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【依頼人】天才少女の葛藤

 端末の前で立ち尽くすナノの耳に、玄関のロックが解除される無機質な電子音が届いた。


「ただいまー。ナノ、飯まだだよな? 今日は配給のほかにソーセージをくすねてきた……って、なんだ暗いな。電気くらいつけろよ」

「あ、兄ちゃん……」


 タクト。ナノの兄で、今年十八になる。


 イースト区の部品製造工場で日勤シフトをこなし、今帰ってきたところだ。

 作業着の襟元には機械油の染みがつき、短く刈り込んだ額には汗が光っている。


 タクトが壁のパネルを叩くと、部屋に暖色の安っぽい照明が灯った。

 そこでようやく、端末の前に立ったまま微動だにしない妹の姿が目に入る。


「どうした? 固まって」

「……別に」


 ナノはスクリーンから目を離さずに答えた。

 タクトは靴を脱ぎ捨てると、首を伸ばして画面を覗き込もうとした。


「おい、何見てんだ。借金取りの督促か?」

「見ないでよ、勝手に」

「お前がヤバい顔してるから気になるんだろ」


 タクトは妹の肩越しに画面を見た。

 黄金の紋章と、たった一行の件名。その下に続くテキストを、兄妹は並んで読んだ。


『――イースト区第七中等教育校在籍のナノ・クロイツェルに対し、セントラル区の技術特化教育機関「セントラル・テクニカル・アカデミー」への転入を特別推薦する。

 理由は、機械工学および義体メンテナンスにおける卓越した実技能力の認定。学費は全額免除。居住区の移転も支援する。まずは体験授業への参加を――』


 長い沈黙の後、最初に口を開いたのはタクトだった。


「……マジかよ、すげえじゃん」

「うるさい。まだ何も決めてない」


 ナノはぶっきらぼうに言い、端末の電源を弾くように落とした。

 タクトは何か言いかけて口をつぐみ、キッチンスペースへ移動した。

 沈黙の中、配給パックを破く音と、ケトルが湯を沸かす音だけが響く。


 ナノは着替えもせずにベッドの縁に座り、自分の指先を見つめていた。

 爪の間のグリス。火傷の痕。ハンダの飛沫。

 セントラル区のエリート校に通う生徒の手は、絶対にこんなふうではないはずだ。


「飯だぞ」


 タクトが小さなテーブルに皿を並べた。

 灰色の栄養ペーストに、約束のソーセージが一本ずつ。それから粉末スープ。


 二人暮らしの質素な夕食だが、ソーセージがあるだけで食卓の景色は少しだけマシになる。


 向かい合って食べ始めて数分。ナノがぽつりと口を開いた。


「……絶対、怪しい」

「何が」

「教育委員会から直接スカウトなんて聞いたことない。イースト区の底辺校の生徒が、セントラルのアカデミーに呼ばれるなんて普通ありえないでしょ」

「まあ、普通じゃねえな」


 タクトはソーセージを無造作に噛みちぎりながら頷いた。


「でもよ、お前の腕は普通じゃないだろ。じいちゃん譲りの」

「ただのモグリの修理屋だよ。資格もないのに」

「資格がないのにお前を頼る連中がこの区画に山ほどいる。ヤブ医者や企業のボッタクリ店より、お前の腕が確かだからだ。……そういうのを、上層部の誰かが見てたってことじゃねえの」

「……でも」


 ナノはスプーンでスープの表面を意味もなくかき回した。


「ルカと、離れたくない」


 その一言は、思ったよりずっと子供っぽい声で出た。

 タクトは妹を見た。

 普段は大人びた口をきく十三歳の少女が、皿を見つめたまま唇を引き結んでいる。


「……今すぐ行けっつってんじゃねえよ。体験授業だろ、まず見てくりゃいい。気に入らなきゃ、企業警備員にしょっぴかれる前に逃げてくればいいだけだ」

「そんなの分かってる」

「分かってるなら、やることは決まってるな? お前が見て、お前が決めろ」


 タクトは残りのスープを一気に飲み干し、立ち上がった。

 皿を流しに運びながら、背中越しに何でもないような声で付け足す。


「じいちゃんが生きてたら、たぶん泣いて喜んでるぞ」


 ナノは返事をしなかった。


 けれど翌朝、端末を開いて体験授業の参加申請を送信したのは、その一言のせいだ。



 体験授業の日は三日後だった。


 イースト区の駅からセントラル区行きのリニアに乗ること四十分。

 ナノは車窓に張りつくようにして、流れていく景色を見つめていた。


(すっ、ご……)


