【404】救済事業
(――う……)
最初に聞こえたのは、機械の音だった。
規則正しい電子音。心拍を刻むモニター。空調の低い唸り。
点滴ポンプがリズミカルに薬液を送る、微細なモーター音。
ナノがよく知っている音だ。
ゴメスさんの義手のアクチュエーターとも、ヤンさんの肩関節のサーボモーターとも違う。
けれど、機械の音であることは間違いない。
目を開けようとした。瞼が鉛のように重い。
何度か瞬きを繰り返して、ようやく視界が安定する。
(ここ……は?)
白い天井。
セントラル区のアカデミーでも、エドワードの陰湿な部屋でもない。
もっと無機質で、清潔で、事務的な白さだ。
病院の天井だとナノは理解した。
「やあ、おはよう。お目覚めの気分はどうだい?」
「……!?」
ひどく軽薄な声がして、ナノは首を向けた。
長い間使われていなかった首の筋肉が、軋むように痛んだ。
ベッドの傍のパイプ椅子に、一人の男が浅く腰掛けていた。
金髪を後ろに流した、仕立ての良い白いスーツの青年。
碧眼だが、どこか焦点の定まらない不思議な目をしている。
人好きのする笑みを浮かべてはいるが、その笑みには計算され尽くした匂い。
首元では青いサファイアのループタイが光っている。見覚えのない顔だった。
「……だ、れ?」
声が嗄れていた。喉に砂が詰まったような感触で、掠れた音しか出ない。
「私はイスラ。ネクサス・リンク社のCEOさ。事情を小耳に挟んで、勝手にお見舞いに来た野次馬、というのが正しいかな」
イスラはヘラヘラと笑いながら、膝の上のタブレットを閉じた。
「ナノ・クロイツェルさん。13歳。イースト区第七中等教育校から、セントラル・テクニカル・アカデミーに特別推薦で転入。……入院してから、今日で19日目だよ」
19日。
その数字がナノの脳に染み込むまで、数秒かかった。19日間、自分は眠っていたのだ。
「後頭部の骨折と脳浮腫。出血性ショック。搬送が数時間遅れていたらアウトだったね。主治医の先生も、正直コインの裏表だったと言っていたよ」
イスラの口調は、まるで他人事のゴシップでも語るように軽かった。
そこに医者のような慎重さも、大人のような配慮もない。
「それともう一つ、君に伝えておかなければならないことがある」
ナノの胸に、冷たい予感が走った。
身体の感覚が徐々に戻ってきている。背中の痛み。頭の鈍痛。首元の点滴針のひんやりとした感触。
そして——。
両腕。
肘から先に、感覚がない。
ナノは天井を見つめたまま、掛け布団の下で腕を動かそうとした。
肩は動く。上腕も動く。しかし肘から先——そこに、あるべき重量がなかった。
「……」
知っていた。
意識が戻る前から、身体の奥底で知っていた。暗い眠りの底で、何度も同じ悪夢を見た。
チェーンソーの金切り声。肉を断たれる灼熱の痛み。自分の絶叫。
そして——空っぽになった腕の、怖いほどの軽さ。
「君は、両前腕を喪失している」
イスラの声が、平坦なトーンで告げた。
「肘から先、両方ともね。切断面は高温で焼灼されていて、手術による断端の整形は既に終わっているよ」
ナノは天井から目を逸らさなかった。
涙は出なかった。感情がまだ追いついていないのだ。
頭が理解していることと、心が受け止めていることの間に真っ暗な断崖絶壁がある。
そこに落ちないように、ナノは天井の白さだけを必死に見つめていた。
「お兄さんは今、仕事に出ている。毎晩面会に来て、君の手を……いや、腕をさすってから、帰り際に必ず君の工具バッグの中身を点検して帰るそうだ。看護師さんが教えてくれたよ」
「……っ」
ナノの視界が、少しだけ滲んだ。
タクトの姿が目に浮かんだ。ベッドの脇で、不器用な手つきで工具バッグを開け、中身を一つ一つ確かめている兄の姿。
持ち主がもう二度と工具を握れないのだから、何の意味もない行為だ。
それでもタクトはきっと、ナノが目を覚ましたときに工具が全部揃っているように、毎晩祈るように点検しているのだろう。
「さて、状況説明は終わりだ」
イスラが椅子の背もたれから身体を起こし、ナノを真っ直ぐに見た。
ヘラヘラとした笑みが、スッと消えていた。
「ここから先は、君自身の問題だ。ナノさん、率直に聞くよ」
碧眼が、ナノの虚ろな目を捉えた。
演技的な表情も、社交的な仮面も外された、ぞっとするほど鋭く静かな顔がそこにあった。
「再起するつもりはあるかい?」
一切の容赦がない問いだった。
慰めも、同情も、「可哀想に」という哀れみも含まれていない。
ただ、魂の在処を確認するだけの問い。
「……再、起……」
「そう。ここから先の話は、君が前を向く意志を持っている場合にだけ意味がある。もし今はまだ絶望していたいというなら、私は帰る。またそのうち会おう」
ナノは天井を見つめていた。
白い天井。染み一つない、病院の天井。
——手がない。
その事実が、ようやく心に届き始めていたところだった。
祖父のドライバーを握れない。ゴメスさんの指を直せない。メンテナンスハッチを開けられない。グリスの粘度を確かめられない。
もう何も、作れない。直せない。
(——本当に?)
