【依頼人】地獄の院内
入所から一ヶ月後。面会を許可された日。
ケンジはシルバーケア・メディカルセンターの個室で母親を待っていた。
部屋は無機質で清潔で、壁に埋め込まれたスピーカーからは神経を平坦にするためのアンビエント音楽が流れている。
レーザー刻印された『患者様の尊厳を第一に』という理念プレートが、白々しく光を反射していた。
約束の時間を10分過ぎて、自動ドアが静かに開いた。
現れたのは、医療用車椅子に深く沈み込む、変わり果てた母親の姿だった。
「は――?」
ケンジは呼吸を忘れた。
わずか一ヶ月で、ミツコは生命力を吸い取られたかのように萎んでいた。
ふくよかだった頬は削げ落ち、皮膚の下に頭蓋骨の形が浮き出ている。
体重は、ケンジの素人目にも10キロ以上は減っているのが分かった。
眼窩は深く窪み、そこに宿る光は消えかけていた。
「母、さん……?」
呼びかけに、ミツコはすぐには反応しない。焦点の合わない目で宙を彷徨わせ、まるでこの部屋にいない誰かを探しているかのようだ。
車椅子を押してきた看護師――胸のIDプレートには『サラ・ヴァンス』と表示されている――に、怯えた視線を一瞬だけ向けた。
「ミツコさん、息子さんがいらっしゃいましたよ」
プログラムされたような優しい声。
それを合図に、ミツコはようやくケンジの存在を認識した。
「あ、あ……ケンジ、なの?」
声は紙が擦れるようにか細く、乾ききっていた。
看護師ヴァンスは、完璧なマニュアル通りの笑顔をケンジに向ける。
「面会時間は30分です。それでは、ごゆっくり」
ヴァンスが音もなく部屋を出ていくと、ケンジは母親の車椅子に駆け寄った。
「母さん、どうしたんだその顔! ちゃんと飯は食えてるのか?」
ミツコは震える手を伸ばし、ケンジの頬に触れた。その指先は氷のように冷たい。
「ケンジ……本当にあなたなのね」
「ああ、俺だよ。会いに来たんだ」
一瞬、安堵の色が浮かんだミツコの表情は、すぐに恐怖に塗り替えられた。
「お願い、ケンジ。ここから出して! 今すぐ家に帰りたい!」
「ま……まだ治療の途中じゃないか。もう少しの辛抱だって」
「違うの、ここは病院なんかじゃない! とても怖い場所なのよ!」
ミツコの目に涙がみるみる溜まっていく。
「何が怖いんだ、母さん」
ケンジが身を屈めて尋ねると、彼女は怯えたように周囲を見回し、声を潜めた。
「あの白い服の人たちよ。あいつら、私に酷いことをするんだ」
「酷いことって……注射か何かか?」
「そんなものじゃないわ。もっと……もっと恐ろしいこと」
ミツコは言いかけて、恐怖で言葉を失ったように口を閉ざした。
「大丈夫だ、今は誰もいない。何があったか教えてくれ」
しばらくの沈黙の後、ミツコは堰を切ったように、震える声で話し始めた。
「毎日、変な薬を飲まされるの。ひどく苦くて、飲むと頭が割れそうに痛む。記憶がぐちゃぐちゃになる」
「それは治療のための薬なんじゃないのか」
「違う!」
ミツコが甲高い声で叫んだ。
「あの人たち、私が苦しんでるところを見て笑ってる! 『貴重なデータが取れる』って、そう言ってた!」
データ? ケンジの脳裏に、クリニックの医師の言葉が蘇った。
「それに、これを見て」
ミツコは病衣の袖をまくり上げた。
骨張った腕の内側に、いくつもの黒ずんだ痣が浮かんでいる。
「どうしたんだ、これ! 転んだのか?」
「違う、叩かれたの! 私が叫ぶと『うるさい』って。ご飯をくれない日もある。水さえ飲ませてもらえない時もあるのよ……!」
ケンジの血の気が引いた。
「母さん、それは本当の話か」
「本当よ! でも、私がそう言うと、みんな『おばあさんの幻覚症状ですね』って言うだけ。誰も信じてくれない!」
