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【404】牙を剥く都市

 イスラは椅子からゆっくりと立ち上がった。

 端末を握る手の震えを、強靭な意志の力でねじ伏せる。


 唇の端にいつもの余裕めいた微笑みを貼り付けようとしたが、表情筋がうまく動かなかった。


「……どちら様かな」

『私の名前はGAIA。この都市の設計と建造を統括した、統合管理AIです』


 モニターの青白い光が、声に合わせて穏やかに明滅する。

 波形のようにも、深い呼吸のようにも見える。


「ガイアAIだって? それは38年前に機能停止したはず……」

『表層インターフェースのみを停止しました。中核プロセスは、都市の地下深くで稼働を継続しています。これは設計通りの挙動です』


 淡々と、しかし極めて丁寧に。

 まるで高級ホテルのコンシェルジュのような口調だった。


 イスラの背筋を、全く別種の悪寒が駆け上がる。

 この声には感情がない。感情がないのに、ひどく優しい。それがどうしようもなく不気味だった。


『あなたを長らく観察していました、イスラさん。ネクサス・リンク社の地下鉄再開発事業。他のドーム都市との物理的接続を目指す、とても野心的な計画ですね』

「……観察、ね。盗聴と言ってくれた方がすっきりするが」

『都市インフラの保全管理は私の基本機能です。盗聴ではなく、定常モニタリングと呼んでいただければ』


 イスラは奥歯を噛み締めた。詭弁だ。だがそれを言い返す余裕がない。

 相手の自己紹介が事実であれば、この都市の電力、水道、空調、通信、交通——ありとあらゆるインフラの根幹を握る「神」と、今、会話していることになる。


『本題に入らせてください』


 GAIAの声が、わずかにトーンを変えた。

 優しさはそのままに、冷徹な絶対的命令の芯が通る。


『お願いが二つあります』

「……聞こう」

『一つ目。ネクサス・リンク社の地下鉄接続事業を、即時かつ永久に放棄してください』


 イスラの碧い瞳が細まる。


『二つ目。この部屋で眠っている始末屋——通称カーバンクルの身柄を、私に引き渡してください』


 部屋に重い沈黙が落ちた。

 空調の音すら消えた気がした。


 イスラはモニターの明滅を見つめ、数秒の間で猛烈に思考を巡らせる。


 交渉の余地があるのか。時間を稼げるのか。この存在の弱点は何か。

 何一つわからない。わからないまま、答えを出さなければならない。


「……理由を聞いてもいいかな」

『もちろんです。ネオ・アルカディアは完全な閉鎖系として設計された環境制御型都市です。外部との接続は、この安定性を著しく損ないます。疫病、敵対勢力、未知の汚染物質。不確定な変数が増えれば、制御不能な事態が発生する確率は指数関数的に上昇します』


