【依頼人】戻らない妹の命
――その異変は、突如として現れた。
「カッ……ゴホッ……!」
サラの呼吸音が変わった。
ヒュー、ヒュー、という乾いた喘鳴から、ゴボッ、ゴボッ、という溺れるような音へ。
肺機能が限界を迎えつつある証拠だった。
「おねえ……ちゃん……くる、しい……」
サラは汚れた毛布の上で身をよじった。
四歳の体は高熱で燃えるように熱いのに、指先は氷のように冷たく、チアノーゼで紫色に変色している。
痙攣する瞳孔は散大し、焦点は虚空を彷徨っていた。
「サラ……!? どうしたの、しっかりして! 水だよ、飲める?」
リナは震える手で、ひび割れたマグカップを妹の唇に押し当てた。
だが、サラは嚥下すらできなかった。喉の奥で水が詰まり、激しい咳き込みと共に吐き出される。
「ゴボッ! ガハッ、ハッ……!」
「サラ!」
リナは妹の背中を必死にさする。
骨と皮だけの背中。命の灯火が、風前の灯のように揺らいでいるのが触感として伝わってくる。
「寒い……お姉ちゃん、暗いよぉ……」
「暗くないよ、ここにいるよ! トビ、毛布! あるだけ全部持ってきて!」
トビが涙目で部屋の隅からボロ布をかき集めてくる。
それを重ねて掛けても、サラの震えは止まらない。
ガチガチと歯が鳴る音が、静まり返った部屋に不気味に響く。
「……お姉ちゃん、サラ、死んじゃうの?」
トビの問いに、リナは唇を噛み切るほど強く閉じた。
これはただの風邪じゃない。多臓器不全の前兆だ。
今すぐに高度医療センターのICUにでも入れない限り、助からない。
――金がいる。
――IDがいる。
――親の承認がいる。
リナは弾かれたように立ち上がった。
「トビ、サラの手を握ってて。絶対に離さないで」
「お姉ちゃん、どこへ……」
「パパとママを起こす。……どんな手を使っても」
リナの瞳に、悲壮な決意の光が宿る。
それは八歳の少女が抱くべきではない、修羅の覚悟だった。
■
リナは父親のポッドの前に仁王立ちした。
黒い樹脂の塊。その表面で明滅するアクセスランプは、この中にいる怪物が「向こう側」で快楽を貪っていることを示している。
[Neo-Paradise 接続中 - レイド戦闘開始から42分経過]
三日前の恐怖が蘇る。殴られた頬の痛みが幻痛として走る。
だが背後で聞こえるサラの苦悶の声が、リナの恐怖を塗りつぶした。
「お父さん!!」
リナは両手の拳を握りしめ、強化ガラスを全力で殴りつけた。
「起きて! お願い起きて! サラが死んじゃう!!」
ドン! ドン! ドン!
肉が砕けるほどの力で叩き続ける。
数秒後、ポッドの強制外部通話スピーカーがノイズを吐き出した。
『……あぁ!? なんだ、テメェ……』
スピーカー越しの声は、呂律が回っていなかった。
脳内麻薬の過剰分泌による酩酊状態だ。
「お父さん! サラを病院に連れて行って! もう息をしてないの! お願い!」
『うるせえ……今、DPSチェック中だ……気が散る……』
「死ぬの! サラが死ぬって言ってるの!!」
『知るかよ!!』
怒号が響いた。
『テメェ、状況わかってんのか!? 今、ワールドファーストがかかってんだよ! ここで俺が抜けたら、パーティ全員の努力が水の泡だ! 俺の――《蒼き剣聖》の名誉がかかってんだよ!』
「名誉なんてどうでもいい! 娘の命だよ!?」
『俺の居場所はここしかねえんだ! 現実のゴミ溜めなんかに引き戻すな!』
リナは絶句した。
この男にとって、実の娘の命は、データの称号よりも軽いのだ。
「……じゃあ、お金。お金だけでいい。カードのコードを教えて!」
『金ェ? あるわけねえだろ。全部、来月のガチャに突っ込んだ』
「な――」
『お前らに食わせる餌代なんざ、一クレジットもねえんだよ。消えろ』
