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【依頼人】天才少女の真相

 それは、ほんの些細な偶然だった。


 放課後。

 ナノは忘れ物を取りに教室へ戻ろうとしていた。


 エドワードから貰ったライデン・ツールズのドライバーセット。

 実習の後、作業台の奥に置きっぱなしにしてしまったことに、駅へ向かう途中で気がついたのだ。


「はぁ……」


 実習棟の二階。夕闇が迫る薄暗い廊下を引き返し、角を曲がろうとしたとき。

 実習準備室のドアが、わずかに開いていた。


「……で……」

「しかし……」


(……? 何だろう。聞き覚えのある声……?)


 中から漏れる二つの声。

 ナノの足は、無意識のうちに床に縫い付けられた。


「——そろそろ厳しくなってきた、と言っているんだ」


 カーター教諭の声だった。

 いつもの淡々とした口調だが、明らかな苛立ちが混じっている。


「あの子の作業精度は実際に上がっている。数値で明確に出ているものを、不当に低く採点し続けるのは無理がある。他の教諭にも不審に思われかねない」


 ナノの心臓が、ドクン、と痛いほど大きく跳ねた。


 不当に低く採点?

 誰の? ……あたしの?


「もう少しだけ頼むよ、カーター教諭。あともう少しで、完全に仕上がるんだ」


 エドワードの声だった。

 いつもナノに甘く囁きかける、優しくて温かい声。

 けれどその声が紡ぐ言葉の意味が、ナノの脳髄を氷のように冷やしていく。


「しかし委員長。これ以上は——」

「相手はイースト区の底辺の娘だろう。家庭に教育リテラシーなどない。仮に保護者が問い合わせてきたところで、専門的な評価基準を並べ立てれば黙る。五歳上の兄が一人いるだけだ、学のない工場労働者の。いくらでも押し通せるよ」


「それは分かっている。だが私も教育者の端くれだ。根拠のない低評価をつけ続けるのは——」

「根拠ならいくらでも作れるさ。レポートの書き方が正規フォーマットに沿っていない、基礎理論の体系的理解が不足している。何とでも言える。実際、正規の教育課程を経ていないゴミなのは事実なんだからぁ」


(え……? は……?)


 廊下の壁に手をついたナノの指先が、血の気が引いて真っ白になっていた。


 呼吸が浅い。

 耳の奥で脈拍がガンガンと鳴り、二人の声が遠くなったり近くなったりする。


 ——嘘。嘘でしょ?


「……俺はあんたの『趣味』に協力しただけだ。だがな、委員長。あの子の技術は本物だぞ。イースト区の独学であの精度は異常だ。潰すのは惜しい」

「潰すなんて人聞きの悪い。私はあの子を守っているんだよ。身の丈に合わない夢を見せられて、外の世界で挫折して傷つくより——最初から私の腕の中という『正しい場所』に繋いであげた方が、あの子のためだろう?」

「正しい場所、ね」


 カーターの声に、明確な嫌悪感が混じった。


「……まあいい。約束通り、もう一ヶ月だけだ。それ以降は降りる」

「十分だよ。ありがとう、カーター教諭。君の協力には感謝しているよ」


 椅子を引く音がした。

 ナノは壁から手を離した。指の感覚がない。

 足がガクガクと震え、頭の中が真っ白になっている。


 ——全部、嘘だった。


 カーター教諭の理不尽な指導も。

 理由のない低評価も。クラスでの徹底した孤立も。


 全部、最初から仕組まれていた。


 そしてその地獄の中で、唯一差し伸べられた温かい手。

 あの手が——地獄を作り出していた張本人の手だった。


(あの手が、あたしの頭を撫でた。あたしの肩を抱いた。あたしの首筋を、撫で回した……っ!)


