【依頼人】天才少女の朝
イースト区の朝は、サイレンで始まる。
午前5時30分。ドームの人工太陽が起動する前の薄暗闇の中、工場群が一斉に低い唸り声を上げて目を覚ます。
配管の軋み。排気ダクトが吐き出す鈍い重低音。空調フィルターが回り始める微かな振動。
それらが重なり合って、この区画特有の「朝の和音」を奏でる。
セントラル区の住人なら顔をしかめるであろうその騒音は、ここに住む者たちにとっては目覚まし代わりの生活音だった。
ハニカム集合住宅の一室。
六角形の壁に囲まれたわずか三十平方メートルの空間で、少女は目を覚ました。
「ん……。あー……おはよ」
ナノ。十三歳。
癖のある黒髪を後ろで無造作に一つに結び、寝起きの目をこすりながらベッドから降りる。
パジャマ代わりの大きなシャツの裾は膝まで届いていた。
祖父のお下がりだ。何度も洗って色褪せているが、生地だけは分厚くて頼もしい。
「じいちゃん、おはよ。今日も稼いでくるね」
声をかけた先には、壁に掛けられた小さなホログラムフレームがある。
白髪の老人が、工具を手に不器用に笑っている写真。
フレームの端が少し欠けていて、ホログラムの右下が時折ノイズ混じりにちらつく。
直そうと思えばすぐに直せるが、ナノはもう半年ほどそのままにしていた。
直してしまったら、何かが完全に終わってしまう気がして。
キッチンと呼ぶには狭すぎる調理スペースで、配給の栄養ペーストを温める。
イースト区の標準配給品。
灰色がかったペーストは見た目も味も工業用接着剤のようだが、一日に必要な栄養素はクリアしている。
ナノはそこに、隣のおばさんからもらった乾燥スパイスを少しだけ振りかけた。
ほんの気休めだが、それだけで朝の気分が違う。
食事を済ませ、歯を磨き、制服に着替える。
イースト区の公立校の制服は、灰色のジャケットに同色のスカート。
洗い替えは一着しかないから、絶対に汚せない。
鏡の前で身だしなみを整えながら、ナノはふと自分の手を見下ろした。
十三歳の少女にしては、ずいぶん傷だらけの手だ。
指先には古い火傷の痕があり、爪の間には落としきれないグリスの黒ずみが残っている。
精密ドライバーが滑った跡も、ハンダの飛沫の痕もある。
だけど、全部勲章みたいなものだとナノは思っている。
玄関脇の棚から、使い込まれた工具バッグを肩にかけた。
祖父から受け継いだ重い革製バッグ。
中には精密ドライバーのセット、マイクロトルクレンチ、導通テスター、接点グリス、そして非正規の予備チップが数枚。
学校の教科書よりずっと重いそれを、ナノは毎日持ち歩いている。
ドアを開けると、廊下の向こうからだみ声が飛んできた。
「おう、ナノ! 朝っぱらからツイてるぜ。ちょっとこいつを診てくんねえか」
向かいの部屋から顔を出したのは、五十代の大柄な男だった。
左腕が肘から先、使い古された銀色の義体に置き換わっている。
工場で旋盤に巻き込まれた事故の後遺症で、この区画では珍しくもない光景だ。
「おはよ、ゴメスさん。また無茶なシフト入れた? 駆動音が乱れてるよ」
「わかるかい。三番目と四番目の指が、どうにも突っかかっちまってよ」
ナノは工具バッグを下ろし、ゴメスの左手を取った。
義体の第三指と第四指を軽く曲げ伸ばしし、関節部の動きを確かめる。
かすかな引っかかりと、微細な異音。ナノの耳はそれを正確に拾い上げた。
「関節グリスの揮発。それに第四指の屈筋ケーブルに緩み。……なんか重いものでも素手で持ち上げた?」
「へへっ、バレたか」
ナノは手慣れた動作で義体の指のメンテナンスハッチを開いた。
爪の付け根にある極小のネジを専用ドライバーで外し、関節部を露出させる。
劣化したグリスを素早く拭き取って新しいものを塗布し、ケーブルのテンションをマイクロトルクレンチで精密に締め直していく。
「モグリのメンテがバレたら、ゴメスさんも企業警備員にしょっぴかれるよ」
「お偉いさんの正規クリニックなんざ高くて行けねえよ。それに、裏通りのヤブ医者は勝手に安物のパーツをすり替えやがる。ナノの腕が一番信用できるんだ」
作業中のナノは、それ以上口を開かなかった。
指先に全神経を集中させ、機械の声を聴く。
祖父はいつもそう言っていた。
