表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
182/216

【依頼人】天才少女を蝕む毒

 ルカに打ち明けたのは、転入の三日前だった。


 放課後の教室。

 他の生徒たちが帰った後、ナノは窓際の席でルカと向かい合って座っていた。


 ホログラムボードの電源は落ち、人工太陽が夕暮れモードに切り替わって、教室をオレンジ色に染めている。


「……セントラル区の学校に、転入することになった」


 言った瞬間、ルカの目が丸くなった。

 三秒ほどの沈黙。ナノにはそれがひどく長く感じられた。


「マジで?」

「……マジ。教育委員会の特待生で、学費も免除」

「え、ちょっと待って。すごくない!? それ、めちゃくちゃすごくない!?」


 ルカの声が跳ね上がった。怒っているのではなく、純粋に興奮している声だった。

 もっと悲しまれるか、責められるかと身構えていたナノは完全に拍子抜けした。


「ナノ、それ絶対行くべきだよ! セントラル区のエリート校だよ!? え、制服どんなの? 絶対可愛いじゃん!」

「い、いや、制服とかそういう問題じゃなくて……」

「あ、もしかして私と離れるの気にしてた?」


 図星だった。ナノは思わず目を逸らす。


「……別にっ」

「うっそだぁ。ナノは嘘つくとすぐ目が泳ぐんだから」


 ルカは笑って、ナノの手を両手で包み込んだ。

 傷だらけの指に、いつもルカが塗ってくれる火傷用ジェルの匂いが微かに移る。


「バカだなあ。学校が変わるだけじゃん。引っ越すわけじゃないでしょ?」

「……うん」

「じゃあ週末に会えるじゃん。遊びに行くからね!」


 ルカはそう言ってから、少しだけ声を落として微笑んだ。


「ナノがすごい場所で、すごいこと学んで、もっとすごくなるの……私、見たいよ。自慢の親友だもん」


 ナノは何も言えなかった。唇を引き結んで、ルカの手を握り返すのが精一杯だった。

 泣きそうになるのを必死に堪えていると、ルカが先にボロボロと泣き出した。


「ちょっと、なんでルカが泣くの」

「泣いてないし! 花粉だし!」

「ドームの中に花粉なんてないでしょ」


 二人で笑い合った。

 窓の外では工場の煙突が重たい蒸気を吐き出し、人工の雲がオレンジ色に染まっている。


「……火傷したら、すぐ塗りなよ」


 帰り際、ルカがポケットから火傷用ジェルの新品チューブを押しつけてきた。

 ナノはそれを受け取り、工具バッグの一番取り出しやすいポケットに大事にしまった。



 セントラル・テクニカル・アカデミーでの最初の朝。


 ナノは校門の前で立ち尽くしていた。

 体験授業の日にも見た流線形のガラス壁が、朝の光を浴びて白銀に輝いている。


 生体認証ゲートを通る生徒たちは皆、仕立ての良い真新しい制服を着て、髪も肌も手入れが行き届いていた。


 ナノは自分の手を見下ろした。

 支給された新品の制服を着ていても、手だけはどうにもならない。


 グリスの黒ずみ、火傷の痕、爪の間の落としきれない汚れ。

 昨日一時間かけてブラシで磨いたのに、まだこびりついている。


 深呼吸を一つ。

 重い工具バッグの肩紐を握り直し、ゲートを通った。


 配属されたのは、技術工学科の2年B組だった。


 教室に入った瞬間、三十人分の視線がナノに突き刺さった。

 好奇心と、品定めをするような冷ややかさが混じった目。


 イースト区の公立校とは違う、無菌室のような圧迫感が空気そのものに含まれている。

 担任のゼルナー教諭が、ナノを教壇の横に立たせて紹介した。


「教育委員会からの特別推薦で転入してきた、ナノ・クロイツェルさんです。イースト区の出身です。皆さん、仲良くしてあげてください」


 『イースト区』という単語が落ちた瞬間、教室の空気が微かに、しかし決定的に変わるのをナノは肌で感じ取った。


「イースト区?」

「……ふっ」

「……っ」


 何人かが隣の席の生徒と目を合わせ、小さく口角を上げている。

 明確な敵意ではない。もっと質の悪い、無関心に近い「分類」だ。


 彼らにとってイースト区は「工場と労働者の底辺街」でしかない。

 そこから来た汚れた手をした少女は、最初から自分たちとは違う生き物なのだ。


 席についても、ナノに話しかけてくる生徒は一人もいなかった。


 一時限目は義体工学概論。

 担当のカーター教諭は四十代半ばの大柄な男で、ネオ・テック社の元義体設計技師だという。

 教壇に立つ姿には、教育者というより現役エンジニアの硬質な空気が漂っていた。


「転入生。クロイツェルだったな」


 授業開始から十分。

 ホログラムボードに義体の関節構造を投影していたカーターが、突然ナノを指名した。


「肩関節の六軸駆動システムで、第三軸のトルクリミッターが作動する閾値は何ニュートンメートルか」


 教室が静まり返る。

 ナノは一瞬言葉に詰まった。トルクリミッターの概念も調整方法も、体で覚えている。

 だが、正確な数値を座学として問われると、独学の限界が露呈する。


「あ……あの、型番によって異なりますが、一般的な民生用義体なら、18から24ニュートンメートルの範囲かと」

「『かと』?」


 カーターの口元がわずかに歪んだ。


「正解は、現行ネオ・テック社NT-4000シリーズで21.5。アルカディア社AMX-700で19.8。軍用グレードXT-9では42だ。『型番によって異なる』で済ませるのは、裏通りのモグリの答え方だ。ここでは通用しない」

「……すみません」

「謝罪はいらない。正確な数値を頭に入れてこい。座れ」


 怒声ではない。理路整然とした、技術者としての正論。だからこそナノの胸を深く抉った。


 周囲の生徒たちはノートに目を落としたまま微動だにしない。

 誰も助け舟を出さないし、嘲笑すらない。その「完全なる無視」が、何よりも恐ろしかった。


 ナノは二時限目の実技でも打ちのめされた。


 課題は義手の第二指関節のオーバーホール。

 ナノにとっては目を瞑ってでもできる作業のはずだった。だが……。


(この工具、なに? ボタンが多すぎる……!)