ミツコは嗚咽を漏らし始めた。
「ねえケンジ、私、本当におかしくなっちゃったの? 全部、私の頭が見せている幻なの?」
「そんなことあるか!」
ケンジは母親の痩せ細った体をきつく抱きしめた。
驚くほど軽く、今にも壊れてしまいそうだった。
「……夜中にね、壁の向こうから声が聞こえる。『今日の被験体はどれにする』って。『新しいプロトコルを試そう』って……」
「被験体……?」
「そうよ、私たちは実験動物なの! 『治療』なんて真っ赤な嘘。ここは……!」
その時ドアがノックされ、ヴァンスが入ってきた。
その気配を察した瞬間、ミツコは悲鳴を上げてケンジにしがみついた。
「ひぃぃ……!」
「お時間です、ミツコさん」
「まだ30分も経ってない!」
ケンジが食ってかかると、ヴァンスは壁のクロノメーターを指さした。正確に30分00秒を指している。
「申し訳ありません。ミツコさんには定期投薬の時間が。遅延は症状の悪化に繋がりますので」
彼女の笑顔は完璧だったが、その瞳には何の感情も映っていなかった。
「嫌! 行きたくない! ケンジ、助けて!」
ミツコは必死に抵抗する。
ヴァンスがその腕を掴むと、明らかに怯え、体を硬直させた。
「ミツコさん、お薬の時間ですよ。良い子にしないと、また拘束が必要になりますよ」
ヴァンスの声はあくまで優しい。
だが、その手はミツコの腕をきつく掴んでいる。
「痛い! やめて!」
「おい! 痛がってるだろ、ふざけるな!」
「ご心配なく」
ヴァンスはケンジに向き直った。
「デジタル認知症の患者様は、しばしばこうした被害妄想を抱かれます。存在しない虐待を訴えるのは、典型的な症状の一つです」
「だが、この腕の痣はなんだ!」
「ご高齢の方は転倒しやすいのです。そしてその事実を記憶できないため、他者から危害を加えられたと思い込んでしまう。教科書通りの症例ですよ」
理路整然とした、反論の隙を与えない説明。
だが母親の恐怖は、演技や妄想ではありえなかった。
「ケンジ……私を置いていかないで……」
ミツコは抵抗も虚しく車椅子に押し戻されながら、息子に必死に手を伸ばした。
「また来月の面会日にお待ちしております」
ヴァンスはそう言うと、母親を連れて部屋を出て行った。
一人残されたケンジは、怒りと無力感で全身が震え、椅子に崩れ落ちる。
妄想か、真実か。
施設の言うことは医学的に正しいのかもしれない。
だが母親の瞳に宿っていたのは、紛れもない本物の恐怖だった。
「何かが……絶対におかしい」
「――あの」
突然、背後からか細い声がした。
振り返ると、疲れきった顔の女性が立っていた。ケンジと同じ、家族を案じる者の目をしている。
「すみません、急に。……あの。あなたも、この施設がおかしいと思いませんか?」
ケンジは弾かれたように顔を上げた。
「俺の母親は……ここで虐待されてるって訴えてる。実験台にされてるって」
「やっぱり……! 私の夫も全く同じことを言うんです。『毎晩痛いことをされる』『俺たちは実験動物だ』って。でも看護師は『すべて妄想です』の一点張りで……!」
彼女は周囲を警戒し、声を潜めた。
「でも、たった一ヶ月で夫の体重が20キロも落ちたんです。これも妄想だっていうんでしょうか!」
ケンジの心臓が警鐘を乱れ打つ。ミツコと、同じだ。
「他にも、おかしいと思ってる家族はいるんですか?」
「何人かいます。でも、みんな声を上げられない。『こんな高級施設に逆らえるわけがない』『ここを追い出されたら行く場所がない』って、怯えてるんです」
女性は唇を噛みしめた。
「でも、このまま黙っていたら、私たちの家族は本当に殺されてしまうかもしれない」