 重苦しい灰色の空気が消え、やがて窓の外はガラスと光の森に変わる。

 超高層ビル群が人工太陽の光を反射して白銀に輝き、空中には極彩色のホログラム広告が滑らかに泳いでいる。


 歩く人々の服も、空気の匂いも、何もかもが違う。

 同じドームの中にあるとは到底思えなかった。


 セントラル・テクニカル・アカデミーは、区画の南端にそびえる真新しい流線形の建造物だった。

 エントランスの生体認証ゲートに近づくと、ナノの端末の訪問者コードを読み取り、音もなくゲートが開く。


 足を踏み入れた瞬間、ナノの目は釘付けになった。


「うっそ……ネオ・テックの軍用グレード義腕……こっちは神経直接接続型の最新ユニット……!?」


 正面のガラスケースに展示されているのは、イースト区のジャンク屋をひっくり返しても出てこないような最高級パーツの数々。


 奥の工作室では学生たちがホログラム設計図を展開し、イースト区の三世代は先を行く最新型の旋盤やフライス盤を使いこなしている。


「すごい……」


 ため息のような声が漏れた。自分でも気づかないほど自然に。


「気に入ってもらえたようだねぇ」

「!?」


 背後から、ひどく柔らかい声がした。


 振り返ると、痩せた中年の男が立っていた。

 上質な仕立てのスーツに銀縁の眼鏡。目の下には不健康な深い隈があり、頬はこけている。

 ニュース映像で見るような傲慢な上層部の人間とは違う、どこか神経質で異質な空気を纏っていた。


「あ、えと……」

「驚かせてすまない。エドワード・フィンチだ。堅苦しいのは苦手でね、エドワードと呼んでくれて構わないよ」


 男の胸元に光る身分証のホログラムを見て、ナノは息を呑んだ。


 そこにははっきりと『ネオ・アルカディア教育委員会委員長』と表示されている。

 なぜ教育のトップが、たかが体験授業の案内にわざわざ……?


「ナノ・クロイツェルさんだね。君の学校の技術教諭から上がってきたレポートを読ませてもらったよ」

「レポートって……でもあたし、授業じゃ大したことしてません」

「謙虚なのはいいことだ。でもね」


 エドワードは腰をかがめ、ナノと同じ目線になった。

 そして、ナノの傷だらけの手を、宝石でも眺めるような執拗な目で見つめた。


「この手は、特別だよ」


 その声の熱に、ナノは背筋が少し粟立つのを感じた。


「これだけの仕事をしてきた手だ。資格も正規の訓練もない十三歳が、近隣住民の義体メンテナンスを一人で支えている。……それはね、才能という言葉ではとても足りない。奇跡だ」

「……おじいちゃんに、見よう見まねで教わっただけです」

「素晴らしい技術者だったんだろうね。君はその宝をちゃんと受け継いでいる。だからこそ、イースト区の埃にまみれさせるべきじゃない」


 エドワードはナノの肩に、自然に手を置いた。


「今日は見学だけでいい。最新の設備に触れて、自分の目で確かめてごらん。決めるのは、君自身だ」

「……は、はい」


 ――その後、ナノは夢のような時間を過ごした。


 義体工学の専用シミュレーター。高精度な触覚センサーの実物。

 エドワードの許可を得て最新型の義手パーツの調整をさせてもらったとき、指先に伝わる圧倒的なレスポンスの良さに、ナノは寒気すら覚えた。


 全てが完璧だった。綺麗すぎた。

 イースト区との違いを、痛いほどに痛感してしまった。



(……すごかったな。あれがセントラル区……)