『機械は喋るんだ、ナノ。耳を澄ませば、どこが痛いか教えてくれる』と。
「よし、これでどうですか!」
ハッチを閉じ、ゴメスに促す。
大きな男が義体の指を一本ずつ曲げ伸ばしし、力強く握って開いた。
ぎこちなさは完全に消え、滑らかな動作と駆動音が戻っている。
「おお……! すげえ、まるで新品じゃねえか!」
「大げさだよ。グリスとケーブル調整だけだから」
ナノは小さく笑った。ゴメスが嬉しそうにしているのを見ると、自分まで嬉しくなる。
「いつも助かるぜ。はいこれ、今日の分だ」
ゴメスが差し出したのは、小さなタッパーに入った手作りのパンだった。
工場の食堂で焼いた、不格好だが香ばしいパン。
配給品のペーストなんかよりずっと温かくて、ずっと美味しい。
「お金は本当にいいの?」
「金なんていらねえよ。つーか、正規メンテに出したら一万クレジットは飛ぶんだ。パンで済むならこっちが申し訳ねえくらいだぜ」
ナノは礼を言い、パンを大事にバッグにしまった。
昼休みに食べよう。そう思うだけで、朝の足取りが少し軽くなる。
集合住宅を出ると、イースト区の朝の空気が肺を満たした。
人工太陽がようやく「朝」の光度に達し、薄いオレンジ色の光が工場群のシルエットを浮かび上がらせている。
煙突から立ち上る蒸気が重苦しい雲を作り、その隙間から光が差し込む様は、汚いと言えば汚いし、綺麗だと言えば綺麗だった。
ナノは後者だと思うことにしている。
通学路は、巨大な製造プラントの縁を沿うように伸びている。
三交代勤務の労働者たちが疲れた足取りで行き交う人波の中を、ナノは工具バッグを揺らしながら歩く。
「ナノーっ! ちょっと、置いてかないでよー!」
背後から走ってくる足音と、場違いなほど明るい声。
振り返ると、赤毛をツインテールにした同い年の少女がぶんぶんと手を振りながら駆けてくるのが見えた。
「ルカ、おはよう」
「おっはよー! ねえ聞いて、昨日の夜さ、ウエスト区の新しいバーチャルアイドルの配信見た!? ミラって子なんだけど、もうめっちゃくちゃ可愛くってさ!」
息を切らしながら隣に並んだルカは、ナノの唯一と言っていい親友だった。
明るくて社交的で、最新の流行やアクティブ・ファッションにやたらと詳しい。
ナノとは正反対のタイプだが、小学校の頃からなぜか馬が合った。
「見てない。昨日は隣の棟のアマラさんの、膝関節のオーバーホールしてたから」
「またぁ? あんた、ホント機械のことになると時間忘れるんだから。……あーあ、また指に火傷つくって」
ルカは呆れたように笑いながら、ナノの傷だらけの手をひょいっと持ち上げた。
「ハンダごてがちょっと滑っただけだよ」
「モグリの修理屋で小遣い稼ぎするのはいいけどさー、女の子なんだからもっと自分を大事にしなよ」
お小言を言いながらも、ルカはポケットから小さなチューブを取り出し、ナノの指にジェルを塗ってくれた。
ルカはいつもこれを持ち歩いている。ナノのために。
「ありがとう、ルカ」
「いいけどさー。あ、それよりパン持ってるじゃん! ゴメスさんの?」
「うん。昼に半分こしよう」
「やった! ゴメスさんのパン美味しいんだよねー!」
二人は並んで歩き始めた。
ルカがアイドルの話をまくしたて、ナノは時折相づちを打つ。
話の内容はよく分からないが、ルカが楽しそうにしているのを見るのが好きだった。
学校はイースト区の東端にある公立中等教育校だった。
灰色のコンクリートブロックを積み上げただけの無骨な建物で、セントラル区のエリートが通うNEO Academyとは比べるべくもない。
教室のホログラムボードは型落ちで時々フリーズするし、空調は夏場に壊れるのが恒例行事だ。
それでも、ナノにとっては大切な場所だった。
教室に入り自分の席に向かうと、通りすがりに意地悪な声が飛んできた。
「おいおい、またグリス臭いぞ。イースト区の底辺這いずって小銭稼ぎか?」
窓際の席の男子生徒が、わざとらしく鼻をつまんでニヤニヤしている。周囲の何人かがくすくすと笑った。
「え、ほんと?」
ナノは自分の袖口を嗅いだ。
確かに、かすかに機械油の匂いがする。朝の作業で移ったらしい。
「あんたね……その口、縫い付けてやろうか?」
ルカがナノの前に立ち塞がり、鋭い声で男子をにらみつけた。
