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【404】手遅れのヒーローたち

 ウエスト区の場末にある居酒屋「レッド・ランタン」は、労働者たちの熱気と安酒の匂いでむせ返っていた。


 合成ビールの泡、得体の知れない肉を焼く煙、下品な笑い声。

 ここはネオ・アルカディアの最下層を支える歯車たちが、一時の忘却を求めて集う場所だ。


 その喧騒の中で、一番奥のボックス席だけが異質な空気を放っていた。


 純白のオーダーメイドスーツを着こなした美青年、イスラ・テスラ。

 この薄汚れた店には似つかわしくない高貴な見た目だ。


「乾杯!!」


 イスラは上機嫌に叫び、琥珀色の液体が入ったグラスを高々と掲げた。


 店員が震える手で持ってきた、この店で一番高い(それでもセントラル区では水より安い)年代物のウイスキーだ。


「いやはや、素晴らしい仕事だった! さすがだねぇ、君たち!」


 イスラはグラスを傾け、芳醇な香りを鼻腔いっぱいに吸い込んでから、一口含んだ。

 満足げな吐息を漏らし、向かいに座るカーバンクルとショウを交互に見つめる。


 カーバンクルは無表情で、コップに入った水道水をちびちびと飲んでいる。

 ショウの前には合成ビールのジョッキがあるが、泡が消えるのをただ眺めていた。


「エリザベス・ヴァンダービルトの排除、そしてあの皮肉に満ちた制裁! 完璧だ。君たちの手腕には、毎回背筋がゾクゾクさせられるよ」


 ショウは肩をすくめ、エメラルドグリーンの義眼を明滅させた。

 機械化された左腕でジョッキを持ち上げ、不味そうに一口煽る。


「……まぁ、今回は楽だったぜ。あんたのサポートがあったからな」


 イスラは笑みを深め、指を組んで前のめりになった。


「銀行員全員を避難させるのは少々骨が折れたがね。緊急メンテナンス、セキュリティ訓練、さらには空調設備のガス漏れ騒ぎ……ありとあらゆる口実を使って、ビルを空っぽにした」


