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【404】記憶の伝道者

実はタイトルを変えました

 ネクサス・リンク社、医療研究棟。地下二階。


 白い壁に囲まれた無機質な個室の中央に、一台のベッドがあった。

 生体モニターが単調な脈拍と脳波を刻み、点滴が一定のリズムで薬液を落としている。


 ベッドの上に横たわる男は目を開けていた。

 しかし、その目は何も見ていなかった。


 マルク・チェンバレン。

 27歳——のはずだが、見た目は初老のようだった。


 頬は削げるようにこけ、頭髪には白いものが混じり、腕は骨と皮膚だけのように痩せ細っている。


 隠者たちの一人エリザベス・ヴァンダービルトによる一年以上の「飼育」の痕跡は、身体のあらゆる場所に刻まれていた。


 首元にはかつて嵌められていた鋼鉄の首輪の跡が、赤黒い傷痕として痛々しく残っている。

 だが最も深刻な損傷は目に見えない場所にあった。


「脳の海馬が著しく萎縮しています。言語野にも広範な損傷が見られる。長期間の過酷なストレスと、反復的な電気ショックによる器質的なダメージです」


 主治医がタブレットを操作すると、マルクの脳のホログラムスキャンが空中に浮かび上がった。

 損傷部位が赤く表示されている。赤い領域は、脳全体の三割近くを死の海のように覆っていた。


「現在の状態は、重度の解離性障害に近い。自己の連続性が断絶しています。自分が誰なのか、ここがどこなのか、何も認識できていない。食事は経管投与、排泄も自力では——」

「詳細はいい」


 イスラが冷たく遮った。

 白いスーツの青年はベッドの傍らに立ち、マルクの虚ろな目を見下ろしていた。

 いつものヘラヘラした笑みは消え、碧眼には硬く冷たい光が宿っている。


「回復の見込みは」

「……正直に申し上げて、従来の治療法では不可能です。記憶そのものが完全に破壊されたわけではなく、記憶と自我の『接続』が断たれている状態なのですが——その接続を人為的に再構築する技術は、現時点の医学界には存在しません」