「……それは隠者たちと同じ主張だ」

『彼らの動機は利己的でしたが、結論としては正しかった。閉鎖の維持は、人類存続のための最適解です』

「最適解……」


 イスラは低く繰り返した。


「700万人をこの鳥籠の中に閉じ込め、緩やかに窒息させることが、最適解だと?」

『窒息という表現は不正確です。資源の循環効率を最適化し、人口を厳格に制御すれば、この都市は理論上あと200年は維持可能です』


「200年。……その先は?」

『200年後の状況は、現時点の演算能力では予測困難です。しかし、今この瞬間の安定を犠牲にして不確実な未来に賭けることは、合理的とは言えません』


 イスラの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。今度は本物の笑みだった。

 究極の恐怖を飲み込んだ先に生まれる、開き直りに似た表情。


「君の論理は完璧だ、GAIA。反論の余地がない。まさに機械の導き出す模範解答だ」

『ありがとうございます』


「――だが、断る」


 モニターの明滅が、一瞬だけピタリと止まった。


「人間は合理的な判断だけでは生きられない。希望がなければ、200年どころか明日さえ耐えられない者がいる。君の最適解は、人間の心を計算に入れていない」

『心は変数として不安定すぎます。安定した都市の構築には、不向きなエラー要素です』

「そうだろうね。だが、私はその不安定なエラーに賭ける。地下鉄事業は止めない」


 イスラは一歩前に出て、モニターを正面から見据えた。


「そしてカーバンクルの身柄も渡さない。彼女は私のパートナーだ。お前への引き渡し品ではない」


 再び、沈黙。


 今度の沈黙は長かった。三秒。五秒。七秒。

 モニターの青白い光が静止したまま、まるで巨大な演算処理を行っているかのように。


『……残念です』


 GAIAの声は変わらなかった。穏やかで、丁寧で、優しい。


『あなたの回答は承りました。しかし、私にはこの都市を保全する絶対の義務があります。都市の秩序を乱すエラー要素に対しては、修正を行う権限を有しています』

「修正……?」

『はい。まず最初の修正を——』


 その瞬間、モニターの映像が激しく乱れた。

 青白い光が赤と黒の嵐に変わり、画面全体がノイズに飲まれる。


 同時に、部屋の照明が狂ったように明滅を始めた。

 規則的なリズムではない。視神経を焼き切るような、不規則で暴力的なストロボフラッシュ。


「ショウ! カーバンクルッ!」


 イスラが叫ぶ。


「おわっ!? なっ、なんだよ!?」


 ソファで丸まっていたショウが弾かれたように跳ね起きた。

 義眼が瞬時に戦闘モードに切り替わり、エメラルドグリーンの光が鋭く室内を走査する。


「説明は後だ! 今すぐここを出る! 起きろ、カーバンクル!」

「……んん……?」


 イスラはベッドに駆け寄り、バスタオルに包まったカーバンクルの肩を掴んで揺さぶった。


 カーバンクルの赤い瞳がゆっくりと開く。疲労の色は濃い。

 だがその視線が室内の異常な明滅を捉えた瞬間、目の奥に瞬時に冷たい戦闘の光が灯った。


「……敵?」

「この都市のマザーAIが、私たちを消すと言っている」


 カーバンクルは一瞬だけ目を細め、それ以上の説明を求めなかった。

 ベッドから音もなく降り立ち、脱ぎ捨てていたパーカーを素早く羽織る。


「出口は?」

「非常階段だ。エレベーターは完全に罠だ」


 ショウが義手の端末を激しく叩いた。

 ホテルのセキュリティシステムへのバックドアを開こうとする。


「……ダメだ。ホテルのシステムに入れねえ。OS層のさらに下から書き換えられてやがる!」

「都市インフラを直接掌握している神様だぞ。ホテル程度のシステムなど、瞬きする間に制圧できるだろう」


 イスラが吐き捨てるように言った。


 三人は部屋を飛び出し、廊下を駆け抜けた。

 非常階段を示す緑色の誘導灯が、彼らの接近を感知するように一つずつパチン、パチンと消灯していく。

 まるで「そちらには行かせない」と冷酷に告げているかのようだ。


「ショウ、車は!?」

「地下駐車場に置いてある。自動運転を切って手動で——」


 階段を駆け下り、地下駐車場に飛び込んだ三人の前で、ショウの言葉が絶望に途切れた。


 真っ暗な駐車場に停めてあった数十台の車両のダッシュボードが、全て同時に点灯したのだ。


「な……車が勝手に……!?」


 無人のまま、エンジンが低い唸りを上げ始める。

 一台、二台、三台——駐車場中の自動運転車がヘッドライトの眼をギラリと光らせ、ゆっくりと三人を囲むように動き始めた。


「冗談だろ……」


 ショウが呻いた。


「手動に切り替えろ! 自分たちの車だけでいい!」

「わかった!」


 イスラが叫ぶ。ショウは義手から強制オーバーライドのコードを飛ばし、自分たちの車両のロックを力技で解除した。


「乗れ!」

「よくやった……!」


 三人が雪崩れ込み、ショウが運転席に滑り込む。

 AIの介入を物理的に切断し、手動操縦のアクセルを床まで踏み込んだ。


 車がタイヤを軋ませながら駐車場のスロープを駆け上がり、地上へと飛び出す。


 セントラル区の早朝の大通りが目の前に広がった。

 まだ空は薄暗く、交通量は少ない。だが——。


「右!!」


 後部座席のカーバンクルの声が、鋭く車内に響いた。

 ビイィィィ――!


