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【依頼人】教主の蜘蛛の糸

 0.3秒。


 それはカーバンクルがアスファルトを蹴ってから、ヴァイパーズの巨漢がロケットランチャーを構え直すまでのタイムラグだ。


 その瞬き一つ分の隙間に、彼女は既に5メートルの距離を詰めていた。


「なっ――」


 巨漢の視界から、白いパーカーの少女が掻き消える。


 次の瞬間、彼の膝裏に爆発的な衝撃が走った。

 強化筋肉が悲鳴を上げ、関節が本来とは逆方向へ圧し折られる。


 バキィッ、という湿った破砕音が響く。


「ぐあああっ!」


 巨体が崩れ落ちるよりも早く、カーバンクルは既に次のターゲットへと跳んでいた。


 ヴァイパーズのリーダーが反射的に銃口を向ける。

 だがトリガーを引くための指は、彼女の掌の中で捻じ曲げられた。


「ぎっ……!」


 銃が床に落ちる乾いた音が響く。

 カーバンクルは眉一つ動かさず、無防備になったリーダーの顎を強烈な膝蹴りで撃ち抜いた。


「ぐぁはぁぁ……っ!!」


 男の体がボールのように宙を舞い、背後のコンクリート壁に激突してずり落ちる。


 残りの構成員たちの顔から血の気が引いた。

 10人以上いた精鋭が、わずか20秒で半壊させられている。


「化け物か、こいつ……!」

「撃て! 弾幕張れ!!」


 アサルトライフルのマズルが火を吹き、銃弾の豪雨がカーバンクルに降り注ぐ。


 しかし彼女は弾道を読み切っているかのように、最小限の体捌きでその全てをすり抜けた。

 壁を蹴り、柱を盾にし、瓦礫の影を縫うように疾走する。


「ぐおっ」

「ぎゃっ」


 白い残像が揺らぐたび、一人、また一人と無力化されていく。


 銃を持った男の手首がへし折られ、義足の動力源を引き抜かれた女が転倒し、ナイフ使いの肘関節が奇怪な方向へ曲げられた。


 断末魔。血飛沫。金属の軋み。


 そして、5分後――


 かつての地下鉄ホームは静寂に包まれていた。

 ブラッド・ヴァイパーズの構成員は全員、床に転がり悶絶している。

 誰一人殺してはいないが、戦場にはもはや立てないだろう。


 カーバンクルは息一つ乱さず、頬についた返り血を手の甲で無造作に拭った。


 その超常的な光景を、アポカリプティック・サウンドの信徒たちは呆然とした顔で見つめていた。


 やがてその沈黙を破るように、ゆっくりとした拍手が響いた。


 教主だ。


 瓦礫の祭壇から降りた彼は、顔面の血を拭うことすらせず、恍惚とした笑みでカーバンクルへ歩み寄る。


「あああ……美しい。美しすぎる。これぞまさに神の御業ァ……!」


 教主はカーバンクルの数歩手前で立ち止まり、芝居がかった仕草で深々と一礼した。


「ようこそ、我らが女神よ。アポカリプティック・サウンドへ」


 カーバンクルは冷めた瞳で、狂気の男を見下ろす。


「……助けに来たわけじゃない」

「分かっておりますとも! しかし、結果として貴女は我らを救済してくださった!」


 教主は顔を上げ、義眼の絞りをギーギーと伸縮させながら熱弁を振るう。


「これは運命! 歴史的必然です! 貴女が我らの元へ降臨することは、預言者ヴァイスの福音にも記されていた!」


 カーバンクルは無言のまま、周囲の信徒たちへ視線を流した。


 全員がその場に跪いている。

 血と泥にまみれた両手を胸の前で組み、縋るような瞳で彼女を見上げていた。


 ガトリング砲の男が、震える声で懺悔する。


「女神様……我らの無力をお許しください。貴女の聖なる御手を煩わせてしまいました……」

「いや、これは試練だったのだ!」


 別の信徒が感極まったように叫んだ。


「女神が我らの信仰を試された! そして我らは、その御姿を拝謁する栄誉に浴したのだ! なんと幸福なことか!」


 狂熱は伝染し、信徒たちが一斉に唱和を始める。


「女神に栄光を!」

「新人類のイヴに祝福を!」


 カーバンクルは露骨に顔をしかめた。


 教主はその機微を見逃さなかった。慌てて両手を広げ、信徒たちを制する。


「静粛に! 女神様がお疲れだ! ただちに休息の場を用意しろ!」


