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【依頼人】天才少女の手懐け

今さらですが今回の編は性的な描写やトラウマに関する描写が含まれます!!

そういうのがある方はくれぐれもご注意ください

なお次回からははっちゃけてそういう話じゃなくなりますのでご安心ください

 一ヶ月が経った頃から、エドワードの訪問は週三回に増えていた。


 火曜日、木曜日、金曜日。

 放課後の実習室。他の生徒が帰り、教諭たちが職員室に引き上げた後の密室。


 ナノはもうそれを「約束」として認識していた。

 言葉を交わしたことは一度もないのに、エドワードは必ず現れる。ナノは必ず待っている。


 その日は、いつもより遅かった。


 人工太陽がとうに夕暮れモードに切り替わり、実習室の窓から差し込む光がオレンジから毒々しい紫に変わっている。


 ナノは一人で義手パーツの分解組立を繰り返していた。

 三度目のやり直し。カーター教諭に「基礎の反復が足りない」と吐き捨てられた作業を、完璧にできるまで帰れない。


 いや、帰りたくない、という気持ちの方が正確だった。

 帰ったところで、不器用な兄にうまく笑えない自分がいるだけだから。


 電子ロックが解除される音。

 ナノの肩の力が抜け、ほっと息を吐いた。

 その安堵の感情自体が異常であることに、彼女はもう疑問を持たなくなっていた。


「先生……」

「遅くなってすまないね。定例会議が長引いてしまって」


 エドワードはいつものように紙コップを二つ持っていた。

 今日は甘いミルクティーだ。

 ナノの好みを、彼はいつの間にか正確に把握し、与え続けている。


「……先生、あたし今日、またカーター先生に怒られて……」

「聞いているよ。彼からの日報に目を通した」


 エドワードはナノの向かいではなく、隣に椅子を引き寄せて座った。

 以前より明確に近い距離。ナノの膝と彼のスラックスが触れ合いそうな位置だ。


 ナノは身体を引かなかった。

 ここ数週間でじわじわと詰められてきたこの距離感を、「特別扱いの証」として受け入れるように調教されていたからだ。


「基礎が足りないなんてことはない。データを見れば一目瞭然だ。君の作業精度は入学時から飛躍的に向上している。カーター教諭は、君の『我流の才能』に嫉妬しているだけだよ」


 エドワードはナノの手元からパーツを取り上げ、満足そうに頷いた。


「ほら、見てごらん。この仕上がりのどこに問題がある? 完璧だよ」

「……でも、他の先生たちには、そう見えないみたいで」

「私には見える。君の本当の価値は、私だけが分かっている」


 エドワードはパーツをコトンと机に置いた。

 そして極めて自然な動作で、ナノの頭に手を乗せた。


「よく頑張っているね、ナノ」


 ナノは身体を強張らせなかった。

 この接触には、もう慣れきっていた。


 最初に頭を撫でられたのは二週間前だ。

 泣いているナノの頭に、祖父がそうしたように手を置いてくれた。

 あの時はただ温かくて、安心した。


 それ以来、エドワードはナノの身体に頻繁に触れるようになった。


 頭を撫でる。肩を抱き寄せる。

 作業を教えるふりをして、背中から覆いかぶさるように腕を回す。


 どれも「指導」という大義名分を纏っていたが、どれも「先生と生徒」の境界線をじっとりと踏み越えていた。


 ナノが最初に明確な違和感を覚えたのは、いつだったか。


(たぶん、あの日だ……)


 実習中にカッターで指を浅く切ったとき、エドワードはナノの手を両手で包み込んだ。

 止血はすぐに終わったのに、彼の手はいつまでも離れなかった。


 ナノの細い指を一本一本、根本から指先へとなぞり上げるように執拗に撫で回し、親指の腹で火傷の痕をゆっくりと擦りながら、「可哀想に。こんなに傷つけて……『私の』大事な手なのに」と甘く囁いた。