ナノの中で、別の声がした。
それは祖父の声に似ていた。
――お前の手は宝だ。
手は理不尽に奪われた。それは変えられない。
けれど祖父が「宝だ」と呼んだものは、本当にあの肉の塊だけだったのだろうか。
手が覚えたコンマ一ミリの感覚。機械の悲鳴を聴き分ける耳。
どこが痛いか見抜く勘。壊れたものを直したいと願う心。
(それは——まだ、あたしの中にある……)
ナノの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
一筋。二筋。堰を切ったように溢れ出し、包帯の巻かれた頬を濡らしていく。
声はない。ただ涙だけが、19日分の理不尽と悲しみを代弁するように流れ続けた。
「……ある」
掠れた、震える声だった。
「あたし、まだ……やりたい。機械を……直したい。あたしに、直してほしいって待ってくれてる人が……いるから」
鼻の奥がつんとして、呼吸が乱れる。それでも、言葉を紡いだ。
「ゴメスさんの指が……また固まったら、誰が直すの。ヤンさんの肩、ドミニクさんの膝……あたしがやらなきゃ……あの人たちは……」
涙で視界がぐちゃぐちゃになり、天井の白さが歪んで溶けた。
「もう……あたしに手はないけど……でも……!」
ナノは毛布の下で、ない手を力強く握り込もうとした。
肘から先が空振りする残酷な虚無感。それに抗うように、彼女は歯を食いしばって言葉を搾り出した。
「まだ、諦めたくない……っ!」
病室に沈黙が落ちた。
心拍モニターの規則的な電子音だけが、空白を埋めている。
イスラは数秒間、黙ってナノの泣き顔を見ていた。
それから、ほんの微かに——口元が緩んだ。
いつもの胡散臭い作り笑いではない、ひどく人間臭い、柔らかな笑みだった。
「上等だ。じゃあ、ビジネスの話をしよう」
イスラは椅子を少しベッドに寄せた。
「私の会社、ネクサス・リンクには、義体技術の非公開研究部門がある。主に地下インフラ作業用の産業義体を開発しているんだが、その技術を応用したオーダーメイドの高精度義手を作ることができる。
最新の神経直接接続インターフェースを搭載した、指先の微細な触覚フィードバックまで完璧に再現可能な代物だ」
ナノの涙が止まった。呆然とした目が、イスラを見つめている。
「それを君に提供しよう。リハビリ期間中の医療費と生活支援、さらに教育環境のバックアップも含めてだ」
「……なん、で」
ナノの声には、感謝よりも先に強い警戒があった。
「あたしのこと、知らないですよね。会ったこともないのに……なんで、そんなことしてくれるんですか」
怯えを含みつつも、真っ直ぐな目だった。
エドワードに出会う前のナノなら、無邪気に喜んでいただろう。
あの男が残した傷は、両腕を奪ったこと以上に、彼女から「大人への無条件の信頼」を奪い去っていた。
イスラはその刺すような視線を、正面から受け止めた。
「素晴らしい。警戒するのは正しいよ。見知らぬ大人がいきなり無償の支援を申し出たら、裏があると思うのが当然だ。特に、君が地獄を経験した後ではね」
イスラは両手を組み、姿勢を正した。
「だが君の不安を除けるかはわからない。これから語るのは間違いなく本音だが、胡散臭く聞こえる自覚はあるからね」
「は、はい……」
「――私はこの街の構造を根底から変えたいと思っている。そのためには優秀な技術者が必要だし、長い目で見れば君への支援は私のビジネスと野望にプラスになる」
イスラは隠さなかった。
ナノの警戒に対して綺麗な嘘で塗り固めるのではなく、まずは打算を打算としてテーブルの上に差し出す。
「でもね」
イスラの声の温度が急激に上がった。
公的な場で使う扇動的な声でも、ビジネスの場で使う計算高い声でもない。
もっと熱く、もっと泥臭い、彼の魂の底から絞り出されるような声。
「この街には、夢を殺すシステムがある」
イスラの碧眼が、燃えるような光を帯びてナノを射抜いた。
「才能のある者が夢を抱くと、制度がそれを摘む。教育が、経済が、階級が、あらゆる手段を使って芽を潰す。
君が経験したことは特別じゃない。エドワード・フィンチの狂気が極端だっただけで、同じ構造はこのネオ・アルカディアのあらゆる場所に血肉のように埋め込まれている」
ナノは息を呑んで聞いていた。
「私は、そのクソみたいな構造をぶっ壊したい。この閉ざされた街をこじ開け、外の世界と繋げたい。そのために地下にトンネルを掘り、いつかこのドームの外に出る道を切り拓く!」