 カーバンクルは無言で水を飲んでいた。イスラは構わずに続ける。


「おかげで、誰にも邪魔されずに『舞台』を整えられただろう? セキュリティ部門の責任者は明日あたり首が飛ぶだろうが」

「ああ。あんたの持つ権力は俺たちにはない武器だ。……正直、助かったよ」


 ショウが認めるように言った。


「だが、君たちにもまた私にない『暴力』という牙がある」


 イスラはウイスキーグラスを再び掲げ、照明にかざした。


「今回証明されたよ。私の社会的地位と資金、そして君たちの実行力。この二つが組み合わされば、どんな堅牢な城も内側から崩せる。完璧だ!」

「へッ、調子いいこと言いやがって」


 ショウはニヤリと笑った。

 普段の皮肉めいたものではなく、相棒を誇るような笑みだった。


「ま、悪くねえな。カーバンクルが一人で潜入して、暴れて、逃げるってのも映画みたいでカッコいいが……バックアップがあるってのは、精神衛生上いいもんだ」


 イスラは身を乗り出し、熱を込めて語りかけた。


「この調子でいこう。隠者たちを一人ずつ、確実に、社会的に抹殺していく。ヴィクター、エリザベス……残り十人。一年以内に全員を地獄へ送れるぞ」


 カタン。

 カーバンクルが水の入ったコップをテーブルに置いた。

 その小さな音がイスラの熱弁を断ち切る。


「……その前に、質問がある」


 カーバンクルの赤い瞳が、イスラを射抜いていた。

 静かだが、冷たさを帯びた声。

 イスラは笑顔のまま小首をかしげた。


「なんだい? 報酬の増額かな?」

「あなたは、隠者たちの悪行を知っていたんだよね?」


 居酒屋の喧騒がふっと遠のいた気がした。

 イスラの笑みが能面のように張り付く。ショウは義眼の光量を落とし、二人を交互に見やった。


「……もちろん知っていたよ。だからこそ、君たちに依頼したんだ」

「いつから?」


 カーバンクルの声に、刃のような鋭さが宿る。

 イスラはグラスを回し、氷の音を響かせてから、ゆっくりとウイスキーを飲み干した。


「ヴィクターの人間狩りは三年前から。エリザベスの融資詐欺と地下室は、二年前から把握していた」

「……なのに、今まで動かなかった」


 カーバンクルは事実確認をするように呟いた。


「ヴィクターが殺した子供は三十人以上。エリザベスが破滅させた経営者は数え切れない。地下室で廃人にされた人間もいる」

「ああ、あの地下の連中な」


 ショウが低い声で口を挟んだ。


「救出後の検査データを見たが……脳の海馬が萎縮しちまってた。言語野も損傷してる。リハビリしても、まともな社会生活に戻れる確率は低いそうだ」


 カーバンクルは頷き、視線をイスラから外さない。


「彼らは一生、恐怖の中で生きる。……その惨状をあなたは知っていた。知っていて、見過ごしてきた」


 イスラは黙って空のグラスを見つめていた。

 周囲では酔っ払いたちが笑い、歌い、叫んでいる。

 だが、このテーブルだけは深海のような静寂に包まれていた。


「……動かなかったんじゃない」


 イスラはゆっくりと顔を上げた。

 碧眼から、先ほどまでの陽気な光が消えていた。そこにあるのは、底知れぬ合理性の深淵だ。


「動けなかったんだよ、カーバンクル」

「言い訳?」

「事実だ」


 イスラは淡々と言った。


「一つは証拠の問題。彼らは用心深い。私が下手に動いて、尻尾を掴めずに逃げられれば二度とチャンスは来ない。……もう一つは、タイミングだ」


 彼は新しいボトルに手を伸ばし、自らグラスに注いだ。


「隠者たちは地下茎で繋がっている。一人を中途半端に突けば残りの十一人が警戒し、結束を強める。そうなれば私の計画――『全員の抹殺』は不可能になる」

「だから、犠牲が増えるのを待ったの?」

「……最適な駒が揃うのを待っていたんだ」


 イスラは真っ直ぐにカーバンクルを見つめた。


「自分でやるにはリスクが大きすぎるし、実力も足りなかった。君という最強の実行部隊を見つけたのは、市長が死んでからだ。……私は耐えていたんだよ」


 カーバンクルは瞬きもせず、イスラの言葉を咀嚼した。

 感情のない瞳が、イスラの心の奥底をスキャンしようとしているようだ。


「……フフッ」


 沈黙に耐えかねたように、イスラが自嘲気味に笑った。


「君は私を責めたいのかな? もっと早く動いていれば、狩られた子供や、夢を奪われた経営者を救えたかもしれないと?」


 カーバンクルは答えない。ただ、その沈黙が肯定だった。


「その通りだ。否定はしない。私は『大義』のために『小義』を切り捨てた」

「それは、隠者たちと同じじゃないの?」


 カーバンクルの言葉が、氷柱のように突き刺さった。

 ショウが思わず身を乗り出す。


「おいおい、カーバンクル。そいつは言い過ぎだろ」

「いいや。同じことだよ」


 カーバンクルは譲らなかった。


「目的が違うだけで、やっていることは同じ。自分の理想のために、他人の犠牲を無視している」


 イスラの顔から表情が消える。

 長い重苦しい沈黙が流れた。

 やがて彼はゆっくりと口角を吊り上げ、仮面のような笑顔を作った。


「なら君はどうなんだい、カーバンクル」

「……?」

「復讐代行、404号室。君たちだって同じだろう? 被害者が生まれ、依頼が来るまで動かない。……いや、動けない」


 イスラは身を乗り出し、カーバンクルの顔を覗き込んだ。


「悲劇が起きてから、死人が出てから、ようやく重い腰を上げて『正義』を執行する。……それは、見殺しにしているのと何が違うんだい?」

「……そうだね」