 その指の動きに、ナノは言葉にできない嫌悪感を覚えた。


 温かさとは違う。慈しみとも違う。

 もっと粘り気のある、ナノを「モノ」として味わうような、生々しい熱を帯びた感触。


 胸の奥が、警鐘のようにざわりと鳴った。


 気持ち悪い。逃げたい。

 ……けれどナノは、その本能のざわめきを、自分自身で必死に殺した。


 ——違う。

 先生は心配してくれているだけ。

 あたしを大事に思ってくれているだけ。


 だって、他に誰がいるというのだ。

 クラスメイトはナノを汚物のように無視する。

 教師はナノを出来損ないとして扱う。

 兄には何も言えない。

 ルカの住む世界はもう遠すぎる。


 この広くて冷たくて残酷なセントラル区で、ナノの名前を優しく呼び、ナノの手を握り、「ここにいていい」と肯定してくれるのはこの男だけなのだ。


 この人に嫌われたら、見捨てられたら、ナノは完全に世界から孤立してしまう――。



 その日は、人工降雨の日だった。

 ドーム天井の環境制御システムから、霧のような雨が機械的に降り注いでいる。

 窓の外が白く煙る景色は、水槽の底に沈んだように息苦しかった。


 ナノは実習室の定位置に座っていた。

 しかしいつもと違ったのは、彼女の目が赤く腫れ上がり、頬に生乾きの涙の跡がこびりついていたことだ。


 昼休み、食堂の隅で一人座っていたナノの耳に、女子生徒たちのひそひそ声が突き刺さった。


 ——ねえ、あの子でしょ。フィンチ委員長の『お気に入り』って。


 ——だからいつも放課後に二人っきりで残ってんだ。


 ——イースト区の底辺上がりで成績も最悪なのに退学にならないの、そういう風に『奉仕』してるからだよね。キモっ。


 クスクスという、無防備で残酷な嘲笑。


「……っ!!」


 ナノは昼食を吐き出しそうになりながらトイレの個室に逃げ込み、チャイムが鳴るまで泣いた。

 午後の授業はカーター教諭に三回もミスを指摘され、そのたびにクラス中から冷ややかな視線を浴びた。


 放課後の実習室。

 ドアが開いた。


「ナノ?」


 エドワードはナノの顔を見て、すぐに異変を察した。


 足早に近づき、椅子を引くこともせず、ナノの真横に膝をついた。

 下から彼女の顔を覗き込み、ひどく甘い声で囁く。


「何があったんだい?」


 ナノは首を横に振った。

 エドワードとの関係を汚らわしいものとして噂されているなんて、言えるはずがなかった。


「……なんでもないです」

「なんでもない顔じゃないよ。目が真っ赤だ」

「本当に、なんでも……」

「ナノ」


 縋るように名前を呼ばれ、ナノの肩が小さく震えた。

 それだけでエドワードには十分だった。


「そうか……辛かったね。愚かな子供たちの言葉など、気にする必要はないのに」


 エドワードの手が、ナノの太ももにそっと置かれた。


「……っ!?」


 びくりとナノの身体が跳ねる。

 だがエドワードは手を離さず、スカートの布地越しにゆっくりと撫でるようにさすり始めた。


「……っ、先生」

「大丈夫だよ。ここには誰もいない。私と君だけの世界だ。泣いても構わない」


 エドワードは立ち上がり、座っているナノの背中に腕を回した。


 ナノの顔が、彼の上質なスーツの腹部に押し当てられる。

 エドワードのもう片方の手がナノの首筋に這い、髪の間に指を潜り込ませて、頭皮をじっとりと撫で回した。


「ああ、可哀想な私のナノ。君を傷つけるすべてを排除してあげたい……」


 首筋を撫でる指先が、ぞっとするほど熱かった。

 ナノの中で、相反する二つの感覚が激しくぶつかり合っていた。


 温かい。守られている。

 この腕の中にいれば、あの冷たい視線から逃げられる。


 ——でも。違う。

 気持ち悪い。怖い。


 首元に絡みつく指が、制服の襟元をわずかに押し広げ、素肌を直接なぞった。

 蛇が這うような感触に、ナノの胃の腑がせり上がる。


(嫌……)


