【依頼人】地獄で這い回る者たち
ジジジ、ジジジ、と不快な電子音。
壁に掛けられたデジタル時計が、接触不良の悲鳴を上げている。
リナは鉛のように重い瞼を開けた。
視界に入ってきたのは煤けた天井と、そこを這う配管の束。
その継ぎ目から黒い油のような液体が滲み出し、一滴、また一滴と床に落ちている。
体を起こすと全身の関節が軋んだ。
ベッド代わりの段ボールは湿気を吸ってぐずぐずになっており、その下のコンクリートの冷気が骨の髄まで染み込んでくる。
「……寒い」
白い息と共に漏れた言葉は、誰に届くわけでもない。
アパートの集中暖房システムは三ヶ月前に停止した。
部屋に残された電力リソースは、すべて部屋の主である両親のVRポッドへと優先的に回されている。
リナは震える手で毛布代わりのボロ布を引き寄せ、隣を見る。
弟のトビが、胎児のように丸まっていた。
着古した合成繊維のTシャツは透けるほど薄く、膝の破れたズボンからは痩せ細った脚が覗いている。
それに、彼は裸足だ。成長期の彼の足に合う靴を買う余裕などなく、二ヶ月前に捨てて以来、彼は靴を履いていない。
その隣で、末妹のサラが小さく痙攣していた。
「……っ、う……」
苦しげな呼吸。唇は紫色に変色している。
リナは慌てて妹の額に手を当てた。
掌に伝わる熱さが、冷え切った室内では火傷しそうに感じるほどだった。
「サラ……!」
高熱だ。スラム特有の化学物質過敏症か、あるいは栄養失調による免疫不全か。
だが、原因が分かったところで意味はない。
医療保険のIDはとうに失効し、闇医者にかかるクレジットもない。
薬箱には空っぽの錠剤シートが転がっているだけだ。
リナは立ち上がり、部屋を見渡した。絶望の風景がそこにあった。
六畳のリビング兼寝室。
床が見えないほど散乱したジャンクフードの袋、空の栄養剤パウチ、潰れた合成酒の缶。
すべてが腐敗臭と機械油の臭いに混ざり合い、鼻腔を刺激する。
キッチンのシンクには、カビの生えた食器がタワーのように積み上げられている。
水道からは赤錆混じりの水しか出ず、給湯器は半年前から沈黙したままだ。
そのゴミ溜めの中で、異様な存在感を放つ二つの棺桶。
VRダイブポッド。
艶消しブラックの塗装は埃を被っているが、側面を走るLEDラインだけが脈動し、緑色の光を放っている。
ポッドの周囲には、点滴用の高濃度グルコース・パックが山積みになっていた。
毎週ドローン便で届くそれは、家賃よりも優先される「必要経費」だ。
リナは左側のポッド――父親、ケヴィンのそれへと近づいた。
強化ガラス越しに覗き込む。
「……お父さん」
ガラスを叩く。コン、コン。反応はない。
「ねえ、お父さん。起きて……!」
リナは声を張り上げた。
「サラが熱を出してるの! 薬を買うお金、ちょうだい!」
返ってくるのは、ポッドの冷却ファンが回る低い駆動音だけ。
リナは拳を握りしめ、強くガラスを叩いた。バン! バン!
「お父さんってば!! 聞こえてないの!? お金!!」
数秒の沈黙の後。
ポッド内部のスピーカーから、ノイズ混じりの不機嫌な声が吐き出された。
『……あ? なんだ……うるせえな……』
「サラが死んじゃうかもしれないの! お願い!」
『チッ……今、レア素材のドロップ周回中なんだよ……気が散るだろ、クソが』
現実世界の娘の命より、仮想世界のドロップ率。
父親の声には、明確な殺意に近い苛立ちが滲んでいた。
『邪魔すんな。次やったらぶっ殺すぞ』
ドゴォッ!