 カーバンクルは否定しなかった。

 コップの水面を見つめ、静かに認める。


「僕らは、正義の味方じゃない」


 イスラは満足げに頷き、背もたれに体を預けた。


「なら、我々は同類だ。手遅れになってからしか動けない、無価値なヒーローだよ」


 イスラは再びグラスを掲げた。


「だからこそ、協力しようじゃないか。心配するな、これからヴェクターやエリザベスによる被害者はもう出ない。間違いなく世界は良くなったんだから!」


 カーバンクルはしばらくグラスを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、コップを持ち上げた。



 暗号化された虚数空間に、十のホログラムが浮かび上がっていた。


 彼らは決して物理的に一堂に会することはない。

 豪華なオフィスのペントハウス、私邸の地下書斎、装甲車の中。

 異なる場所から、最高強度のセキュリティ回線を通じてのみ接続される「影」たち。


 顔を合わせず、痕跡を残さず、ただ意思決定のみを行い、ネオ・アルカディアという巨大な盤面を動かす支配者たちだ。


 中央に浮かぶホログラムが、重々しく口を開いた。


 アーサー・ハミルトン。

 不動産王にして、この「円卓」の実質的な議長を務める初老の男だ。

 白髪を完璧に撫でつけ、その眼光は鋭利な刃物のようだった。


「――二人目が、落ちた」


 その言葉に、空間の温度が数度下がった気がした。

 九つの影が揺らぐ。

 ある者は息を呑み、ある者は舌打ちし、ある者は無言で顎を撫でた。


「ヴィクター・ローレンスが惨殺され、エリザベス・ヴァンダービルトが行方不明。……どちらも、『404号室』の仕事だ」


 別のホログラムが、空中にデータを展開した。

 粗い監視カメラの映像。


 水色の髪に、血のように赤い瞳を持つ少女カーバンクル。

 無表情なその顔が、十人の視界いっぱいに拡大される。


「偶然ではないな」


 痩せこけた男、エネルギー企業の重役デヴィッド・サザーランドが呻くように言った。


「短期間に二人だ。これは散発的なテロじゃない。明確な意志を持った『粛清』だ。……我々が標的になっている」


 バンッ!

 太った男のホログラムが、苛立ち紛れに机を叩いた。食品流通を牛耳るロバート・クレイグだ。


「だったらどうする! 指をくわえて待つのか!? 次は俺かもしれないんだぞ!」

「落ち着け、ロバート」


 アーサーが静かに、だが絶対的な威圧感で制した。


「狼狽えるな。我々は都市の支配者だ。野良犬に噛まれた程度で取り乱すな」


 アーサーは氷のような瞳で全員を見渡した。


「問題は、誰がこの狂犬の鎖を握っているかだ。……心当たりはあるか?」

「イスラ・テスラ……」


 冷ややかな女の声が響いた。

 純白のドレスに身を包んだ妖艶な美女、製薬会社CEOのマーガレット・ウィンスローだ。

 彼女は長い爪で自身の唇をなぞりながら、憎々しげに吐き捨てた。


「あの若造、最近妙な動きをしているわ。地下鉄の再開発、ドーム都市間の接続……いちいち私たちの利権に噛み付いてくる。動機は十分よ」

「証拠は?」

「ないわ。……でも、女の勘よ」


 アーサーは短く頷き、再びカーバンクルの映像を見つめた。


「イスラが黒幕かどうかも重要だが、急務なのはこの『凶器』を折ることだ。……誰か、適任者はいるか?」


 沈黙が落ちた。

 ヴィクターの私設軍も、エリザベスの最新鋭アンドロイド部隊も敗れたのだ。生半可な戦力では返り討ちに遭うだけだ。


 その沈黙を破り、一つのホログラムが一歩前に出た。


 レックス・ドレイク。


 五十代半ば。岩のように隆起した筋肉質の体に、古傷だらけの顔。


 民間軍事会社「シャドウ・セキュリティ」のCEOにして、隠者たちの中で唯一、自らの手を血で汚すことを生業としてきた男。

 「戦争」のプロフェッショナルだ。


「……俺がやる」


 その声は、地底から響くような重低音だった。

 他のホログラムが一斉に彼を見る。レックスは葉巻を噛み砕き、凶暴な笑みを浮かべた。


「ヴィクターの兵隊ごっこも、エリザベスの人形遊びも、所詮は素人の道楽だ。……本物の『戦争』を知らない連中が、いくら数を揃えても意味はねえ」

「勝算は?」


 アーサーが問う。


「ある。……奴の戦い方は分析済みだ。あの小娘は『都市型ゲリラ戦』の天才だ」


 レックスは指をポキポキと鳴らした。


「だから、土俵を変える。……今度はこっち側から仕掛けてやるのさ」


 レックスの目には、獲物を見つけた猛獣の歓喜が宿っていた。


「サウス区のスラムに、最高の処刑場を用意する。……あのクソガキに、本当の地獄ってやつを教えてやるよ」


 アーサーは長い沈黙の後、重々しく頷いた。


「承認する。……レックス、失敗は許されないぞ。我々の威信にかけて」

「失敗ね。もし失敗したら、全員遺書でも書いておくんだな」


 ブツン。

 レックスのホログラムが獰猛に笑い、消えていった。


 続いて、他のホログラムも次々と闇に溶けていく。

 最後に残ったアーサーは、虚空を見つめて呟いた。


「くだらんな。……この都市に、英雄など不要だ」


 通信が完全に遮断され、静寂が戻る。

 ネオ・アルカディアの夜はまだ明けない。

結局ヒーローってそういうとこあるよね、というお話

カーバンクルたちもイスラも善人ではないのです

本当の善人はマジでコバヤカワさんくらいですね…

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