【依頼人】愛の行方
ゴールドスタインはグラスをテーブルに置き、両手を組んだ。
「君たちは、実に面白いことをしてくれた」
声に感情の起伏はなかった。
褒めているのか、呆れているのかすら判断がつかない、ひどく凪いだ口調だった。
「エリュシオンで一年半、客が破滅していくのを黙って見下ろしてきた女が、外の男と出会って急に正義感に目覚めた。とっくに首輪に慣れていたはずの人間が、突然噛み付いてきた。……その理由は、私にも理解できる」
凌華は体を強張らせたまま答えなかった。
凱も血の滲む口元を拭いながら、男を睨みつけている。
「人が変わる時というのは、たいてい隣に誰かがいるからだ。一人では怯えて動けない者も、誰かの温度に触れれば勘違いの勇気を持つ。……それが人間という生き物の、数少ない美しいところだと私は思っているよ」
ゴールドスタインは二人を眺めた。
笑顔は変わらない。目も変わらない。
「だから今夜は、君たちのその『美しい絆』に敬意を表した形で、裏切りへの制裁を執行したいと思っている」
凌華の背筋を、ぞくりと氷のような悪寒が這い上がった。
(制、裁……)
「凌華」
ゴールドスタインは、初めて凌華を呼んだ。
「君が、彼の手を潰しなさい」
部屋が完全に静まり返った。
空調の微細なノイズだけが、耳鳴りのように響く。
「――は?」
「彼は工場の整備士だ。手は商売道具だね。その商売道具を、君のその手で再起不能にしてやりなさい。命までは取らない。それが私の、君たちへの敬意の示し方だ」
凌華は、息の仕方を忘れたように口を半開きにした。
言葉の意味が、脳の処理を拒絶していた。
「……でき、ません」
震える唇から絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「そうか。それは残念だ」
ゴールドスタインはひどくあっさりと頷く。
それから、凌華の背後に立つ屈強な男の一人に目を向けた。
「では、彼女の方に『別の部屋』で相応の教育を施す必要が出てくるね。彼女の借金が倍になっても構わないような、特別な仕事を覚えてもらうための教育だ」
男が無言で一歩前に出た。巨大な影が凌華を覆う。
凌華は椅子の上でガタガタと震え、体が石のように固まるのを感じた。
「待てッ!」
凱の声だった。
叫び声に近かった。凌華が横を見ると、凱は血走った目でゴールドスタインを睨みつけていた。
額には脂汗が浮かび、呼吸が荒くなっている。
「俺の手を潰すってのは……何を、すれば終わりになる」
「凱さん、ダメ……!」
「両手の指の関節をすべて、物理的に砕くということになるね」
ゴールドスタインは、今日のディナーのメニューを答えるように言った。
「……それをすれば、制裁は終わりになるんだな?」
「それが今夜の取引だ」
凱はゴールドスタインから視線を外し、凌華を見た。
その顔は恐怖と覚悟が入り混じり、ひどく歪んでいた。
「……凌華さん」
「嫌です……!」
凌華は首を激しく横に振った。目から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていた。
「嫌。あなたの手が……そんなこと、私にしろって言わないでください……!」
「俺は……っ、整備士だけど、別に工場じゃなくたって生きていける……!」
凱は必死に笑おうとして、顔を歪めた。
「指が動かなくなっても、イースト区ならゴミ拾いでも何でも仕事はある……! あなたが今夜、こいつらに何をされるか分からないよりはずっとマシだ!」
「違わない! どちらも最悪です!」
「最悪の中で、マシな方を選ぶんだよ!」
凱は怒鳴り、それからすがるような目で凌華を見た。
「俺は今夜、俺の意志であなたを手伝った。俺が選んだことだ! だから……俺の分は俺が払う。あなたが背負うことじゃない……!」
「……っ、そんなの、違う……!」
「お願いだ……!」
凱の声が裏返った。
「あなたは一年半頑張ってきた……! 俺がヘマをしたせいでこんなことになった! だから……俺に責任を取らせてくれ!」
凌華は泣き崩れそうになるのを必死で堪え、凱を見た。
凱の目は充血し、恐怖で小刻みに震えているのに、それでも凌華から目を逸らそうとはしなかった。
(この人は、バカだ)
自分が損をすると分かっていても、誰かのために傷つくことを選んでしまう。
だから、凌華はこの人に惹かれたのだ。
どうしようもなく、暗闇の中でこの人の不器用な優しさに救われてしまったのだ。
そしてその同じ優しさが今、凌華に『自分の手で彼を壊せ』と要求していた。
「……できません、できない……!」
「凌華……頼む。やってくれ」
「嫌だぁっ……!」
