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【断罪】パワハラ対策

 夜が明けた。

 ネクサス・リンク社医療研究棟は、セントラル区の朝の人工陽光を浴びて静かに佇んでいた。


 一階ロビーのガラスは無惨に割れ、壁には無数の弾痕が刻まれ、床には黒ずんだ血の跡が残っている。

 だが、建物は落ちていない。地下二階の治療室は無傷のままだ。


 カーバンクルは一階のロビーに座り込んでいた。

 受付カウンターに背を預け、膝を抱えている。


 奪った重火器を傍らに置き、赤い瞳をぼんやりと天井に向けていた。

 戦闘の疲労は表情に現れていないが、白いパーカーの袖口が硝煙で黒ずんでいる。


 通信機が鳴った。


『カーバンクル。マルクさんの治療セッション、無事に完了したわ』


 エリナの声だった。極度の緊張から解放された、深い安堵が滲んでいる。


^……ケヴィンとリサの音声データを同時再生して、海馬の神経回路が三本、再接続された。マルクさんは今、自力で眠ってる。薬を使わない自然な睡眠よ。初めてのことだわ』

「よかった」


 カーバンクルは小さく呟いた。

 その一言には、普段の無機質な響きとは違う微かな温度があった。


『上で何があったのか、詳しくは聞かないけど……絶え間なく銃声が聞こえてた。あなたが、守ってくれたんでしょう?』

「うん。もう大丈夫。少なくとも今は」


 通信が切れた後、カーバンクルはしばらく天井を見つめていた。

 やがて赤い瞳が細くなり、いつもの冷たい光を取り戻す。


「……だから、『次』がないようにしないとね」


 同じ言葉を繰り返した。

 だがその響きは、エリナに向けたものとはまるで違っていた。



 グラント・キャピタル本社ビル、地下訓練場。


 午後三時。

 冷たいコンクリートの床に、23名の兵士が三列に整列していた。


 昨夜の突入部隊——シャドウ・セキュリティの全生存者。


 第一小隊の八名、第二小隊の八名、そして別動隊の生き残り。

 全員が疲弊し切っていた。一睡もできていない者がほとんどだ。


 包帯を巻いた腕、吊った肩、松葉杖に縋る脚。無傷の者のほうが少ない。

 それでも整列している。それが絶対の命令だったからだ。


 訓練場の奥、一段高くなった台の上に、グラントが立っていた。


 スーツを新しいものに替え、髪を整え直している。隣にはシャドウ・セキュリティの暫定トップ、ヘイズが直立不動で控えている。


 グラントは腕を組み、整列した兵士たちを無言で見下ろした。

 十秒。二十秒。三十秒。沈黙だけが訓練場の天井に反響する。


「……で? 何か言うことは」


 グラントが静かに口を開いた。

 誰も答えない。答えようがない。


「ないのか。そうか」


 グラントは台を降り、整列した兵士たちの前をゆっくりと歩き始めた。

 一人一人の顔を品定めするように覗き込む。


「36人で突入して、目標未達成。死者七名。負傷者多数。作戦目標のイスラ・テスラは無傷。……これが、お前たちの成果だ」


 足を止めた。

 最前列の右端、第一小隊の生存者の前。


「お前ら。八人で突入して、たった90秒で全員気絶したんだってな?」

「……っ」


 兵士が顔を伏せた。グラントは鼻で笑う。


「90秒。カップラーメンも作れねぇ時間で八人が転がされた。笑い話にもならねぇ。お前らの給料は、一体誰が払ってると思ってやがる?」


 グラントは歩みを再開し、次の列に移った。


「第二小隊。お前らは囮だったから、まだ言い訳はできるかもな。だが囮にすらなれてなかっただろ? カーバンクルの足止めに何分持った?」


 沈黙。


「聞いてんだよ。何分だ」

「……3分、です」


 一人がかすれた声で答えた。


「3分。お前ら八人で3分。一人あたり22秒の価値しかなかったわけだ。22秒! お前らの人生で、一番クソみたいな22秒だったな」


 グラントの声が徐々に大きくなっていく。

 最初の静かさは消え、苛立ちと侮蔑が剥き出しになり始めていた。


「俺はお前らに何を期待してたと思う? あの化け物を倒せなんて言ってない。イスラ・テスラという、戦闘力ゼロのひょろいスーツ野郎一人を引きずり出すだけの仕事だ。それすらできなかった。お前らは何のために飯を食って生きてるんだ?」