プツン、と通話が切られる音がした。
リナは膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、隣のポッドへとしがみついた。
「お母さん! ママ! お願い!」
ガラスを爪で引っ掻くように叩く。
「サラが苦しいの! 助けて! ママならわかるでしょ!?」
沈黙。
やがて冷ややかな、まるで汚物を見るような声が響いた。
『……リナ。あなた、本当に親不孝な子ね』
「お母さん……!」
『今、アマンダは神聖な儀式の最中なの。一ミリ秒のズレも許されないのよ。それを……こんな雑音で邪魔をするなんて』
「雑音じゃない! サラの声だよ!」
『うるさいッ!!』
母親のヒステリックな絶叫が鼓膜を裂く。
『あなたたちさえいなければ! あなたたちさえ産まなければ、私はもっと完璧な存在でいられたの! 私のリソースを食い潰す寄生虫どもが!』
『今の私はね、美しいの。誰からも愛されているの。……現実の鏡に映る、皺だらけの女なんかじゃないのよ!』
「そんなの関係ない! お願いだから――」
『死ねばいいわ』
時が止まった。
『ええ、そうよ。死ねばいい。そうすれば、食費も浮くし、私のプレイ時間も増える。……いっそ、全員まとめて死んでちょうだい』
リナの手が止まる。
その時。
プシューーーッ……。
油圧シリンダーが空気を抜く音と共に、二つのポッドが同時に開放された。
サーバーメンテナンスか、あるいは強制ログアウトか。
蓋が跳ね上がり、中から「それ」が這い出してきた。
汚臭。
何ヶ月も洗っていない体臭と、排泄物の臭いが充満する。
ケヴィン・ロス。120キロの肉塊。
アマンダ・ロス。骨と皮の魔女。
二人は充血した目で、焦点の定まらない視線をリナに向けた。
VR酔いと、現実への帰還による禁断症状で、その顔は鬼のように歪んでいる。
「……テメェのせいで。テメェのせいで、コンボが途切れた」
父親が、よろめきながら立ち上がる。その巨体が影となってリナを覆った。
「パパ……」
「俺の伝説を……汚したなァァッ!!」
ドゴォッ!!
丸太のような腕が、リナの顔面を薙ぎ払った。
リナの小さな体が木の葉のように吹き飛び、壁に激突する。
口の中が切れ、鉄の味が広がった。視界が明滅し、耳鳴りが止まらない。
「あ……がは……」
「お姉ちゃん!」
トビが叫んで飛び出してくる。父親の足にしがみつく。
「やめて! お姉ちゃんをぶたないで!」
「うぜえんだよ、クソガキが!」
父親は無造作に足を振り抜いた。
トビの体がボールのように転がり、家具の角に頭を打ち付ける。
「トビッ……!」
リナは這いつくばりながら叫ぶが、今度は母親が目の前に立っていた。
痩せこけた手が、リナの髪を鷲掴みにする。
「痛いっ!」
「よくも……よくも私を『現実』に戻したわね。鏡を見なさいよ! この醜い顔を!」
母親は自分の顔を指差しながら、リナの頬を何度も何度も平手打ちした。
「あんたたちのせいよ! あんたたちが私の美貌を吸い取ったのよ! 死ね! 死んで償いなさい!」
痛みよりも、その言葉の刃が深く突き刺さる。
親からの愛など、最初から存在しなかったのだ。彼らにとって子供は、ただのデバフでしかなかった。
「……もういい。行くぞ、アマンダ」
父親が荒い息を吐きながら言った。
「ログインボーナスを取り逃がす」
「ええ、そうね。こんな汚い場所、一秒だって居たくないわ」
二人は、床に倒れて呻く我が子を一顧だにせず、再びポッドへと潜り込んだ。
プシュー、カシャン。
無機質なロック音が響き、再び「接続中」のランプが灯る。
部屋には、暴行の余韻と、死の静寂だけが残された。
……リナは、軋む体を無理やり動かした。
肋骨にヒビが入っているかもしれない。呼吸をするたびに激痛が走る。