 吐き気が込み上げた。胃液が喉元までせり上がってくる。


 足音が近づいてくる。ドアが開きかける。

 ナノは反射的に廊下の角の暗がりに身を隠した。


 エドワードが準備室から出てきて、反対方向に歩いていくのを、壁に背を押しつけたまま見送る。


 去っていく後ろ姿。少しサイズの合わない高級スーツ。神経質に猫背気味の歩き方。

 ナノが「先生」と呼んで縋っていた男の背中。


「……っ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 エドワードの姿が角に消えてから、ナノはゆっくりと壁に沿って崩れ落ちた。


 膝を抱え、額を押しつける。

 涙は出なかった。代わりに、全身が痙攣するように細かく震えている。


 歯の根が合わず、カチカチと鳴る。

 寒いのではない。怒りでもない。

 名前のつかない絶対的な恐怖と嫌悪感が、臓腑の底から全身を侵食していく。


 ――ゆるせない。


 ナノは立ち上がった。

 膝が笑っていたが、壁に手をつきながら歩き出した。



 いつもの放課後の実習室。

 いつもの時間に電子ロックが解除され、ドアが開いた。


「やあ、ナノ。今日はミルクティーにしてみたよ。この前、美味しそうに飲んでくれたからね」


 エドワードは二つの紙コップを手に、甘い笑顔で入ってきた。


 ナノは作業台の前に座っていた。手元にはパーツもない。工具も出していない。

 ただ膝の上で両手を固く組み、エドワードを待っていた。


「おや、今日は作業しないのかい?」


 エドワードはいつもの椅子を引き、ナノの真横に座った。

 太ももが触れ合うほどの、異常な距離。


「どうしたんだい。ひどく顔色が悪いよ」


 エドワードの手が、ナノの肩に伸びた。


 ナノはその手を見つめた。細い指。神経質に手入れされた爪。指の腹のかすかな湿り気。

 この手がナノに触れるたび、ナノは自分の本能が告げる違和感に蓋をし続けた。


 バシッ。

 ナノは思い切り肩を引いて、その手を払いのけた。


 エドワードの指先が空を切る。


「……ナノ?」


 エドワードの表情に、初めて明確な戸惑いが浮かんだ。

 しかしすぐに笑顔の仮面を貼り直し、もう一度手を伸ばそうとする。


「カーター先生と話してましたよね」


 ナノの声は、自分でも驚くほど平坦だった。

 震えていない。泣いてもいない。ただ真空のように冷たい声。


「……何の話かな」

「昨日。準備室で。全部聞こえてました」


 エドワードの手が、空中でピタリと止まった。


「あたしの評価を低くつけるように、先生がカーター先生に指示してた。最初から、そういう段取りだったんですよね」


 重苦しい沈黙が落ちた。

 空調の唸りも、全てが消え失せたように感じられた。


 エドワードの顔からゆっくりと、本当にゆっくりと笑みが削げ落ちていく。


 笑顔の仮面が剥がれた下から現れたのは、ナノが一度も見たことのない——人間かどうかも疑わしい、のっぺりとした無表情だった。


「……それは、誤解だよ」


 声はまだ穏やかだった。

 けれど眼鏡の奥の瞳が、仮面のように冷たく凪いでいる。


「誤解じゃないです! 聞きました! イースト区の娘だから押し通せるって。あたしを正しい場所に繋ぐって。……全部、全部聞きました!」

「ナノ、落ち着きなさい。文脈を切り取って聞くと誤解が生じるものだ。私はね、カーター教諭に君の指導方針について——」

「嘘つかないで!!」


 声が裏返った。平坦だった声にひびが入り、激しい怒りと絶望が噴き出す。


「最初から全部仕組んでたんでしょ! あたしを孤立させて、自信をなくさせて、先生だけが味方のふりをして……あたしのこと……!」


 ナノは椅子から立ち上がり、自分の腕を抱きしめた。

 エドワードに撫で回された場所の皮膚を、爪を立てて削り落としたい衝動に駆られる。


「なんで……なんであたしにあんなことしたの。あたし……あたし、先生のこと信じてたのに……っ!」


 叫び声が実習室の壁に反響し、すぐに沈黙に飲み込まれた。


 エドワードの表情が、再び変わった。

 冷たい凪でもなく、取り繕った笑顔でもない。

 口元が不自然にひくつき、目の焦点がナノを通り越して虚空を彷徨い始める。


「……ひどいな」


 呟くような、湿った声。


「ひどいじゃないか。私は悪くないのに」

「え……?」

「私は悪くないんだよ。いつもそうだ。いつもいつも、私のせいにされる。隠者たちにも見下される、部下にも馬鹿にされる、議会でも笑われる……私は、ただ、優しくしてやっただけじゃないか」