 帰りのリニアの中で、ナノは膝の上に置いた自分の手をじっと見つめていた。


 車窓の景色がセントラル区の光から、イースト区の薄汚れた灰色に戻っていくのを、ほとんど見ていなかった。


「……ただいま」


 家に着くと、タクトが狭い部屋の隅で義体パーツの分解図をタブレットで睨んでいた。

 最近、工場での歩合を上げるために独学で勉強を始めたらしい。不器用な兄らしいやり方だ。


「おかえり! ……どうだった」


 タクトは顔を上げたが、すぐにまたタブレットに目を落とした。

 興味がないふりをしているが、耳だけはしっかりこちらを向いている。


「……やばかった!」

「だろうな」

「設備が桁違い。工具も素材も、見たことないレベルのものばっかりで! コンマ一ミリの誤差もないキャリブレーションが、数秒で終わるの!」


 ナノは靴を脱ぐのも忘れ、堰を切ったようにまくしたてた。

 こんなに饒舌な妹を見るのは久しぶりだと、タクトは内心で少し驚いた。


「でも……」


 そこで、ナノの声がぴたりと止まった。

 ベッドの縁に座り、いつも持ち歩いている重い工具バッグを抱えるようにして膝に乗せる。


「ルカにまだ言えてない。それに……ゴメスさんや、ヤンさんや、ドミニクさん。あたしがいなくなったら、あの人たちどうするの?」

「メンテなら正規の店があるよ」

「ボッタクリ店に行けるお金がないから、あたしが診てるんでしょ。兄ちゃんだって分かってるくせに」


 タクトは黙った。事実だ。

 ナノが安い報酬、あるいはタダ同然で義体を直しているから、あの老人たちはギリギリの生活を維持できている。


 しばらくの沈黙のあと、タクトはタブレットを放り出して立ち上がった。

 冷蔵ユニットから配給の茶パックを二つ取り出し、適当に湯を注いで一つをナノの前に叩き置く。

 それから、妹の向かいの床にあぐらをかいて座った。


「お前さ」

「何」

「じいちゃんが死ぬ前に言ってたこと、覚えてるか」

「……覚えてる」


 ナノの手が、工具バッグの革の持ち手をぎゅっと握りしめた。


 二年前。被曝後遺症で死の床にあった祖父は、痩せ細った手でナノの手を握り、こう言った。


 『お前の手は宝だ。じいちゃんよりずっと器用で、優しい手だ。イースト区のガラクタの山だけで終わるな。もっと広い場所で、その手を使え』と。


「じいちゃんは、お前にこの底辺で埋もれてほしくなかったんだ。俺もそう思う」


 タクトはぬるい茶をすすりながら、妹を見た。

 気の利いた励ましもできない、不器用な目。ただ、まっすぐにナノを見据えている。


「ゴメスさんたちのことは俺が何とかする。裏通りのヤブ医者じゃない、少しはマシな修理屋を探して交渉してやるよ。これでも工場じゃ顔が広いんだ」

「……兄ちゃんにできるの?」

「舐めんな。でも、ルカちゃんには自分で言えよな。あの子なら、絶対にお前の背中を押すと思うけど」


 ナノは小さく笑った。交渉なんて、たぶん兄には無理だろう。

 でも、その強がりがじわりと胸に沁みた。


「……あたし、行ってみようかな」


 呟くような声だった。

 顔を上げると、壁のホログラムフレームの中で祖父が笑っている。

 右下のノイズのちらつきは、まだ直していないままだ。


「おう。行ってこい!」


 タクトはそれだけ言って立ち上がり、空になったカップを流しに持っていった。

 背を向けたまま、彼が小さくガッツポーズをしたのを、ナノは背中の筋肉の動きで察した。


「……喜んでるの、見え見えなんだけど」

「見るな」


 イースト区の夜は暗く、重たい。

 遠くで工場のサイレンが鳴り、夜勤のシフトが始まっていた。

 六角形の小さな部屋の中で、ナノは手元の端末を開いた。


 画面には、セントラル・テクニカル・アカデミーへの転入申請書。

 入力欄の上で指が止まる。一度だけ深呼吸をして、自分の傷だらけの指先を見た。


 そして、送信ボタンを押し込んだ。

キモい男の登場です

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