ポッドの内側から、肥大化した足がガラスを蹴りつける音が響いた。
リナはびくりと肩を震わせ、後ずさる。
「……ごめん、なさい」
謝るしかなかった。
彼らを怒らせれば、この部屋にいることさえ許されなくなるかもしれない。
リナは唇を噛み締め、今度は右側のポッドへ視線を向けた。
母親、アマンダ。
彼女もまた、深淵へと沈んでいる。VRゴーグルの下で彼女は今頃、美しい賢者として崇められているのだろう。
「……お母さん」
リナは声をかけようとして、喉の奥で言葉を飲み込んだ。
三日前の記憶がフラッシュバックする。トビの靴をねだった時の、母親のあの目を。
――『あんたたちのせいで、私のゴールデンタイムが減るのよ!』
――『ママはね、ギルドの女神なの。あんたたちみたいな汚いガキの相手をしてる暇はないの!』
――『産まなきゃよかった。あんたたちさえいなければ、私はもっと課金できたのに。私の美しいアバターに傷がつくのよ!』
ヒステリックな叫び声と共に投げつけられた空き缶が、リナの額に当たった痛み。
リナは無意識に額の古傷に触れ、首を横に振った。
無駄だ。この人たちに、期待してはいけない。
彼らにとって私たちは、NPC以下の存在なのだから。
■
冷蔵庫を開ける。
庫内灯は切れている。薄暗い箱の中にあるのは、正体不明の粘液と化した野菜の死骸と、賞味期限が二年前に切れた合成調味料のチューブだけ。
昨夜命がけで盗んできたパンは、すべて空腹の胃袋に消えていた。
「……今日も、行かなきゃ」
リナは虚空に向かって呟く。
「行く」とは、すなわち「狩り」のことだ。
8歳の少女にとって、この街で生きる術は一つしかなかった。
洗面所の鏡に向かう。
映っているのは、小さな骸骨のような少女。頬はこけ、目の下にはどす黒い隈が張り付いている。
絡まった髪は埃っぽく、薄汚れた上着はあちこちが擦り切れていた。
「……汚い」
自分の姿に吐き気を覚えながら、錆びた蛇口をひねる。
茶色い水を手ですくい、顔に叩きつける。
冷たさと鉄の臭いが、少しだけ意識を覚醒させた。
タオルはない。リナは袖口で乱暴に顔を拭い、リビングに戻った。
トビが起きていた。ぼんやりとした目で、虚空を見つめている。
「お姉ちゃん……お腹、空いた」
蚊の鳴くような声。その言葉が、リナの胸をナイフのように抉る。
「うん、分かってる。今から取ってくるから」
「……ごめんね」
「え?」
「僕、何もできないから……いつもお姉ちゃんばっかり」
トビが涙目で俯く。
リナは駆け寄り、弟の痩せた肩を抱いた。
「バカ言わないで。トビは悪くない。悪いのは……」
言葉を飲み込む。
悪いのは誰だ? 両親か? 社会か?
それとも、こんな場所に生まれた自分たちか?
「トビ、サラのこと見ててね。誰が来てもドア開けちゃダメだよ」
「うん……」
リナは玄関に向かい、大きすぎるスニーカーの紐を結んだ。これもゴミ捨て場から拾ったものだ。
「お姉ちゃん……」
背後から、熱に浮かされたサラの掠れ声がした。
「サラ、起きたの?」
「いかないで……怖いよぅ……」
「大丈夫。すぐ戻るよ。美味しいパン、また取ってくるから」
リナは精一杯の笑顔を作った。頬が引きつるのが自分でも分かった。
「待っててね。絶対、戻ってくるから」
それは妹への約束であり、自分自身への誓いでもあった。
リナは重い鉄の扉を開け、冷たい外気の中へと踏み出した。
■
サウス区地下マーケット。
空は見えない。頭上を覆うのは巨大なジャンクションと、無数に交差するパイプライン。
そこから漏れる蒸気とネオンの光が混ざり合い、街全体が極彩色の霧に包まれている。
サウス区の朝は早い。いや、夜が終わらないのだ。
路地裏にはドラッグ中毒者が座り込み、上空を警備ドローンが低い羽音を立てて巡回している。
リナはフードを深く被り、壁際を縫うように歩いた。
目立ってはいけない。
子供だけで歩いていると、臓器売買のブローカーや人身売買組織の「スカウト」に目をつけられる。
目指すは大通りの闇市。
正規の流通ルートから外れた横流し品や、廃棄寸前の合成食品が売られる場所だ。
リナは一軒の露店に狙いを定めた。
ベーカリー。といっても、工場で作られた合成イーストのパンを並べただけの粗末な屋台だ。
店主はサイバネティクス化された義手を持つ大男で、今は他の客――全身にタトゥーを入れたチンピラ――との口論に夢中になっている。
(今だ!)