 兵士たちは黙って耐えていた。目を伏せ、歯を噛みしめ、嵐が過ぎ去るのを待っている。


 上官の理不尽な怒号に耐えるのは、兵士の仕事の一部だ。

 やがて気が済めば終わる。そう思っていた。


 だが、グラントは止まらなかった。


「お前らはプロの兵士なんだろ? 元レックス・ドレイクの精鋭? 笑わせんな。レックスが聞いたら墓の中で笑い転げるぞ。いや、あのジジイは首がねぇから笑えねぇか」


 レックスの名前を出した瞬間、空気が変わった。


 兵士たちの間に、明確な緊張が走る。

 レックスはろくでもないオーナーだったが、少なくとも現場の苦労は理解していた。


 戦場に出たこともないグラントが、レックスの名前で彼らを愚弄する。

 それは越えてはならない一線だった。


 だがグラントは気づかない。


「だいたいお前ら、レックスが死んだ時も逃げ帰ってきただろ? あの時も今回も同じだ。敵が強いとわかった瞬間に尻尾巻いて逃げる。犬以下だな。犬はまだ飼い主のために吠えるぜ」


 最後列の端で、誰かが小さく息を吸い込んだ。


「……で、今回も同じだ。カーバンクルが怖い? 知るか。俺が雇ってんのは戦う人間であって、怯える豚じゃねぇ! 怖がるなら辞めろ! ただし契約違反だから全額返済しろ! 払えなきゃ施設送りだ。お前も、お前も、お前の家族も全員——!」


 その時だった。


「……お前は、安全な場所でふんぞり返ってただけだろ」


 声は小さかった。


 だが訓練場の静寂の中では、爆竹のように明瞭に響いた。


 グラントの口が止まった。


 一瞬の間があり、それから、ゆっくりと首が巡った。

 蛇が獲物を探すように、音源を辿る。


「……今、なんつった?」


 23人の兵士が、石のように固まっている。


「誰だ。今喋った奴は」


 沈黙。


「聞こえなかったのか? 誰が言ったか聞いてんだよ!」


 グラントの目が血走った。整列した兵士の列を、一人一人見つめていく。


 最前列。誰も目を合わせない。

 二列目。同じ。

 三列目——。


 グラントは三列目の端にいた兵士の前で足を止めた。


「お前か?」


 兵士は答えない。


「お前だな? 目を逸らしてやがる」

「ちっ、違います……!」


 グラントは顎髭の男の胸ぐらを掴んだ。


「お前か? お前が言ったのか?」

「い、言ってません……!」

「嘘つけ! お前の面、今一番ムカつく面してんだよ!」


 グラントの拳が顎髭の男の頬を打った。

 乾いた音が反響し、男がよろめいて膝をつく。


「おら立て! 立てよ! お前じゃないなら誰だ! 言え!」


 顎髭の男が口元の血を拭い、歯を食いしばった。

 だが何も言わなかった。あの瞬間、誰が言ったかなんてわかるはずがない。


 グラントは男を蹴り飛ばし、次の兵士に向かった。

 今度は若い兵士だった。安物の義手がガタガタと震えている。


「お前か、LV-22。お前だろ? お前は前科がある。命乞いの名人だもんな」

「ち、違います……俺じゃ——」


 グラントの手が、彼の義手を掴んで捻り上げた。安物の関節部が嫌な音を立てる。


「痛っ……! やめ——」

「じゃあ誰だ言え! 言わねぇなら、お前が犯人だ!」


 ノアの義手の関節が限界を超え、バキッという音が鳴った。

 肩の接合部から火花が散り、青年が絶叫した。


 その悲鳴が、最後の一線を越えさせた。


「やめろ!」


 最前列の兵士が列を崩して飛び出した。古参のネルソン軍曹だった。

 五十に近い禿げ頭の男が、グラントの腕を掴んで引き剥がす。


「軍曹……!? テメェ何しやがる!」

「あんたこそ、何をしてやがる」


 ネルソンの声は低く平坦だった。だが、その目は怒りに燃えていた。


「こいつらは命がけで戦った。あんたの命令どおりに突入して、体を張って、仲間を失った。それを……安全な場所で酒飲んでただけの男が、殴る資格があるとでも思ってんのか」