ルカは怒ると目が完全に据わるタイプで、男子はたいていビビって黙る。今回も例外ではなかった。
「ルカ、いいよ。気にならないから」
ナノは友人の袖を軽く引いた。怒るほどのことでもない。
油の匂いが分からない奴に、機械の面白さは分からない。
それに――この匂いは、じいちゃんの匂いだ。嫌だと思ったことは一度もない。
席に着き、重いバッグを机の横にかける。
工具の重みで机が少し傾いだ。教科書を入れるスペースがいつも足りなくて、結局最低限しか持ち歩いていない。
成績は中の下。別に勉強が嫌いなわけではないが、教科書を読む暇があるなら、義体の技術マニュアルを読んでいたい。ただそれだけだ。
ホログラムボードが起動音を立て、一時限目の授業が始まる。
数学。ナノは頬杖をつき、窓の外に目をやった。
工場の煙突が重たい蒸気を吐き出し、人工の雲を作っている……。
■
放課後、ナノはまっすぐ家には帰らなかった。
いつものことだ。
集合住宅に戻る道すがら、ナノを待っている「お得意様」はいくらでもいる。
「ヤンさん、これ……セントラル区の廃棄場から拾ってきたジャンクパーツでしょ」
三階の薄暗い廊下。
パイプ椅子に腰掛ける初老の男の右肩を開け、ナノはため息をついた。
「へへっ、ばれたか。でもよぉ、正規の関節ユニットなんて高くて買えねえんだよ」
「規格が合ってないから、駆動系がずっと悲鳴を上げてたんだよ。無理やり数値を書き換えてキャリブレーションしたけど、次は腕ごとショートしても知らないからね?」
「きついこと言うねえ。でも、ナノちゃんに診てもらうと全然動きが違うよ。ほれ、お近づきの印だ」
ヤンがウインクと共に差し出したのは、配給品の果物ゼリーだった。
人工甘味料の塊だが、イースト区の子供にとってはごちそうだ。
五階に上がると、今度は義足を引きずったドミニクが待ち構えていた。
「ドミニクさん、義足のアクチュエーター、砂埃と鉄粉がびっしりでしたよ。こまめに拭かないとダメって言ったのに」
「悪い悪い。第五プラントの清掃に駆り出されてな。企業病院の連中に診せたら、ユニットごと全交換で五万クレジットだって吹っかけられたんだ」
「……パーツの隙間にエアを吹いて、潤滑油を差し直しただけです。交換なんて必要ない」
「企業どもは俺たちから搾り取ることしか考えてねえからな。やっぱ、お嬢ちゃんは魔法使いだぜ。これ、じいさんの好きだった古い技術雑誌のデータチップ。拾いもんで悪いが、とっときな」
どちらも三十分ほどの簡単な作業だった。
ゼリーとデータチップ。
どちらもお金よりずっと嬉しい対価をポケットにねじ込み、ナノは自分の部屋のドアを開けた。
部屋に戻ったのは、ドームの人工太陽が夕暮れのオレンジ色に切り替わる頃だった。
「じいちゃん、ただいま。今日は大豊作だよ」
ホログラムフレームに向かって靴を脱ぎ、重い工具バッグを床に下ろす。
ふと、暗い室内に青白い光がひとつ浮かんでいることに気がついた。
壁に取り付けられた旧式の通信端末。メッセージの受信を告げるインジケーターが、静かに明滅を繰り返している。
「……こんな時間に、誰?」
イースト区の通信網は頻繁にダウンするし、そもそもナノに直接メッセージを送ってくる人間などルカくらいしかいない。
端末の前に立ち、スクリーンに触れる。
表示された差出人のアイコンを見て、ナノは息を呑んだ。
「え……これって……?」
金色の歯車と書物を組み合わせた、豪奢で冷たい意匠。
『ネオ・アルカディア教育委員会』の紋章だ。
「……嘘でしょ」
学校からの連絡は、いつも無機質なテキストデータで届く。
セントラル区に本部を置く教育委員会から、底辺区画の一生徒に直接メッセージが届くなど、普通はありえない。
ディスプレイに表示された件名は、たった一行だけだった。
『特別強化学習プログラムへの推薦のご案内』
「私の成績なんて、ずっと中の下なのに……」
ナノは、画面の前で指を止めた。
特別プログラム。推薦。甘美な響きを持つその言葉が、ひどく不釣り合いで、薄気味悪く感じられた。
遠くで工場のサイレンが低く唸り、夜勤のシフトが始まったことを告げていた。
青白い光が、立ち尽くす少女の顔を無機質に照らし続けていた……。
ヤバイッすごいかわいい 酷い目に合わせたくないッ




