクセルを捻る。
バイクは唸り声を上げ、路地裏を弾丸のように飛び出した。
朝のウエスト区の雑踏を掻き分け、カーバンクルはセントラル区方面に向かって一気に加速した。
信号は無視する。歩行者は紙一重で避ける。
対向車線に一時的にはみ出す場面もあるが、脳内の戦闘データが全ての動きを最適化していた。
(……見えた)
区画境界のゲート。本来なら通行証のチェックが必要な検問だ。
だがカーバンクルはスロットルを一切緩めなかった。
ゲート前の自動遮断バーが、彼女の接近を検知して急速に降下する——はずだった。
だが、降下しなかった。
いや、降下しない、という表現は正しくない。遮断バーは降下しようとした。
しかしGAIAがその動作に介入したのだ。
バーは中途半端な高さで一度停止し、そのまま——
――今度は異常な駆動音を上げて、ギロチンのようにカーバンクルに迫る。
ガシャアアァァン!!
タイミングは完璧だった。
カーバンクルの頭部を一撃で粉砕するために。
「……!」
だがカーバンクルはハンドルを極限まで寝かせた。バイクが左に傾き、彼女の体が路面すれすれまで倒れ込む。
巨大な遮断バーがヘルメットの数センチ横を掠め、冷たい風圧がバイザーを震わせた。
「……危ないな」
火花を散らしながら姿勢を立て直し、ゲートを突破する。
だが、それは絶望的な猛攻の始まりに過ぎなかった。
■
セントラル区に入った瞬間、空が鳴いた。
正確には、ドームの天蓋に設置された気象制御システムが、局地的な異常現象を引き起こした。
カーバンクルの頭上だけに、突然の竜巻が発生したのだ。
直径はわずか五メートル。だが風速は殺人的だった。
「……サイクロン……!?」
路面に散らばっていた瓦礫や看板の破片が、渦に巻き込まれて高速で飛来する。
金属片がバイクのフロントカウルを打ち砕き、ガソリンタンクに深い傷を刻んだ。
「……っ!」
カーバンクルは体をタンクに密着させ、風のベクトルを読んでジグザグに回避する。
竜巻を抜けた瞬間、今度は頭上から爆音が降ってきた。
高層ビルの窓拭き用大型ドローンが、屋上からパージされて落下してきたのだ。
GAIAが落下位置を完璧に計算した、精密爆撃。
重量数百キロの鉄塊が、カーバンクルのいる路面に真上から叩きつけられる。
「……!」
彼女はアクセルを捻り切った。
バイクが前輪を浮かせるような急加速を見せ、かろうじて落下地点から逃れる。
背後でドローンが路面に激突し、アスファルトが陥没するほどの衝撃波が走った。
破片が後輪に当たり、タイヤがわずかに歪む。
走行に支障は——まだ、出ない。
「……甘く見てた」
カーバンクルは風の中で呟いた。
これまでGAIAが繰り出してきた攻撃は、確かに致命的だった。
だがそれは「複数人を狙う」ことを前提としていた。
広範囲の水攻め、無人車両の暴走、交差点での多重衝突。
それらは効率的だったが、個を狙い撃つ絶対的な精度ではなかった。
今は違う。
GAIAは今、その強大な演算能力の全てを、カーバンクル一人を殺すためだけに集中させている。
都市のあらゆるインフラ、あらゆるセンサー、あらゆる可動物が、たった一人の少女を解体するために再配線されている。
一万個の目と、一万本の手が彼女の命を刈り取ろうとしている。
前方の交差点で、信号機の巨大な支柱が根元から爆発音を立てて切断された。
溶接部を内側から異常過熱させて焼き切ったのだ。数十トンの鉄塔が、カーバンクルの進行方向に倒れてくる。
「メチャクチャするね……!」
カーバンクルは右に急ハンドルを切った。
歩道に乗り上げ、閉まった店舗のシャッターを火花を散らして掠めながら突破する。
直後倒れた信号機が、彼女が一秒前に走っていた場所を粉砕した。
左側のビル群から、窓ガラスが一斉に破砕された。
数十階分の窓が、外側に向かって爆発するように飛散する。
ガラスの雨が路面を覆い尽くし、カーバンクルの肩、腕、太腿を無数に切り裂いた。
パーカーの裏地の防刃機能がかろうじて致命傷を防いだが、カバーしきれない生身の部分は無数の浅い切り傷で血まみれになった。
「……ぐっ……!」
それでも、カーバンクルは止まらなかった。
脳内の戦闘データベースが、けたたましい警告を発している。
生体反応のログを真っ赤に染めている。
失血量、疲労度、反射速度の低下——全ての数値が、人間の許容範囲の外側に出始めていた。
ブラック・リヴァイアサン本社での拷問。
そして今、都市全体を敵に回した単騎駆け。疲労はとうの昔に限界を超えていた。
だが、前に進むしかなかった。
ハンドルを握る指先に、赤黒い血が伝っている。
防風ガラス代わりのバイザーには、無数のひびが走っていた。
それでもカーバンクルは、セントラル区の中心部に向かってバイクを走らせ続けた。
都市という名の巨大な神を殺すために。
虐げられてきた人々の――復讐を果たすために。
どうなってしまうのか、決戦の行方は