 これは祖父のぬくもりではない。タクトの不器用な優しさでもない。


 これは——ナノを喰い物にしようとする、捕食者の愛撫だ。


 ナノの本能が『逃げろ』と悲鳴を上げていた。

 けれど、ナノはその腕を振り払えなかった。


 振り払えば、どうなる?


 誰もいない場所で、たった一人で、カーターの冷徹な声と、同級生の嘲笑と、毎日の理不尽に耐え続けなければならない。


 その絶対的な孤立の未来に比べれば、今この瞬間の吐き気などどうでもよかった。


 ナノは震える両手を持ち上げ、エドワードのスーツの背中を恐る恐る掴み返した。


 その瞬間、エドワードの喉の奥から満足げな吐息が漏れた。

 ナノを抱きしめる腕の力が、逃げ道を完全に塞ぐように強くなる。


「いい子だ。君は本当に、賢くていい子だよ」


 その囁きは、少女の降伏を喜ぶ悪魔の声だった。

 ナノは目を強く閉じ、自分に言い聞かせた。


 ——これでいい。ここにいていい。

 先生が、あたしを守ってくれる。


 実習室の中はしんと静かで、粘着質な衣擦れの音と、窓を打つ人工降雨の音だけが響いていた。



 その夜……。

 ナノは家に帰るなり狭いシャワールームに直行した。


 熱い湯を限界まで出し、エドワードの手が這った太ももや首筋、あちこちを肌が赤く擦り剥けるほどスポンジで洗い続けた。

 それでも、あのじっとりとした指の感触は、皮下組織にまで染み込んでいるように消えなかった。


「……っ! うぇっ……!」


 鏡に映った自分の顔を見た。

 虚ろな目。傷だらけの手。グリスの黒ずみ。


 もう、祖父が褒めてくれた「宝物の手」には見えなかった。

 ただの薄汚れた、誰かに消費されるだけのパーツ。


 ——何も、変わってない。

 あたしは、大丈夫。


 その呪いのような嘘を、少女は自分自身に叩き込んだ。


「……〜〜……zzz」


 リビングに戻ると、タクトがソファで寝落ちしていた。

 手には義体のマニュアルが握られている。


 その疲労しきった寝顔を見て、ナノは声をかけず、そっと毛布をかけた。


 この兄にだけは、絶対に知られてはならない。

 知られたら、タクトは間違いなくエドワードを殺しに行き、そして企業警備員に射殺されるだろう。


 テーブルに置いた端末のインジケーターが明滅していた。

 ルカからのメッセージが三件溜まっている。


『ナノー? 最近返事くれないけど忙しい?』

『私、なんか変なこと言ったかな……怒ってる?』

『心配してるよ。元気なら、スタンプ一個でいいから返事して』


 ナノは端末を手に取り、長い時間をかけて四文字だけを打った。


『元気だよ』


 送信ボタンを押し、端末の電源を切って裏返しに置いた。


 壁のホログラムフレームの中で、祖父が笑っている。

 工具を手に、不器用に、でも心から嬉しそうに。


 ——おじいちゃん。あたし、頑張ってるよ。立派な技術者になるよ。


 声には出さなかった。

 声帯を震わせたら、そのまま泣き叫んでしまいそうだったから。


 六角形の小さな部屋に、イースト区の工場群が立てる低い唸り声だけが響いている。


 ナノはベッドに潜り込み、毛布を頭まで引き上げた。

 目を閉じると、暗闇の中でエドワードの甘い声が鼓膜に蘇る。


 ナノは身体を丸め、自分の傷だらけの手を、祈るように強く握りしめた。

嫌いなヴィラン1位かもしれない


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