【依頼人】不器用な青年
翌晩も彼は来た。
今夜は凌華のテーブルではなく、隣のバカラ台に座った。
凌華は流れるような手つきでシャッフルをこなしながら、視野の端で彼の動きを追っていた。
(破滅の客、ね)
昨晩と同じ、飾り気のないジャケット。同じ姿勢でホログラムの画面を見つめている。
賭け方も慎重なままで、結果もほとんど変わらなかった。
一時間半ほどでわずかに負け越し、席を立つ。
エレベーターへ向かう途中、フロアマネージャーがすかさず歩み寄り、慇懃な笑顔で何かを囁いた。
彼は数秒だけ言葉を交わし、軽く会釈して去っていった。
それから三日目の夜。彼は迷うことなく凌華のテーブルに座った。
テーブルには他に二人の客がいた。ゲームが始まり、一巡して、また一巡する。
彼はベットのたびに顎に手を当てて少し考え、決して慌てない。
隣の客が大勝ちして下品な歓声を上げたときも、そちらを冷ややかに一瞥し、すぐに手元のチップへ目を戻した。
羨むわけでも、熱にあてられるわけでもない。
ただ静かに、自分のゲームをこなしている。
閉店間際。二人の客が席を立ち、テーブルには彼一人が残された。
最後の一巡が終わり、凌華が散らばったカードを回収していると、不意に彼が口を開いた。
「……お姉さん、ずっと笑ってますね」
凌華は手を止めなかった。
「仕事ですので」
「でも、負けた客にまで笑顔を向けるのって、気まずくないですか?」
凌華はカードを揃えながら、少しだけ彼の顔を見た。
絡んでいるわけでも、怒っているわけでもない。純粋な疑問として、ただ真っ直ぐにこちらを見ていた。
「そういうものだと思って働いておりますので」
「そういうもの、ですか」
彼はチップを一枚、手の甲で器用に転がした。カチャ、と軽い音が鳴る。
「お姉さんのその笑顔、すげえよく出来てるけど……なんか見てて息苦しいんですよね」
「申し訳ありません」
「あぁいや、文句が言いたいわけじゃなくてね」
彼は残ったチップを精算台に差し出した。今夜もわずかな負けだ。
立ち上がりかけた彼は、ふと思い出したように凌華の顔を覗き込んだ。
「もっと自然に笑ったほうが綺麗なのにな、と思ってね」
(……そう簡単にやれたら苦労しないわ)
凌華は答えずに視線を外した。
彼は特にこだわる様子もなく、エレベーターに向かった。
■
四日目。
彼は開店から三十分後に現れた。
今夜のフロアは混み合っており、凌華のテーブルにも最初から四人の客がいた。
彼は一番端の席に座り、ゲームに加わった。
今夜は昨日より少しだけベットの額が大きい。
それ自体は些細な変化だ。
だがディーラーとして何百人もの転落を見てきた凌華には分かる。
こういう小さな綻びが「始まり」なのだ。
『このくらいなら取り返せる』という感覚の麻痺が、少しずつ彼を蝕み始めている。
「ハッハッハ! 今夜はツイてるぜ!!」
ゲームの途中、向かいに座っていた四十代の男が続けて三回勝ち、鼻歌を歌い始めた。
男は気が大きくなり、次の手で無謀な額を突っ込み——大半を失った。
「クソッ、んだよ……最悪だ! なんだ今のカードは! イカサマじゃないのか!?」
男がテーブルを叩いて怒鳴る。
凌華は表情を一切変えず、『穏やかな微笑』を保った。こういう輩には慣れている。
次のシャッフルに入ろうとしたとき、「彼」が男に向かって静かに言った。
「三連勝のあとで倍賭けしたら、そりゃマズイでしょ」
水を打ったような静けさが落ちた。男は顔を真っ赤にして彼を睨みつける。
「あぁ!? てめえに関係ない話だろ!」
「ああ、すみません。ただ、増えた額だけ突っ込んでたらお金が……」
「やかましい! お利口さんがよ!!」
謝りながらも、彼の声には一切の怯えがなかった。
むしろ小馬鹿にしたような響きすらある。男は忌々しそうに残りのチップを掻き集め、悪態をつきながら席を立った。
残された三人の間に、気まずい沈黙が流れる。凌華は淡々とシャッフルを再開した。
「……殴られても、おかしくなかったですよ」
凌華は、口から滑り出た言葉に自分で少し驚いた。
マニュアルにはない、仮面の外側から出た言葉だった。
彼は片眉を少し上げ、カードを受け取りながら言った。
「無茶な賭け方だから、やめといたほうがいいと思ったんですが……黙ってた方が賢いですかね」
「ええ。余計なトラブルを生みませんので」
凌華が正直に答えると、彼は小さく吹き出した。
今夜初めて見た、等身大の青年の笑顔だった。
作り物ではない、ただ少し可笑しかったときの顔。
凌華の胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
■
五日目の夜。
彼は閉店二時間前にやって来た。
今夜のフロアは閑散としていて、凌華のテーブルには最初から彼一人が座った。
他の客が来るまでの時間、二人だけのゲームになった。
数回のディールの後、彼が伏せたカードを見つめたまま口を開いた。
「あなた、ここに来て何年目ですか」
「一年半です」
「長いですね。好きで働いてるんですか、こんな場所で」
凌華はカードを配る手を止めず、少しだけ間を置いた。
「……個人的な話は、お客様とはしないようにしております」
「ええ? 堅いなぁ」
彼はつまらなそうに手元のチップを弄った。
「俺、ここが好きじゃないんですよね。なんか、胸焼けがするくらい明るくてさ。でも……足が向いてしまう」
凌華は彼を見た。
「おかしいですよね」