イスラは身を乗り出し、ナノの目を見た。
普段の軽薄なカリスマの仮面は完全に剥がれ落ちていた。
ただ一人の人間が、もう一人の人間に向けて、血を吐くような本音をぶつけている目だった。
「トンネルは私一人では掘れない。技術がいる。人がいる。何より——この腐った街を変えたいと渇望する、熱量がいるんだ」
イスラの言葉が、ナノの胸の奥を激しく打った。
「この国を動かす本当の原動力は、上層部の権力じゃない。君たちの『夢』だ」
ナノの呼吸が止まった。
「イースト区のガキが最高の機械技師になりたいと願うこと。サウス区の孤児がよりよい暮らしを目指すこと。名もなきエンジニアがビジネスを立てること。そういう夢を見る人間が、一人でも多く生き残ることが——この街の未来にとって、何より必要なものなんだ」
イスラの声には、絶対的な確信があった。
「だから、君のような子が理不尽に潰されたままなのは、この街にとっての損失だ。私はそれを許さない。……打算でもあり、本音でもある。信じるかどうかは君に任せるよ」
長い沈黙が流れた。
心拍モニターが68回を刻む間、二人は黙ったまま向き合っていた。
ナノの目に、新しい涙が浮かんだ。
さっきまでの絶望の涙とは違う。もっと熱くて、もっと澄んだ涙だった。
「……怪しいですよ、やっぱり」
掠れた声で、ナノは言った。
唇の端が、ほんの少しだけ持ち上がっていた。
「でも……打算があるって、自分の利益になるから助けるって、正直に言うところは……ちょっとだけ信用できる気がします」
イスラはこらえきれないように「ははっ」と声を上げて笑った。素の笑いだった。
「本当にいいのかい? もっと警戒してもいいと思うよ」
「警戒してますよ。でも……打算があるって自分で言う大人の方が、まだマシかなって」
イスラは椅子の背もたれに身体を預け、大げさに肩をすくめた。
「13歳にしてその人間観は、なかなか末恐ろしいものがあるね。将来有望だ」
「いろいろ……あったので」
ナノの声が少し詰まった。けれどすぐに持ち直す。
「義手……本当にもらえるんですか」
「もらうんじゃない。投資だ。将来、君が一人前の技術者になったとき、その腕でうちの会社のデカい仕事を手伝ってくれればいい。そういう契約にしよう」
「……あたし、まだ中学生なんですけど。いつになるか分かりませんよ」
「構わないさ。青田買いと長期投資は、私の最も得意とする分野でね」
イスラがニヤリと笑った。
今度は少しだけ、いつもの『白いカリスマ』の胡散臭い笑みが混じっていた。
けれどその奥にある温度は、さっきの熱い本音と同じものだった。
ナノは天井を見上げた。
白い天井。染みのない、清潔な表面。
手はない。
でも——。
「……おじいちゃん」
小さく呟いた。
ゴメスさんの義手の関節が鳴る音。ヤンさんの肩が滑らかに動く瞬間。ルカが火傷用ジェルを塗ってくれた指先の優しさ。タクトが工具バッグを毎晩点検している、不器用な背中。
そして、祖父が教えてくれた、機械の声を聴く感覚。
全部、まだあたしの中にある。
「……お願いします。義手、ください」
ナノの声は掠れていたが、はっきりとした意志が宿っていた。
「復活したら、うんと働きます。投資してもらった分、絶対に返しますから」
イスラは満足げに頷き、立ち上がってスーツの埃を払うふりをした。
「契約成立だ。ネクサス・リンク社は、君の夢にフルベットした。回収はきっちり頼むからね、ナノ技術主任」
ドアに向かいかけて、イスラは足を止めた。振り返り、いつものヘラヘラした笑顔でウインクをする。
「お兄さんに伝えておくよ。目を覚ましたこと。たぶん工場を飛び出してすっ飛んでくるだろうから、看護師さんには先に謝っておくとするか」
ドアが閉まった。
病室にナノだけが残された。
心拍モニターの音。空調の唸り。点滴ポンプのリズム。
機械の音だ。ナノが一番よく知っている、大好きな音。
ナノは毛布の下で、ない手を動かそうとした。
肘から先が空振りする。今はまだ何もない。だがその空白に、やがて新しい手が入る。
自分で整備して、自分で調整する、最高に頑丈な……鋼の腕が。
窓の外で、イースト区の工場の煙突が重たい蒸気を吐き出していた。
人工の雲がドームの天井に薄く広がり、人工太陽の朝の光をオレンジ色に染めている。
ナノはその光を、真っ直ぐに見つめた。
泣き腫らした目で。けれど、確かに前を向いて。
ナノ編の続きなんですが断罪はしてないので404タグにしています