「現時点では、ね」


 イスラはホログラムを拡大した。

 赤い損傷部位の隙間に、わずかに明滅する正常な神経ネットワーク。

 細い糸のようなそれが、完全には切断されていないことを示している。


「記憶の断片は死んでいない。繋ぎ直す方法さえあれば——」

「理論上はそうです。しかし、それは神経工学の最果てのフロンティアです。この分野で実用的な成果を出した研究者など——」

「一人……心当たりがいる」


 イスラが言った。


「先日、彼女の論文を読んでコンタクトを取った。面談も済ませてある。明日から、ここに来てもらう」


 主治医が目を丸くした。


「誰です? どこの大学の教授ですか?」

「いや、学生だよ。……エリナ・マクレイだ」



 翌朝。

 医療研究棟のエントランスに、一人の若い女性が立っていた。


 エリナ・マクレイ。22歳。

 かつてはセントラル区の名門大学で神経工学を学んでいた秀才だが、今の彼女の肩書は「元学生」でしかない。


 奨学金は失効し、単位は抹消され、復学の道は完全に閉ざされている。

 しかし、その目には確かな光があった。


 他者に記憶を奪われ、地獄の底を見て。

 それでもなお這い上がった人間が持つ、静かで揺るぎない光だ。


 手には一冊のデータパッドを抱えている。

 表紙には『記憶の電気的マッピングと再接続に関する仮説——損傷記憶の外部情報による復元アプローチ』と記されていた。


 カーバンクルの依頼を経て記憶を取り戻した後、エリナが独力で書き上げた論文だ。

 学術誌には投稿していない。査読も受けていない。

 しかしイスラはその論文を読んだ後、わずか30分で連絡を寄越してきた。


「お待ちしていましたよ、マクレイさん」


 受付の案内に従って地下二階に降りると、イスラが廊下で待っていた。


「ネクサス・リンク社CEOのイスラ・テスラだ。論文、読ませてもらったよ。率直に言って震えたね」

「……ありがとうございます。でも、あれはまだただの仮説です」

「仮説で構わない。実証の場と金なら、私がいくらでも用意する。ついてきてくれ」


 イスラはエリナをマルクの個室に案内した。

 ドアを開けた瞬間、エリナの足がピタリと止まった。


 ベッドの上の男を見た。

 虚ろな目。痩せこけた頬。首の生々しい傷痕。


 そして何より——そこに「人」の肉体があるのに、「人格」の気配が一切しないという、背筋が凍るような空白。


「この、人は……」


 エリナは息を呑んだ。

 見覚えがあった。この圧倒的な虚無感を。

 記憶を奪われ、廃人となっていた頃の自分の姿と重なるものがある。


「彼はマルク・チェンバレン。元スカイランナー・ロジスティクスのCEOだ」


 イスラが端的に説明した。


「あるクズに会社を奪われ、地下施設で一年以上にわたって『ペット』として飼育されていた。電気ショック、食事制限、感覚遮断。おかげで自我が完全に崩壊している」

「……ッ!」


 エリナは唇を強く噛み締めた。拳が白くなるほど、データパッドを握りしめている。


「エリザベスの被害者は他にもいる。地下室から救出された七人のうち、五人が彼と似た状態だ。マルクは重篤なケースだが、もし彼を回復させることができれば、同じ手法で他の被害者も救える」


 イスラはエリナの横に立ち、静かに凄みのある声で言った。


「君の論文のアプローチ——『他者から対象者の情報を収集し、それを手がかりに脳内の断絶した記憶ネットワークを外部から再接続する』。あれを、この男で試してほしい」

「……本気ですか? あの論文を最後まで読んだんですよね?」

「あぁ。三回読んだよ」


 エリナはベッドに近づき、マルクの顔を覗き込んだ。

 虚ろな瞳は、エリナの顔に焦点を合わせない。視線は天井の虚空に固定されたままだった。


「マルクさん。聞こえますか」


 返事はなかった。生体モニターの脈拍にも、脳波にも、微塵の変化も起きない。


「……イスラさん。この手法はあまりにも未知数です。脳内に記憶の断片が残っていても、それを外部情報の刺激だけで特定し、再接続する技術なんて——」

「今は存在しない。だから、君がここで作るんだ」


 イスラの声に、有無を言わせない絶対的な響きがあった。


「マルクを知っている人間から、彼に関する情報を徹底的に集めてほしい。声、言葉遣い、癖、好きだった食べ物、笑い方。どんな些細なノイズでもいい。

 それをデータ化して、彼の脳に残っている断片と照合する。一致するアンカーが見つかれば、そこを起点にネットワークを再構築できる——君の論文にはそう書いてあったはずだ」

「それはあくまで仮説です! 動物実験すら——」

「初めての被験者が人間になる。それも壊れかけの。リスクも倫理的ハードルも承知の上だ。だが、やってくれ」


 エリナは黙ってマルクを見つめた。

 空っぽの器。一年前まで、自分たちのドローンでサウス区の空を飛ぶことを夢見ていた青年の残骸。


「……マルクさんの、元同僚は」

「二人生きている。ケヴィン・ラウとリサ・カワムラ。既に連絡を取り、協力を承諾させてある」


 イスラの圧倒的な手際の良さに、エリナは少し目眩を覚えた。


「他にも、彼と関わりのあった人間をリストアップしてある。取引先の店主、イースト区の近隣住民、従業員だったサラとジョー。全員、いつでも証言できる状態だ」

「……準備が良すぎますね」

「時間がないんだよ。脳の萎縮は今も進行している。接続点が完全に消滅してからでは手遅れになる」


 エリナはデータパッドを胸に抱きしめ、マルクの顔をもう一度見つめた。


——この人は、私だ)


 そう思った。誰かの身勝手な欲望で人生を奪われ、空っぽの廃人にされた人間。


 エリナの場合は、404号室の始末屋――カーバンクルが記憶カプセルを取り戻すという奇跡があった。

 だがマルクにはそれがない。だからこそ、力技で別の道を作るしかない。


「やります」


 エリナの声は静かだったが、迷いは完全に消えていた。


「ただし、条件があります」

「言ってくれ。金か? ポストか?」

「私の手法が成功した場合、その技術を私の名前で論文として発表させてください。大学の学位の有無に関係なく。そしてその技術を、他の被害者全員に……無償で適用してほしいんです」