 号令一下、信徒たちが蜘蛛の子を散らすように動き出した。

 瓦礫を片付け、薄汚れたマットを敷き詰め、貴重な備蓄食料を運び込む。


「さぁ! こちらへどうぞ!」

「…………」


 数分後。ホームの一角には、ゴミの山の中では不釣り合いなほど整えられた『玉座』が出現していた。

 カーバンクルは拒絶する間もなく、半ば強制的にそこへ鎮座させられた。


 教主はカーバンクルの対面に胡座をかき、満面の笑みを貼り付けている。


 周囲には数人の幹部信徒が控え、まるで中世の宮廷のような様相を呈している。

 カーバンクルの前には、サウス区では宝石より価値ある濾過水と、軍用レーションのパックが並べられていた。


「さあ、どうぞ召し上がってください。我らの持てる最高の供物です」


 教主が恭しく勧める。

 カーバンクルは水には口をつけたが、レーションには見向きもしなかった。


「……話がある」

「はい! 何なりと!」


 教主は身を乗り出した。義眼が高速で回転し、期待に満ちた光彩を放つ。


 カーバンクルは静かに、しかし絶対零度の声で告げた。


「『ホープ・ハウス』に手を出さないで」


 教主の笑顔が、一瞬だけフリーズした。

 だが、すぐに滑らかな営業スマイルへと戻る。


「ホープ・ハウス……ああ、あの孤児院のことですか」

「あそこは、私が守ると決めた場所だから」


 カーバンクルの赤い義眼が、教主の思考を射抜くように見据える。


「もし手を出したら、次は殺す」


 教主は数秒沈黙した。それから大袈裟に両手を広げ、天井を仰いで哄笑した。


「キャハハハハ! 承知しました! 女神様の御命令とあらば!」


 彼は額が床につくほど深く頭を下げた。

 その動作はあまりに演劇的で、どこかこちらを小馬鹿にしているようでもあった。


「我らアポカリプティック・サウンドは、女神様の御意志に絶対服従いたします! ホープ・ハウスの子供たちには指一本触れません! いやむしろ女神様が愛される場所ならば、我らにとっても聖域に等しい!」


 周囲の信徒たちも、それに呼応して一斉に平伏した。


「御心のままに!」


 カーバンクルはその様子を冷徹に観察していた。


 表面上は完璧な服従。

 しかしその恭順の仮面の下で、ドス黒い何かが蠢いているのを肌で感じていた。


 教主がゆっくりと顔を上げた。

 今度は嘲笑の色を消し、真摯を装った表情を作っている。


「しかし、女神様。一つだけお聞きしてもよろしいでしょうか?」

「……何」

「なぜ、貴女はそのような些事に拘泥されるのですか?」


 教主の義眼レンズが、カーバンクルを値踏みするように収縮する。


「貴女は『神の器』。ヴァイス様が人類の革新のために創造された、究極の存在です。貴女の絶大なる力は、ネズミ一匹を救うためではなく、人類種全てを救済するために行使されるべきだ……」


 カーバンクルは沈黙を保った。教主は構わず続ける。


「このドーム都市は、いずれ崩壊します。資源は枯渇し、人口密度は限界を超え、社会システムは腐敗しきっている。貴女もご存知のはずです。ヴァイスの演算は正しかった。我々は殻を破り外界へ出なければ、座して滅びるのみなのです」


 教主は立ち上がり、瓦礫の山を――その向こうにある天井を指さした。


「貴女こそが、その道を切り開く唯一の鍵。我らは貴女と共に、この閉塞した檻を破壊し、真の生を掴み取りたいのです!」


 信徒たちが熱狂的に唱和する。


「外界へ!」

「真の生を!」

「女神と共に!」


 カーバンクルは静かに立ち上がった。その小さな体躯から、冷たい威圧感が放たれる。


「……私は、誰も導かない」


 彼女は教主の目を真っ向から見返した。


「そして、誰の道具にもならない」


 教主の笑みが僅かに引きつった。しかし、すぐに愛想の良い仮面を貼り直す。


「もちろんですとも。貴女は道具などではありません。我らが崇め奉る、唯一無二の存在です」


 彼は再び深々と頭を下げた。

 その背中からは、決して諦めない粘着質な狂気が滲み出ていた。


(……とりあえず、これ以上こいつらと同じ空気を吸っても得はない)