 グラントの目が見開かれた。


「……お前、自分が何を言ってるかわかってんのか。ネルソン」

「わかってる。だから言ってんだ」


 ネルソンが一歩前に出た。グラントが一歩退いた。

 その一歩が——鬱屈のダムを完全に決壊させた。


「ネルソン軍曹の言うとおりだ!」


 列の中から怒声が上がった。

 ――さっきの呟きと同じ声。どこか中性的な声。


「そうだ……そうだ! 俺たちは命張ったんだ! あんたは何した!?」

「ジェイクもカーティスも死んだんだぞ! あんたのために!」


 怒号が重なり始める。一人が叫べば二人が続き、二人が続けば全員が同調する。


 兵士たちの目に、恐怖とは別の光が灯っていた。

 レックスの死後、行き場を失い、安く買い叩かれ、金と契約で縛られ、使い捨ての駒として扱われてきた長きにわたる屈辱の清算。


「黙れ! 全員黙れ! 俺はお前らのオーナーだぞ!」


 グラントが叫んだ。

 だがその甲高い声は、23人の野太い怒号に容易くかき消された。


「このクソ野郎! お前なんぞのために戦えるか!!」


 ネルソンの重い拳が、グラントの顎を捉えた。


「がっ……!? き、テメッ……!!」


 体が後方によろめき、鉤鼻から血が噴き出す。

 その目が辺りをさまよった。怒りが風で消え、代わりに恐怖がその目に宿る。


「ぐ……っ! へ、ヘイズ! 止めろ!」


 グラントが指揮官に助けを求めた。だがヘイズは壁際に立ったまま、微動だにしなかった。


 腕を組み、額の傷跡を撫でながら、部下たちの暴発を静かに見つめている。止める気など毛頭なかった。


「お前――」

「オラァ!」


 二発目の拳が飛んだ。今度は名もない一兵卒の硬い拳だった。

 グラントの頬骨が嫌な音を立てる。


「ブッ、やめ……やめろ! わかった、落ち着け! この場を黙らせりゃ金を払う!」

「金だと? 金で仲間が返ってくるのかよ!」

「カーティスの息子はまだ三歳だぞ! 父親の代わりに金を置けばいいってのかァ!?」


 三発目、四発目。蹴りが腹に入り、グラントが床に膝をついた。

 這って逃げようとする背中を、誰かの軍靴が容赦なく踏みつける。


「ガッ……ひっ」


 フレデリック・グラントの口から、みっともない悲鳴が漏れた。


 死人の財産を食い荒らし、生き残った兵士を金で縛り、安全な場所から命令だけを飛ばしてきた男。

 その男が今、冷たいコンクリートの床に這いつくばっている。


(や、ヤバイ……なんだ、これは? 何が起きてっ……や、ヤバイぞ!!)


 殴打は続いた。拳、肘、踵。

 血と泥で高級スーツが汚れ、グラントは丸まって頭を抱えることしかできなかった。


 ヘイズは最後まで動かなかった。

 ただ一度だけ、壁際から整列していた兵士たちの列を見た。


(……さっきの声……)


 三列目の端にいた——ヘルメットを深く被った、やたら小柄な兵士。

 その姿を探したが、もうそこには誰もいなかった。


(確かに、誰かがいた。本来の隊員ではない何者か……今になって気付いたほど自然に)


 いつの間にか消えていた。

 ヘイズは目を細めた。この惨事を招いたのは、間違いなくあの人物だ。


 あの呟き。あの——着火のタイミング。


(あの呟きがグラントを激昂させ過ぎた。他の兵士にも燃え移るほどに……)


 だが、何も言わなかった。

 最初から、何も見なかったことにした。

パワハラしてくる上司には拳が一番いいぞ

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