 イスラは一瞬、目を丸くした。

 それから、こらえきれないように「ははっ」と声を上げて笑った。


「……俺にこれ以上の慈善事業をしろって? まったく、足元を見てくれるね」

「元々は商売人の娘なので」


 エリナは笑わなかった。

 その目には、狂気すれすれの研究者としての炎が赤々と灯っていた。



 翌日から、エリナの執念のデータ収集作業が始まった。


 最初に訪れたのは、ケヴィン・ラウだった。


 イースト区の狭いハニカム集合住宅の一室。

 スカイランナー・ロジスティクスが消滅した後、彼は中古サーバーの修理で日銭を稼ぎ、最下層に沈んでいた。


「マルクを……あいつを、治せるのか?」


 度の強い丸眼鏡の奥の目が、すがるように血走っていた。


「……確約はできません。でも、可能性はゼロじゃない。そのために、マルクさんのことを教えてください。どんな些細なゴミみたいな情報でも構いません」

「些細なこと……か」


 ケヴィンは天井を見上げた。


「あいつは、コードを書くとき必ず窓を開けてた。サウス区の空気なんて排気ガスと重金属の匂いしかしないのに。『閉じこもったままじゃ、空を飛ぶコードは書けない』ってのが持論でな」


 エリナは素早くデータパッドに記録する。


「好きな食べ物は?」

「合成ビール。あと、近所の汚い屋台の焼きそば。あいつだけ妙に気に入ってて、俺とリサは『あんな化学調味料の塊のどこがうまいんだ』っていつも呆れてた」


 ケヴィンの口元が緩んだ。

 話しているうちに、声が少しずつ柔らかくなっていく。


「口癖は、『まだ終わってない』。どんなに追い詰められても、あいつはそう言った。銀行に嵌められて、金が尽きて、メディアに叩き潰されて……全部終わったと思った夜も、あいつだけは言ってたよ。まだだって」


 ケヴィンの声が詰まった。

 眼鏡を外し、目頭を乱暴に押さえる。


「……俺は、助けてやれなかった。あいつがいなくなったと聞いても、何もできなかった。死んだとばかり……」

「今、できることがあります」


 エリナの声は穏やかだったが、絶対に折れない鋼の芯があった。


「マルクさんの脳には、記憶の断片が残っています。でもそれは地図のない迷路のようなもので、どこがどう繋がるか分からない。

 ケヴィンさんの話が、その地図になります。外側から鍵を差し込んで、内側の扉をこじ開けるんです」


 ケヴィンは眼鏡をかけ直し、強く鼻をすすった。


「何でも話す。あいつのことなら、三日三晩でも喋ってやる」

「お願いします。三日三晩、付き合いますから」



 リサ・カワムラの証言は、さらに詳細で立体的だった。


「マルクのプレゼンの癖を覚えています。大事なスライドに差しかかると、必ず一歩前に出るんです。無意識に。そして右手で、空を掴むような仕草をする。まるで未来を直接手に取ろうとしているみたいにね」


 リサは涙を拭きながら、マルクの行動パターンを丹念に語った。


 朝起きる時間。作業中に聴いていたマイナーな電子音楽。疲れたときに無意識に触る首の後ろの角度。


 従業員だったサラは、涙声で語った。


「入社した日に言われたんです。『うちは小さいけど、空を飛ぶ会社だ。君も一緒に飛ぼう』って。あんな馬鹿みたいに青臭くて素敵なことを言う社長、他にいませんよ」


 ……二週間かけて、エリナは膨大な「マルク・チェンバレン」のデータを集積した。


 言葉、仕草、表情、癖、好み、価値観、人間関係。

 一人の人間を構成する無数の要素が、外部の証言という形でデジタル化されていく。


 それはマルクの記憶そのものではない。

 他者の目を通して再構成された、マルクの「魂の輪郭」だった。



 収集から三週間後。ネクサス・リンク社医療研究棟。


「準備ができました」


 エリナがイスラに告げた。

 個室には、エリナが独自に設計した記憶照合プログラムを搭載したキューブ型の記憶媒体が持ち込まれていた。


「マルクさんの脳に、外部から収集した情報を入力します」


 エリナはホログラムディスプレイを起動した。


「脳が外部の情報を受け取ったとき、もしその情報と一致する記憶の断片が残っていれば、断片の周辺で微弱な神経発火が起こるはずです。

 それを検出し、発火した断片同士を人工的な電気刺激で強制的に橋渡しする。瓦礫で塞がったトンネルを、外側から一本ずつ掘り進める作業です」

「成功率は」


 イスラが鋭く尋ねた。


「分かりません。世界で誰もやったことがないので」


 エリナは真っ直ぐにイスラを見て答えた。


「ただ、一つだけ絶対の確信があります」

「へぇ。それは?」

「――記憶は、完全には死なない。私自身がその証拠です。奪われて、壊されて、それでも断片は残っていた。

 マルクさんの脳にも必ず残っている。私にできるのは、最善を尽くしてその扉を叩き続けることだけです」


 イスラは数秒間エリナを見つめ、それから力強く頷いた。


「わかった。始めてくれ」

まさかの再登場キャラです

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