 カーバンクルは無言で立ち上がり、出口の方角へ踵を返した。


「お、お待ちください女神様!」


 粘りつくような声が背中に貼りつく。

 カーバンクルは足を止めたが、振り返りはしなかった。


 教主が小走りで近寄ってくる気配がする。


「一つ、重大な懸念をお伝えせねばなりません」

「……何」

「先ほどの『ブラッド・ヴァイパーズ』の件です」


 教主の声色が、芝居がかった深刻さを帯びた。


「あの状況です。彼らは間違いなく、貴女を我々の一員だと認識したでしょう」


 カーバンクルはそこで初めて振り返った。赤い義眼が教主を冷たく射抜く。

 教主は大袈裟に両手を広げ、困り果てたようなジェスチャーをして見せた。


「不可抗力とはいえ、貴女は我らを救ってしまった。ヴァイパーズの目には、貴女がアポカリプティック・サウンドの隠し持っていた『最強の切り札』に映ったはずです」

「……それで?」

「ヴァイパーズは必ず報復します。面子を何より重んじる連中です」


 教主の義眼がギーギーと不快な音を立てて回転した。


「彼らは執念深い。今日の屈辱を水に流すほど寛大じゃありません。必ず貴女を狙うでしょう。そして……」


 教主は一拍タメて、低い声で囁いた。


「貴女の『関係者』も、ね」


 カーバンクルの瞳孔が収縮する。

 教主は悲劇の役者のように首を振った。


「彼らはサウス区を裏で支配する巨大組織。その情報網はドブ板の裏まで張り巡らされています。貴女が誰と接触し、どこに出入りしているか……特定するのは時間の問題でしょう」


 彼はねっとりとした視線でカーバンクルを絡め取る。


「例えば……そう、先ほど仰っていた『ホープ・ハウス』とか」


 カーバンクルは表情を変えなかった。

 だがその沈黙こそが弱点だと、教主は確信したようだった。


「我々は貴女を守りたい。そして、貴女が大切に思う聖域も」


 教主は汚れた手で自身の胸を押さえた。


「しかし、我ら単独の戦力ではあまりに心許ない。ヴァイパーズの規模は我々の十倍以上。もし本気で総力戦を仕掛けてきたら……」


 言葉を濁す。だが、その言外に含まれたメッセージは明白だった。


 カーバンクルは数秒間教主の醜悪な笑顔を見つめ、静かに問うた。


「……脅しのつもり?」

「とぉんでもない!」


 教主は心外だとばかりに両手を振った。


「これは忠告です! 心からの警告です! 我々はいつだって貴女の味方ですから!」


 彼は顔の筋肉だけで笑った。その瞳の奥には、冷徹な計算が光っている。


「しかしもちろん、貴女がここに留まってくださるなら我らは全勢力を挙げてお守りいたします。ヴァイパーズが何百人来ようと、信徒全員が肉の盾となりましょう。そして……」


 教主は瓦礫の祭壇の方向を指し示した。


「貴女の大切な場所も、我らが責任を持って守護いたします。ホープ・ハウスの子供たちもね」


 待ってましたとばかりに、周囲の信徒たちが唱和する。


「女神を守護せよ!」

「聖域を守護せよ!」

「ヴァイパーズに死を!」


 カーバンクルは無表情のまま、狂乱の光景を見つめていた。


 教主の提案は、一見すれば慈悲深い申し出に聞こえる。

 だが、その本質はシンプルだ。


 ――カーバンクルを、対ヴァイパーズ用の『兵器』として利用する。


 彼女をギャング抗争の泥沼に引きずり込み、やがてはこの狂ったカルト教団から逃げられないようにする。そういう魂胆だ。


 教主はカーバンクルの沈黙を肯定と受け取ったのか、さらに口角を吊り上げた。


「どうぞ、ゆっくりお考えください。我らの扉はいつでも開かれております」


 彼は恭しく、深々と頭を下げた。


「女神様の賢明なご判断を、心よりお待ちしております」


 カーバンクルは何も言わず、再び出口へと歩き出した。

 だがその足取りは先ほどよりも明らかに重かった。


 教主の言葉が脳内でリフレインする。


 ――ヴァイパーズは必ず報復する。

 ――関係者も標的になる。

 ――ホープ・ハウスも例外ではない。


 カーバンクルは地下鉄駅の長い階段を上りきり、地上へと戻った。


 サウス区の夜はいつもより淀んで暗く見えた。

 彼女の脳内にインストールされた百人以上のアーカイブが、一斉に警告アラートを発している。


 ――これは罠だ。

 ――だが、無視できない致命的な脅迫でもある。


 カーバンクルは立ち止まり、汚れた夜空を見上げた。

 ドームの天井に投影された偽物の星々が、無慈悲に輝いている。


「……ショウにも相談しないと」


 そして、彼女はウエスト区の方角へ向けて歩き出した。


 その背後。地下深くの闇の中では、教主の歪んだ高笑いがいつまでも反響していた。

誰を脅してるかわかってるのかこいつら

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