片目は腫れ上がり、視界が半分しかない。
「トビ……大丈夫?」
壁際でうずくまる弟に這い寄る。トビは額から血を流していたが、意識はあった。
「お姉ちゃん……サラは?」
その言葉に、リナは弾かれたように妹の方を見た。
サラは、動いていなかった。
苦しげな呼吸音も、咳き込む音も、もう聞こえない。
「……サラ?」
リナは這いずり、妹のそばに行く。
抱き起こす。
首が、カクンと力なく垂れ下がった。
「サラ、起きて。ねえ、水飲む?」
返事はない。
その体温は急速に失われていた。
まるで壊れたお人形のように、ただそこに「ある」だけだった。
「嘘……だよね」
リナは妹の胸に耳を当てた。
心音は、ない。
「嫌だ……嫌だよ、サラ! 目を開けて!」
体を揺する。頬を叩く。名前を叫ぶ。
けれど、サラの瞳は二度と開かない。
飢えと寒さと病。そして親の無関心が、四歳の命を奪い去ったのだ。
「あ、あああ……あぁぁぁぁぁぁッ!!!」
リナの絶叫が、スラムのアパートに響き渡った。
それは言葉にならない、魂を引き裂くような慟哭だった。
だがその声さえも、分厚い防音樹脂に守られた両親のポッドには届かない。
彼らは今頃魔王を倒し、世界を救った英雄として祝杯を上げているのだろう。
■
――どれくらい時間が経っただろうか。
リナは涙を流し尽くし、乾いた目で虚空を見つめていた。
腕の中のサラは、もう完全に冷たくなっている。
トビが、リナの袖を弱々しく引いた。
「お姉ちゃん……どうしよう」
リナはゆっくりと、サラの亡骸を床に寝かせた。その動作は儀式のように丁寧だった。
立ち上がる。全身の激痛はもう感じない。
彼女の中で何かが音を立てて砕け散り、代わりに冷たくて硬い「何か」が埋め込まれたようだった。
悲しみではない。
絶望ですらない。
それは、純粋な殺意。
リナはリビングの隅にあるポッドを見つめた。
緑色の光が、暗い部屋で規則正しく明滅している。
あの中で生きている肉塊は、もう「両親」ではない。ただの「標的」だ。
「……許さない」
リナの声は8歳の少女のものではなかった。地獄の底から響くような、怨嗟の響き。
「絶対に、許さない」
リナはキッチンへ向かった。
引き出しを開け、錆びたペティナイフを取り出す。
刃渡り10センチほどの、果物すら満足に切れない刃物。
リナはそれを上着の内ポケットに隠した。
次に、部屋の床板を剥がした。
そこにある錆びたクッキー缶。リナが万引きの釣り銭や、廃品回収で稼いだ小銭を貯めていた全財産。
数えてみる。2050クレジット。
パンなら二十個買える。だが、命を買うには足りない。
それでも、リナはそれを全てポケットにねじ込んだ。
「お姉ちゃん?」
トビが震える声で呼ぶ。リナは振り返った。その瞳の冷たさに、トビは息を呑んだ。
「トビ。サラのそばにいてあげて」
「どこに行くの……?」
「……ホテルよ」
「え?」
「《ホテル・モルグ》。404号室」
トビが目を見開く。それはスラムの子供たちの間で囁かれる都市伝説だ。
『絶望した子供がそこに行けば、死神が願いを叶えてくれる』というおとぎ話。
「お姉ちゃん、それって……」
「おとぎ話じゃない。あそこには『始末屋』がいるの」
リナはドアノブに手をかけた。
外は既に夜。人工太陽が落ち、サウス区はネオンと闇に支配されている。
最後に一度だけ、リナは振り返った。
冷たくなった妹と、怯える弟と、そして機械の棺桶の中で夢を見る怪物たち。
「パパ、ママ」
リナは呟いた。それは決別の言葉だった。
「ゲームオーバーだよ」
リナはドアを開け、夜の闇へと飛び出した。
彼女は今「被害者」であることをやめ、「復讐者」としての一歩を踏み出したのだ。
地獄に落とそうぜ