彼は自嘲気味に笑った。笑い飛ばそうとしているわけではない。
ひどく疲れた、迷子のような顔だった。
「工場の仕事が終わって、油臭い飯食って、帰ろうとすると足がこっちに向くんです。負けて金が減っても、なんか、このテーブルに座ってる間だけは『余計なこと』を考えなくて済む気がして」
「余計なこと、ですか」
思わず聞き返していた。
彼は少し考えてから、天井の煌びやかなシャンデリアを見上げた。
「この国から一生出られないこととか。五年後も十年後も、同じ機械の前で油まみれになってることとか。……そういうことです。カードを見てる間は、そういう現実が少しだけ遠のくから」
凌華はカードを集めながら、その言葉の重さを測っていた。
気持ちは痛いほど分かる。
だが、ここはその痛みに寄り添う場所ではない。痛みを食い物にする場所だ。
「でも、お金は減ります」
「分かってますよ」
「減り続けたら、その『余計なこと』はもっと増えますよ」
彼はピタリと動きを止め、凌華を見た。少し目を細める。
「それ、俺に言います? ここのディーラーが」
「……失礼いたしました。余計なことでした。忘れてください」
凌華は慌てて目を伏せ、次のシャッフルに入った。
彼はしばらく黙っていたが、やがてチップを一枚、テーブルの中央に押し出した。
「まあ、今夜はもう少しだけ遊んでいきますよ」
その「もう少しだけ」という言葉が、凌華にはひどく重く、危ういものに聞こえた。
■
六日目。
彼は開店と同時に来た。今夜は最初から最後まで凌華のテーブルを動かなかった。
他の客が来ては去り、また来ては去り、彼だけがずっとそこに座り続けている。
賭けるラインが、日に日に上がっていた。今夜はそれが一段と高い。
勝ちと負けを荒く繰り返し、日付が変わる頃には、彼はこれまでの五日分を超える額を失っていた。
それでも、彼は席を立たない。
フロアの端で、仕立てのいいスーツを着たフロアマネージャーがこちらを見つめている。
凌華の視野の端に、その冷たい視線が映った。
タイミングを計っている。今夜こそ声をかけるつもりだ。あの『追加クレジット』の甘い罠を。
最初の申し込みは少額で、敷居が低く設計されている。
だが一度ラインを越えれば、複利が返済を追い越す速度で動き出し、一生奴隷として繋がれる。
母と同じだ。
凌華は、喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。
カードを集めながら、彼の手元を見る。
チップは残りわずかだ。表情は変わらないが、目の下には濃い疲労の色が浮かび、もう引き返せない人間の顔になりかけている。
凌華は、シャッフルの手を——止めた。
ほんの一瞬だけ。そして、顔を上げた。
一年半かけて作り上げた『穏やかな微笑』の仮面を、そのときだけ脱ぎ捨てた。
「……いま、フロアマネージャーがこちらに向かってきます」
彼がハッと顔を上げた。
凌華は声を落とし、フロアの電子音楽に紛れるギリギリの音量で早口に告げた。
「追加クレジットの話をされるはずです。絶対に断ってください。利率の説明は巧みに省かれますが、一度受けたら最後、工場で一生働いても返せない速度で借金が膨らみます。そういうシステムなんです」
彼は目を丸くして、凌華の顔を見つめた。
それから、困ったように少しだけ眉を下げた。
「……それ、あんたが言っていい話ですか」
「よくありません。クビどころか、何をされるか」
凌華は答えた。手が震えそうになるのを、テーブルの下で強く握りしめて堪える。
「でも、あなたはたぶん、ここに来るべき人間じゃない。現実を忘れたいなら、ここじゃない方法を探してください。どうか」
「あんたに、俺の何が分かるんですか」
責めているわけではなかった。
ただ痛いところを突かれた子供のように、真っ直ぐに凌華の目を見ていた。
「……何も分かりません。ただ、六日間、毎日ここであなたを見ていましたから」
コツ、コツ、と革靴の足音が近づいてくる。
彼はそちらに視線をやり、それから凌華の胸元にあるホログラムのネームプレートを見た。
「『リンファ』……凌華、さん」
「えっ」
「俺の話を聞いてくれた人の名前くらい、ちゃんと呼ぼうと思って」
フロアマネージャーが、テーブルの横に滑り込むように立った。
「お客様。本日は長くお楽しみいただいているようで何よりです。実は、優良なお客様にだけご案内している特別なクレジット枠がございまして——」
「あっ、あぁ、大丈夫です!」
彼は立ち上がりながら、マネージャーの言葉を冷たく遮った。
「今夜はここまでにします」
それだけ言って、残ったわずかなチップを精算台に放り投げた。
凌華はその間に深く息を吸い、再び『穏やかな微笑』の仮面を顔に貼り付ける。
マネージャーが舌打ちを隠すように引き下がっていく。
エレベーターに向かう途中、彼が振り返った。
「凌華さん!」
不意に名前を呼ばれ、凌華は少し目を見開いた。
「俺、凱っていいます。心配かけてすみません! ……また来ます!」
エレベーターのドアが開き、彼の姿を呑み込んで閉まった。
凌華は散らばったカードを集めながら、誰にも気づかれない程度に、ほんの少しだけ安堵の息を吐いた。
(……来るなって言ってるのに、まったく)
『また来る』と彼は言った。それを聞いて呆れている自分と、ホッとしている自分がいる。
その感情が何を意味するのか、凌華にはまだ分からない。
やっぱ終末感がね みんなの足を引っ張ってるのはありますよね