凌華は両手で顔を覆い、子供のように泣き叫んだ。
沈黙。
ゴールドスタインはまるで上質なオペラでも鑑賞するように、薄い笑みを浮かべて二人を見下ろしている。
それはこの夜初めての、明確な彼の笑みだった。
凱が、震える両手をテーブルの上に置いた。
親指から小指まで、十本の指がまっすぐに並んでいる。油の染みと無数の小さな傷跡が、彼がどれだけ真面目に生きてきたかを証明していた。
凌華は顔を上げ、その手を見た。
視界が涙で滲んでうまく見えなかった。
「……何を、使えばいいんですか……」
凌華は幽鬼のような声で、ゴールドスタインに聞いた。
ゴールドスタインが顎で合図すると、背後の男がテーブルの脇から、重厚なチタン製のハンマーを取り出し、凌華の前に置いた。
「フーッ……フーッ……!」
凌華は震える手で、その冷たい柄を握った。
重かった。金属の重さだけではない。彼の人生を奪うという、絶望的な重さだ。
凱は両手をテーブルに置いたまま、目をきつく閉じ、奥歯を噛み締めていた。
顔は恐怖で青ざめ、全身がガタガタと震えている。
「凱さん……ごめんなさい……っ、ごめんなさい……!」
凌華は嗚咽しながら、ハンマーを両手で高く振り上げた。
——振り下ろした。
メキッ、と。
湿った、そして硬いものが砕けるひどく生々しい音が部屋に響き渡った。
「ァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!」
凱が絶叫した。
椅子から跳ね上がるように身をよじり、潰れた左手の指を押さえて床に転げ回る。
肉が裂け、白い骨の欠片が血と共にテーブルに散らばっていた。
「ああ、ぁっ……! 凱さんっ……!」
凌華はハンマーを取り落とし、自分の髪を掻き毟りながら悲鳴を上げた。
手が、全身が、ガチガチと痙攣するように震えて止まらない。
胃液が込み上げ、その場で嘔吐しそうになった。
「これ、でいい……っ、続け ろ……!」
「でも! でも……っ!!」
ゴールドスタインは何も言わなかった。
床でうめき声を上げる凱と、パニックを起こして泣き叫ぶ凌華を、ただ満足げに見下ろしているだけだった。
■
しばらくの地獄のような時間の後、ゴールドスタインが口を開いた。
「……よくやった」
ペットを褒めるような穏やかな声だった。
辺りには血の匂いが充満していた。
二人分の荒い息遣いだけが、ただ続いている。お互いの喉が枯れ、喋ることすらもできない。
凱の手は、完膚なきまでに粉砕されていた。
すぐに処置をしなければ、ショック症状で命も危ないだろう。
「では次に凌華。君の処遇についての話をしよう」
「……!?」
凌華は、床にうずくまる凱から弾かれたように顔を上げた。
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、男を睨む。
「……は……? 約束が、違う……! 彼の手を潰せば、制裁は終わりって——」
「私は『彼への制裁は終わる』と言ったんだよ」
ゴールドスタインは、心底可笑しそうに首を傾げた。
「君への制裁は全く別の話だ。うちのディーラーが契約違反を犯したんだ。彼のような部外者とは違い、君には会社のルールに則った『特別な場所』で、きっちりと代償を払ってもらわねばならない」
凱が血まみれの手を抱えながら、這いずるように顔を上げた。
「き、さま……! 騙しやがって……! 凌華に触るなァッ!!」
凱は立ち上がろうとした。
だが、背後の男たちが無情にも彼の両肩を蹴り落とし、床に顔面を押し付けた。
「凌華……! 逃げろ、凌華ァッ!!」
凱が血の混じった泡を吹きながら、狂ったように叫ぶ。
凌華は、床に縛り付けられた凱の顔を見た。
一秒だけ、見た。
自分を守るために両手を潰され、それでも自分を逃がそうと叫ぶ、血まみれの彼の顔を。
凌華の中で、何かが音を立てて完全に「壊れた」。
「……分かり、ました」
凌華の口から出たのは、自分でも聞いたことのない声だった。
涙も枯れ果て、感情のすべてが抜け落ちた、ひどく乾いた冷たい声。
「賢明だ。連れて行け」
ゴールドスタインの合図で、二人の男が凌華の両腕を掴み、乱暴に引きずり起こした。
凌華は抵抗しなかった。人形のように、足を引きずりながら扉へと向かう。
「凌華……! 凌華アアアアアッ!!!!」
背後で、凱の張り裂けるような絶叫が響き続けている。
扉が開く直前、凌華は一度だけ振り返った。
男たちの革靴に顔を踏みつけられ、潰れた手を伸ばしながら泣き叫ぶ凱。
凌華はその姿を網膜に焼き付け、暗い廊下へと引きずり出されていった。
分厚い扉が重い音を立てて、完全に閉ざされた。