 しかし、支給された工具が全て最新型のデジタル式で、手に馴染んだ祖父のアナログ道具とは勝手が違いすぎる。

 マイクロトルクレンチのデジタルゲージの設定に手間取り、わずかに作業が遅れた。


「クロイツェル。全員の中で最も遅いぞ」


 カーターが背後から冷たく言い放った。ナノは肩をびくりと震わせる。


「す、すみませ……」

「この程度の基礎作業にその時間をかけているようでは話にならない。推薦枠だからといって甘えは許さん。プロの世界は結果と速度が全てだ」


 ナノは唇を噛んで頷いた。指先がかすかに震えている。


「……すみません」


 完成した課題を提出したとき、カーターはパーツの仕上がりを一瞥し、無言で机に戻した。

 合格とも不合格とも言わず、ただ「次」とだけ呼んだ。


 昼休み。

 ナノは食堂の隅の席に一人で座っていた。


 配給ペーストとは比べ物にならない豪華なランチプレートが目の前にあるが、味がしなかった。

 パンを半分こにする相手もいない。


 遠くのテーブルで、クラスメイトたちが優雅に談笑している。

 その輪に近づくチケットを、ナノは持っていなかった。


 放課後。


 ナノは誰もいなくなった実習室に残り、昼間遅れをとった関節のオーバーホールをやり直していた。

 学校支給の最新工具を端に退け、自分のバッグから祖父の古いアナログ式トルクレンチを取り出す。


 傷だらけで手に馴染んだ道具を握ると、指の震えはピタリと止まった。


 けれど、止まらないものもあった。


「…………っ」


 パーツを握りしめたまま、ナノの視界がぐにゃりと歪んだ。

 涙が一粒、冷たい作業台の上に落ちて、小さな染みを作った。


 そのとき、実習室のドアが静かに開いた。


「遅くまで残っているねぇ」

「あ……」


 エドワード・フィンチだった。

 高級スーツの襟元を少し緩め、手には紙コップを二つ持っている。

 ナノは慌てて目元を汚れた袖で拭った。


「す……すみません、勝手に残って……すぐ出ます」

「いやいや、追い出しに来たんじゃないよ」


 エドワードはナノの向かいに腰を下ろし、紙コップの一つを差し出した。

 温かいココアの甘い匂いが、冷え切った空気を溶かしていく。


「カーター教諭は厳しかっただろう。あの人は元一流エンジニアだからね、生徒にもプロの基準を求めてしまう」

「……あたしが、未熟なだけです」

「未熟?」


 エドワードは眼鏡の奥の目を細めた。


「見せてもらっていいかな。君が今、組み直したパーツを」


 ナノは戸惑いながらも手元の義手パーツを差し出した。


 エドワードはそれを受け取り、様々な角度から眺めた。

 関節を動かし、可動域の滑らかさを確かめ、グリスの塗布量をチェックする。


「……これは」


 エドワードが顔を上げた。その表情には、明確な感嘆の色があった。


「素晴らしい仕上がりじゃないか。グリスの配分が完璧で、ケーブルのテンションにコンマ一ミリの狂いもない。これを、その古いアナログ工具だけで仕上げたのか?」

「え……でも、カーター先生には遅いって怒られました」

「速さは後からいくらでもついてくる。でもね、この精度は訓練だけでは得られない。君の『手』が覚えている感覚だ。おじいさんから受け継いだ、本物の技術だよ」


 ナノは息を呑んだ。こみ上げてくる嗚咽を、必死に喉の奥に押し込む。


「焦る必要はないよ、ナノさん。環境が変わったばかりなんだ。最新の道具に慣れるのに時間がかかるのは当然のことだ」


 エドワードに促され、ナノは両手で紙コップを包み込み、ココアを一口飲んだ。


 甘くて、とろけるように温かかった。