ケンジはゆっくりと立ち上がった。
怒りが絶望を焼き尽くし、冷たい決意に変わっていく。
「真実を暴きましょう。一人じゃ無理でも、仲間がいれば話は別だ」
「でも、どうやって? 面会は月に一度きりです……それに施設はすごいセキュリティで」
正攻法では何もできない。
システムは、常に彼らのような弱者を無力化するようにできている。
だが、システムの外側には、別のルールが存在する。
「方法はある」
ケンジの目に、これまで宿したことのない危険な光が灯った。
「動かぬ証拠を掴むんだ」
■
サウス区の放棄された地下鉄駅構内。
企業の監視ドローンも、ここまでは降りてこない。
ケンジを含む6人の家族が、錆びたベンチを囲んで集まっていた。
非常灯の赤い光が、それぞれの顔に絶望と怒りの影を落としている。
彼らは全員が労働者階級の出身で、シルバーケアという唯一の選択肢にすがるしかなかった者たちだ。
「集まってくれてありがとう。……あの施設がしてきたことの、証拠を手に入れた。それを共有しようと思う」
「どうやって証拠を……?」
面会室でケンジに最初に声をかけてきた女性が、震える声で尋ねた。
ケンジは油臭いバッグから、手のひらサイズの受信機を取り出す。
「ここにいるカレルさんの家族に協力してもらった。カレルさんのお婆さんがいつも抱いてる古い人形……その両目にマイクロカメラを仕込んでもらったんだ。映像はリアルタイムでここに飛んでくる」
それはサウス区のブラックマーケットの技術屋に、有り金をはたいて作らせた代物だった。
「三日分の映像が撮れた。……覚悟して見てほしい」
ケンジはポータブルプロジェクターを起動し、コンクリートの壁に映像を投影した。
最初は、病室の天井が映し出された。人形の目線から、部屋の様子が見渡せる。
【映像:一日目、午前10時】
白衣のスタッフたちが病室に入ってくる。
先頭に立つのは、あの看護師サラ・ヴァンスだった。
『おはよう、クズども。脳みそが腐るニオイがするわね』
サラの吐き捨てるような声に、地下室の空気が凍りついた。
『今日の実験リストは?』
別のスタッフがデータパッドを読み上げる。
『A-7とB-12は新開発の攻撃性誘発剤のテスト。C-3は神経を焼く高周波パルスの耐久実験。D-9は……ああ、昨日の夜、心臓が破裂して死にました』
『何そのウケる死に方! 補充申請しといて。ドクターががっかりするわ』
参加者たちの顔から血の気が引いていく。
画面の中で、サラがミツコのベッドに近づいた。
『ミツコさん。あんた、昨日はずいぶん抵抗してくれたわね。今日は特別メニューよ』
『い、いや……もう痛いのはやめてください……お願いします』
ミツコの懇願する声に、ケンジは奥歯を砕けんばかりに噛みしめた。
『黙れ、喋るゴミが』
乾いた音が響く。サラがミツコの頬を平手打ちしたのだ。
『あんたたち老人はこの国の寄生虫。私たちの研究に貢献できるだけありがたいと思いなさい!』
【映像:一日目、午後2時】
場面は変わり、窓のない白い部屋。
10人ほどの高齢者が、椅子に身体を拘束されている。
『さあ、今日は新型の記憶分解剤よ。どこまで自我をバラバラにできるか、楽しみね!』
白衣のスタッフが、嘲笑を浮かべながら次々と患者の腕に注射を打っていく。
薬剤を注入された老人たちは、即座に痙攣し、白目を剥いた。
『やめて……お、俺は……誰だ? ここはどこだ……!』
『お母さん! お母さぁん!』
老婆が、すでに亡くなっているであろう自身の母親を呼び、泣き叫ぶ。
スタッフたちはその様子を冷静に観察し、データパッドに数値を打ち込んでいる。