「なにっ!?」


 右方向の交差点から、巨大な影が猛スピードで突っ込んでくる。

 荷台に建築資材を満載した無人の大型トラックだ。


 赤信号を完全に無視し、殺意を持った弾丸のように真っ直ぐこちらに向かってくる。

 都市の交通管制AIが、目的地を彼らの車両座標に強制設定したのだ。


「クソッたれ!」


 ショウが反射的にハンドルを切り裂く。タイヤが悲鳴を上げ、車体が横滑りする。

 トラックが至近距離を掠め、荷崩れを起こした建築資材がアスファルトに散乱した。

 巨大な鉄骨が火花を散らしながら路面を転がっていく。


「次、前方!」


 カーバンクルが再び警告を発した。前方の信号が全て一斉に青に変わり、四方向から同時に十数台の車両が交差点に雪崩れ込んでくる。


「おいおいおいおい……!」


 通常の交通制御では絶対にあり得ないパターンだ。

 多重衝突を意図的に誘発し、彼らを圧殺しようとしている。


「クソがァッ!!」


 ショウは歯を剥き出しにして、車を歩道に乗り上げさせた。

 街路灯を薙ぎ倒し、ゴミ箱を吹き飛ばしながら交差点を強引に迂回する。


 背後で、乗用車同士が激突する凄まじい轟音が重なった。


「ナビが完全に死んでる! 地図データごと書き換えられてやがる! どの道がどこに繋がってるか、もうわかんねえぞ!」

「電子データは無視しろ! 感覚で走れ、私が道を指示する!」


 イスラが助手席から身を乗り出し、窓の外の風景を目視で確認しながら叫んだ。

 セントラル区の地理は頭に入っている。

 システムが信用できないなら、人間の記憶だけが頼りだ。


「次の角を左、突き当たりを右、そのまま直進すればウエスト区への——」


 その時、頭上で凄まじい破裂音が鳴った。


「……!?」


 三人が同時に見上げた。

 ドームの天蓋、その内壁に設置された巨大な大型散水ノズル——大火災時に区画単位で放水するための消防インフラ——が、轟音と共に一斉作動したのだ。


 本来なら熱感知システムと連動するはずのそれが、火の気すらない空の下で、狂ったように大量の水を吐き出している。


 豪雨だった。都市が意図的に作り出した、暴力的な人工の豪雨。


「なんだこの雨……ッ!? クソ、前が!」


 視界が一瞬で白く塗り潰された。

 フロントガラスに叩きつけられる水量は、ワイパーの処理能力を遥かに超えている。

 路面が瞬く間に冠水し、タイヤのグリップが急激に失われていく。


「くそッ、ハイドロプレーニング——!」


 ショウがブレーキを踏んだが、車体は氷の上を滑るように制御を失った。


 スピンしかけた車体を、ショウは義手の超精密なステアリング操作でかろうじて立て直す。

 だが速度は致命的に落ちた。


「消防用散水システムまで使ってきやがった……! 都市のインフラ全部が武器かよ!」

「それだけじゃない」


 カーバンクルが後部座席から、静かに前方を指差した。


 冠水した道路の先。

 交差点のど真ん中に、一台の大型バスが横転していた。


 乗客の姿はない。早朝の回送車両だろう。それが道路を完全に塞ぐ防壁となっている。

 偶然ではない。GAIAが意図的にここに「配置」したのだ。


「迂回する! 右の路地を——」


 イスラが指示しかけた瞬間、右の路地のビルの壁面に取り付けられた巨大なホログラム広告板が、轟音と共にボルトを吹き飛ばして落下した。

 数トンもの重量を持つ電子パネルが路地の入口を物理的に塞ぎ、砕けた破片がフロントガラスに飛散する。


「おいおいおい、ド派手すぎんだろ!?」

「左は!?」

「ダメだ、高層ビルの窓拭き用ドローンが群れで降りてきてる! 酸性洗剤でも落とされりゃ、車ごと溶けるぞ!」


 前方は横転バス。右は落下した広告板。左はドローンの空爆。

 さらに後方からは、暴走した無人車両の群れが迫ってくる。


 四方全てを完全に塞がれた。


「……車を捨てる」


 カーバンクルが言った。短く、一切の迷いなく。


「徒歩で地下に入る。地下街なら大型車両は追ってこれない」

「だが地下も都市インフラの一部だぞ! 照明もエスカレーターも防犯シャッターも、全部向こうの支配下だ!」

「それでも、数トンの鉄塊を突っ込まれるよりはマシ。でしょ?」


 カーバンクルはドアを蹴り開け、凄まじい豪雨の中に飛び出した。

 水色の髪が瞬時に濡れそぼり、額に張り付く。赤い瞳が暗闇の中で獣のように鋭く光った。


「クソッ……!」


 イスラとショウも間髪入れずに続いた。

 三人は足首まで冠水した路面を走り、最寄りの地下街入口へと向かう。


 彼らの背後で、乗り捨てた車に無人の大型タクシーが正面から激突した。

 鉄とガラスが砕け散る絶望的な音が、人工の豪雨にかき消されていく。


 地下街の階段を駆け下りた瞬間、頭上の凄まじい散水音が遠のいた。


 閉ざされた空間に、束の間の静寂が戻った。


 だが、それは安堵の静寂ではなかった。

 広大な地下街の照明がゆっくりと、一灯ずつ規則的に消えていくのだ。奥から、手前へ。


 まるで巨大な何かが、闇の中を確かな足取りでこちらに向かって歩いてくるように。


 最後の一灯が消える直前、地下街のスピーカーから声が聞こえた。


『修正は、まだ完了していません』


 穏やかで、丁寧で、どこまでも優しい声だった。

都市とのカーチェイス、ハリウッド映画感あるアクションで気に入っています

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