 配給品の合成甘味料ではない、本物のカカオの味がした。


「私はね、教育委員長としてではなく、一人の技術好きとしてこのアカデミーに顔を出しているんだ。君の様子もたまに見に来るよ。……困ったことがあったら、何でも私に言いなさい」

「は……はいっ」


 そう言ってエドワードは立ち上がった。ドアに向かいかけて、ふと振り返る。


「ああ、それから。君をここに推薦したのは私だ。だから君が辛い思いをしているなら、それは私の責任でもある。一人で抱え込まなくていいからね」


 ドアが閉まり、実習室にナノだけが残された。


 両手の中のココアはまだ温かい。

 涙の跡が乾ききった頬に、その温もりが毒のように甘く染み渡っていった。



 一週間が経った。

 状況は変わらないどころか、悪化の一途を辿っていた。


 カーター教諭の指導は相変わらず苛烈だった。


「クロイツェル、また同じミスか。隣のレイモンドの手元を見ろ。あれが正規の基礎訓練を受けた人間の精度だ」


 暴言はない。

 ただ淡々とした比較と指摘の積み重ねが、ナノの自尊心を薄紙を剥がすように削り取っていく。


「……すみません……」


 クラスメイトとの透明な壁も分厚くなる一方だった。

 グループ作業では常に余り物として最後まで残され、仕方なく組み込まれた班でも、誰もナノに重要な作業を任せようとはしない。


 明確なイジメではない。ただ「いないもの」として扱われているだけだ。


 その徹底した孤立の中で、唯一の例外がエドワードだった。


「あ……エドワード先生!」


 彼は週に二、三回のペースで、放課後の実習室に現れた。


 必ずナノが一人でいる時間帯を見計らい、温かい飲み物や、セントラル区の高級ベーカリーの焼き菓子を持って。


「やれやれ。今日のカーター教諭の言い方は少し行きすぎだったね。彼は優秀だが、教育者としては未熟だ」


 ある日、午前中の実技で「基礎が致命的に欠落している」と酷評されたナノに、エドワードは優しく語りかけた。


「でも、先生の言う通りです……あたし、我流だから。学校のみんなは小さい頃から英才教育を受けてて、あたしなんか……」

「そんなことはない」


 エドワードの声には、絶対的な肯定があった。


「彼らは確かに綺麗な知識を持っている。だがね、ナノさん。彼らの多くは、実際に『生身の人間に繋がれた義体』の油と血の匂いを知らない。教科書の上の綺麗な機械しか知らないんだ。

 ……君は違う。機械がどう軋み、どう悲鳴を上げるかを、その手で知っている」


 彼はナノの汚れた手を、愛おしそうに両手で包み込んだ。


「この手を、恥じる必要はない。君のやり方は間違っていない。私が保証するよぉ」

「……っ」


 ナノの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。もう堪えることができなかった。


 冷たい無菌室のような学校での孤独が、エドワードの温かい手のひらの中で溶けて決壊していく。


「先生……っ! あたし、ここにいていいのか分からなくなって……っ」

「いていいんだよ。君はここにいるべき特別な子だ。……私が見つけたんだから」


 その言葉は、どれほど十三歳の少女の胸を深く貫いただろう。


 冷徹な教師、無関心な同級生、別世界にいる親友、不器用な兄。

 この広くて冷たいセントラル区で、ナノの絶対的な味方はエドワードだけだった。


 ——少なくとも、ナノにはそう見え始めていた。

普通に書いてる作者側にもそこそこダメージが入ってます

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