『もうちょっとデータが必要だな。老人じゃボケてるのか薬がきいてるのかわからん』
『もっとイキのいい老人を連れてこないとなぁ』
【映像:二日目、深夜1時】
薄暗い地下実験室。
この施設の長であるドクター・ブルームフィールド本人が、ストレッチャーに固定された数人の老人を前にしている。
全員の頭部には、無数の電極が取り付けられていた。
『脳の反応を見る。電気刺激、レベル3から開始しろ』
スイッチが入れられると、老人たちの身体が弓なりに反り、声にならない悲鳴が漏れる。
『あががっ! ああああああっ』
『電圧をレベル5へ』
『先生、これ以上は脳細胞が損傷を……』
『構わん。壊れたら捨てればいいだけだ。重要なのは、限界値のデータなのだよ』
『ひいいいいい! いぎぎっ、いいいいいい――』
電圧が上がり、一人の老人が口から泡を吹いてぐったりとした。
心電図のモニターが、長い警告音を立ててフラットになる。
『この個体は廃棄。次を準備しろ』
【映像:三日目、午前6時】
食堂。患者たちには、栄養ペーストのようなものが配られている。
そこに現れたサラが、ミツコの食べていた皿をひっくり返す。
『あっ……! な、何を……』
『あんた、昨日私の靴を汚したわね。罰として今日は食事抜きよ』
『そ、そんな……食事はただでさえ少ないんだから、抜いたら死んじゃう……』
『死ねよ! お前なんか死んだって誰も悲しまないんだから!』
大声で罵倒するサラ。それに対して、周りの老人たちも何も言わず、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかない。
【映像:三日目、午前11時】
『あ、の……トイレに、行かせて……』
『我慢しろよ、クソババア。お前が漏らすところに賭けてるんだからさ』
病室で、ストレッチャーに固定された老婆が声を上げる。
しかし周りのスタッフたちは取り合わない。電子タバコをふかしながら笑っているばかりだ。
結局老婆は失禁してしまい、それを見ていたスタッフたちが腹を抱えて爆笑する声が響き渡った。
――映像終了。
プロジェクターの光が消え、地下室は墓場のような沈黙に包まれた。
壁際で、一人の女性が泣き崩れた。別の男は、頭を抱えて獣のように呻いている。
「信じられない……」
最初に口を開いた女性の声は、絶望でかすれていた。
「あれは……人間じゃない。悪魔よ」
「俺の親父が……親父がなんであんな目に……」
「殺してやる……あいつら、全員八つ裂きにしてやる!」
「待て!」
ケンジが、怒りに駆られる男を制した。
「感情で動いたら負けだ。これだけの証拠がある。警察だって動かないわけがない」
「本気で言ってるのか? 相手はセントラル区の権威だぞ。企業の重役とも繋がってる。俺たちみたいな底辺の労働者の訴えを、警察がまともに聞くと思うか?」
「それでもやるんだ! 家族を救うためだ! このまま黙って、あいつらに殺されるのを見ているくらいなら、何だってしてやる!」
その言葉に、絶望していた者たちの目に、再び闘志の火が灯った。
「……彼の言う通りだ。これだけはっきりした証拠があるんだ」
「私たちも一緒に行くわ。一人より大勢の方がいい」
ケンジは決意を込めて言った。
「明日、このデータを持ってセントラル区の公安局に直接乗り込む。正式に告発するんだ」
一人の男が、血が滲むほど握りしめた拳を振り上げた。
「ああ、やってやろう。あいつらの化けの皮を、この手で剥いでやる!」
6人は互いの顔を見合わせた。
恐怖と怒りと、そしてわずかな希望。家族を救うため、彼らは巨大な悪に立ち向かうことを決意するのだった――。
この国でうまくいくわけねえだろ!!