リナの思考が冷徹になる。
恐怖はある。だが、空腹と責任感がそれを麻痺させていた。
群衆に紛れ、自然な動作で屋台に近づく。
視線は商品を見ず、店主の動きだけを追う。
右手を伸ばす。
狙うのは、端に積まれた賞味期限切れのロールパンの袋。
指先がビニールの冷たい感触を捉え、ポケットに滑り込ませようとした――その瞬間。
「――おい」
ドスの利いた声と共に、リナの手首が万力のような力で掴まれた。
「うっ!」
「またテメェか、このクソネズミが!」
店主が振り返る。その義眼が赤く明滅し、ターゲットロックの警告音を発していた。センサーに見つかっていたのだ。
「は、離して……! ごめんなさい!」
「謝って済むなら警察はいらねえんだよ! 先週もやりやがったな!? 万引きガキの指がどうなるか、教育してやる!」
店主の義手が唸りを上げ、モーター音がリナの鼓膜を震わせる。
本気だ。このままでは指をへし折られる。
「いや! やめて! 弟たちが待ってるの!」
「知るか! 野垂れ死ね!」
リナの体が宙に浮く。周囲の大人たちは誰一人として助けようとしない。ここでは日常茶飯事の光景だ。
絶望がリナの心を塗りつぶしそうになった時――。
「……おい、オッサン」
雑踏を切り裂く、低く、冷たい声が響いた。
「うるせえ客だな。食事中だぞ」
店主の動きが止まる。
屋台の横にある簡易テーブル。そこで合成ラーメンを啜っていた男が、ゆっくりと立ち上がった。
黒いロングコート。
顔の左半分には火傷の痕があり、そこにはめ込まれた旧式の義眼が鈍い光を放っている。
「なんだテメェ、部外者はすっこんでろ」
「そのガキ、離してやれよ。見てて気分が悪ぃ」
「あぁ? こいつは泥棒だぞ。商売の邪魔だ」
「泥棒? そいつは違うな」
男は懐から一枚のチップを取り出し、コインのように親指で弾いた。
チップは空気を切り裂き、店主の義手の隙間にカツンと挟まった。
「代金だ。釣りはいらねえ。そのパンと……そこのミルクもつけてやれ」
店主はチップを確認し、目を丸くした。高額のクレジットチップだ。
「……チッ、金持ちの道楽かよ」
店主は舌打ちし、乱暴にリナを放り出した。
アスファルトに叩きつけられる痛み。
だがリナはすぐに起き上がり、パンの袋を抱きしめた。
「ほらよ、ミルクだ。持ってけ」
店主が投げた紙パックを受け取る。リナは震えながら、男を見上げた。
「あ、あの……」
「礼はいらねえ。さっさと帰って、家族に食わせてやれ」
男はタバコに火をつけ、紫色の煙を吐き出した。その表情は読み取れない。
「……ありがとうございます!!」
リナは深々と頭を下げ、脱兎のごとく駆け出した。
振り返らなかった。男の気が変わるのが怖かったし、何より一秒でも早く帰りたかった。
■
心臓が破裂しそうなほど走って、リナはアパートへ戻った。
鉄の扉を開けると、重苦しい空気が漂う部屋の中で、二つの小さな影が飛びついてきた。
「お姉ちゃん!」
「……おかえりなさい」
トビとサラだ。無事だった。それだけでリナの目頭が熱くなる。
「ただいま。……見て、すごいの」
リナは戦利品を床に広げた。
潰れたロールパンが三つ。そして、滅多に手に入らない合成ミルクのパック。
「うわぁ! ミルクだ!」
「パンもある……!」
子供たちの目が輝く。
それはVR世界で神話級アイテムを手に入れたプレイヤーの目よりも、遥かに切実で、純粋な輝きだった。
リナはパンを分け、ミルクを汚れたマグカップに注いだ。
サラには一番柔らかい部分と、多めのミルクを。
「はい、食べていいよ」
その言葉を合図に、トビがパンにかぶりつく。
サラも震える手でカップを両手で持ち、少しずつ喉を鳴らして飲み始めた。
「おいしい……」
「あったかい……」
リナも自分の分のパンを口に運んだ。
パサパサで、化学薬品のような後味がする。ミルクは水で薄められた味がする。
けれどそれはリナにとって、世界で一番美味しい食事だった。
ふと、部屋の奥を見る。
両親のポッドは相変わらず不気味な光を放ち、ファンの音を唸らせている。
モニターには『獲得賞金:$15,000』という数字が表示されていた。
その金があれば、このパンが何万個買えるだろう。
サラを病院に連れて行き、トビに新しい靴を買って、暖かいベッドで眠れるだろう。
でも、その金が自分たちのために使われることは永遠にない。
それは新しい「剣」になり、「鎧」になり、彼らの虚栄心を満たすデータへと変換されるだけだ。
(期待しちゃ……ダメ)
リナはパンを飲み込み、強く思った。
(お父さんも、お母さんも、もういないのと同じ。この子たちを守れるのは私だけ)
「お姉ちゃん、どうしたの? 食べないの?」
トビが心配そうに覗き込んでくる。
リナは顔を上げ、精一杯の笑顔を作った。
「ううん、食べるよ。すっごく美味しいね」
リナは弟の頭を撫で、妹の背中をさすった。
細く頼りない体温。
この温もりだけが、今のリナにとっての「リアル」だった。
8歳の少女の瞳から子供らしい光は消え、冷たく鋭い覚悟の光だけが宿っていた。
――しかし。
そんなささやかな団欒さえも、長続きはしなかったのだ。
クルシイ…クルシイ…