 エドワードの声が変質していた。


 暗い穴の底から這い出てくるような、粘つく独り言。

 両手で自分の腕をガリガリと掻きむしり、眼鏡がずれ落ちるのも気にしない。


「くだらない夢なんか見おって……機械技師だと? イースト区の汚いガキが? 身の程を知れ。お前は、お前の分際は、私の慰みモノになることだけが価値のくせに——」

「っ……!」


 ナノは後ずさった。

 目の前の男は穏やかな『先生』でも、冷酷な支配者でもない。

 ただの、惨めで歪んだ異常者だ。


「優しくしてやったのに。私だけが味方だったのに。なのにお前まで私を否定するのか。みんなそうだ。みんな私を、私の善意を踏みにじる。あのときもそうだった。あのときもそうだった。結局誰も私に感謝しない——」


 焦点の合わない目でブツブツと呪詛を吐き続けるエドワード。

 不意に、その濁った瞳がナノを捕らえた。


「ナノ」

「……っ!」


 背筋を氷の刃で撫でられたような悪寒。


「座りなさい」

「い、いやだ……」

「座りなさいと言っている。私の話を最後まで聞け。お前のために言っているんだ。座れ!」


 低く濁った、絶対的な命令。

 ナノの本能が警鐘を鳴らした。


「来ないで……!」


 ナノは脱兎のごとく弾けた。


 作業台を回り込み、エドワードの横をすり抜け、ドアに向かって走る。

 全速力で。祖父の工具バッグが肩からずり落ちるのを片手で押さえながら。


 ドアノブに手をかけた。冷たい金属の感触。

 引く。開く。廊下の光が、一筋——


 ガンッ!

 後頭部に、硬く重い衝撃。


 視界が、爆ぜた。


「あぁっ……!」


 ナノの意識が白く飛び、次の瞬間には真っ暗に沈んだ。


 膝から力が抜け、身体が前のめりに廊下へ崩れ落ちる。

 冷たいタイルに頬が打ち付けられるのを最後に——工具バッグから祖父のドライバーが一本転がり落ちる金属音が、遠い水底のように響いた。


「ハァッ……ハァッ……!」


 エドワードは肩で息をしていた。


 その手には、作業台から咄嗟に掴んだ義体用の重量キャリブレーションウェイト。

 500グラムの無骨な金属塊が、僅かに赤く濡れている。


 床に倒れた少女を見下ろし、彼は数秒間、自分が何をしたのか理解できずに立ち尽くした。

 それから、ガリガリと親指の爪を噛み始める。


「クソッ……クソ、クソッ……! なんで、なんでこうなる……私は悪くない……悪くないのに……こいつが余計なことを聞くから……私は、ただ愛してやったのに……!」


 ブツブツと自己弁護を呟きながら、エドワードはナノの細い足首を掴み、廊下から実習室の中へと乱暴に引きずり戻した。


 ドアを閉め、電子ロックを二重にかける。その手は醜く震えていた。


 床に横たわるナノの黒髪が、タイルの上に扇状に広がっている。

 後頭部から伝った細い血の筋が白い首筋をなぞり、制服の襟をゆっくりと赤く染め上げていた。


「閉じ込めなくては……閉じ込めて……二度と逆らわないようにさせてやる……私を悪者にしおって……私は悪くない! のに!」

ジメジメしたパートが除湿されていつものサイコ感に戻ってゆくよ

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