【依頼人】疑わしい語り手
サウス区とイースト区の境界。
吹き溜まりのような場所に安宿「ミッドナイト・イン」はあった。
壁の塗装は剥がれ落ち、廊下の照明は痙攣するように明滅を繰り返している。
床には嘔吐物の痕跡がこびりつき、空気は安酒と汗、そしてそれを誤魔化すためのきつい化学消毒剤の臭いで飽和していた。
イースト区の工場労働者やサウス区のゴロツキが、泥のような眠りを求めて流れ着く典型的な底辺の宿だ。
(本当に、こんなところでいいの……?)
404号室の前。一人の女が立ち尽くしていた。
ナナミ・コウサカ、20歳。
頬は痩せこけ、顔色は悪い。手入れされていない黒髪が肩口で絡まっている。
着古した合皮のジャケットに、色の抜けたジーンズ。
左手首に埋め込まれたペイチップは、最低ランクを示す灰色に濁っていた。
ドアノブに触れる指先が震える。心臓の早鐘が、薄い胸板を内側から叩いていた。
(404号室の、始末屋……)
ヴァイス市長の処刑配信。
170万人が同時接続したあの夜、誰もがその名を聞いた。
「404号室の始末屋」。
カーバンクルという都市伝説が、実体を持って世界に顕現した夜。
あれから3ヶ月。ナナミは必死に情報をかき集めた。
サウス区の腐った情報屋、違法フォーラムの深層。
なけなしの貯金をすべて溶かし、ようやく一つのプロトコルに辿り着いたのだ。
――404号室。
ナナミは息を詰め、重い鉄扉を押し開けた。
室内は異様なほど整然としていた。安宿特有の生活臭がない。
古びたベッドに、小さなテーブルと二脚の椅子。
窓から差し込むネオンの明滅だけが、青白く部屋を切り取っている。
「あ――」
そして――彼女がいた。
ベッドの縁、ちょこんと腰掛けた小柄な影。
水色のショートヘアに、純白のパーカー。
背中には象徴的な『404 Not Found』のロゴ。
全てを見透かすような赤い瞳が、ナナミを射抜いた。
カーバンクル。都市伝説そのもの。
「あ……あの」
喉が張り付き、声が掠れる。
「座って」
カーバンクルの声は合成音声のように平坦で、温度がなかった。
彼女は顎でテーブルの対面をしゃくる。
ナナミは操り人形のように従い、パイプ椅子に腰を下ろした。
座面の冷たさがジーンズ越しに伝わってくる。
距離はわずか1メートル。
廊下からは酔っ払いの怒号とボトルが割れる音が響いていたが、この部屋の中だけが真空のように静まり返っていた。
「依頼の、内容は?」
カーバンクルが短く問う。
ナナミは乾いた唇を舐め、覚悟を決めたように視線を上げた。
「……殺してほしい男がいます」
6年間。
胃の腑で腐らせてきた殺意を、初めて言語化する。
「対象は?」
「ヴィクター・グレイソン。45歳。元特殊部隊所属のフリーランス傭兵です」
ナナミは懐から薄汚れたデータチップを取り出し、テーブルの上に滑らせた。
カーバンクルはそれを手に取ることなく、赤い瞳だけでチップを見下ろす。
「どうして、その男を?」
「両親の仇です。……6年前、私の父と母は殺されました」
ナナミの声から震えが消え、代わりに暗い熱が宿る。
「イースト区、第7高架橋の下。警察はただの強盗殺人で処理しました。でも、二人のペイチップも現金も残されてた。強盗が死体だけ残して消えるわけがない」
「……それで?」
「自分で調べました。6年かけて」
ナナミは早口になった。堰を切ったように情報が溢れ出す。
「あの日、ネオ・テック社の秘密研究施設で火災事故がありました。公式には電気系統のトラブル。でも裏では大量の研究データが持ち出されていた。その『輸送ルート』が第7高架橋だったんです」
薄い胸を抑え、ナナミは続ける。
「輸送班の護衛リストに、ヴィクター・グレイソンの名前がありました。時刻も、場所も一致している。……目撃者だった私の両親を、彼が消したんです」
カーバンクルは表情一つ変えず、指先でチップを弾いた。チップが独楽のように回転する。
「なぜ今、私に?」
「……え?」
「6年も執着していたなら、機会はあったはず。なぜ今さら依頼するの?」
試すような視線に、ナナミは拳を握りしめた。
爪が皮膚に食い込み、痛みが走る。
「……私じゃ、殺せないから」
悔しさが滲む声だった。
「奴は戦闘用サイバネティクスで全身を換装したプロです。私のような、工場のラインで一生を終えるだけの人間じゃ……指一本触れられない。闇市の粗悪な銃を買ったところで、近づく前に蜂の巣にされるのがオチです」
自身の無力さを吐き捨てる。
それは6年間、毎晩枕元で繰り返した絶望だった。
金も、力も、技術もない。あるのはただの復讐心だけ。
「だから、あなたに頼むんです。あの配信を見たとき、確信しました。あなたなら……あの化け物を地獄に叩き落とせる」
ナナミはテーブルに身を乗り出した。
「お願いします。ヴィクター・グレイソンを始末してください。あいつがのうのうと生きている今の現実が、私には耐えられない……!」
カーバンクルはチップの回転を手で止めると、それをパーカーのポケットに放り込んだ。
「報酬は、ここの宿泊費」
「……はい?」
「それが私のレート。前払いでいいよ」
あまりにあっけない承諾に、ナナミは拍子抜けした顔をした。
「そ、それだけで……本当に?」
「グレイソンの居場所は?」
「あ……セントラル区の高級アパート『スカイライン・タワー』、38階。警備ドローンが常駐しています」
「なるほど、わかった。問題ない」
カーバンクルが立ち上がる。
パーカーのフードを目深に被り直すと、彼女は亡霊のように足音なくドアへと向かった。
慌ててナナミも立ち上がる。
「あの! 私も……私も現場へ行きます。あいつが死ぬところを、この目で見届けたいんです」
ドアノブに手をかけたまま、カーバンクルは振り返りもせずに言った。
「足手まといはいらない」
「でも……!」
「ここで待ってて。終わったら連絡する」
拒絶の言葉は鋭利な刃物のようだった。有無を言わせぬ圧力がそこにはあった。
ドアが開く。廊下の喧騒が一瞬だけ流れ込み、そして彼女の姿とともに遮断された。
バタン、と無機質な音が響く。
404号室に、再び静寂が戻った。
「……っ」
ナナミは糸が切れたように椅子へ崩れ落ちた。
6年分の重圧が抜け、代わりに形容しがたい虚脱感が押し寄せる。
本当に、依頼してしまった。
もう後戻りはできない。賽は投げられたのだ。
「あいつが……死ぬ」
呟きは、誰に届くこともなく空気に溶けた。
窓の外では、ネオ・アルカディアの人工的な夜景が毒々しい光を放っている。
無数の光のどこかで、今夜、確実に一つの命が消える。
ナナミは膝の上で固く手を組み、祈るように、あるいは呪うように、冷たいドアを見つめ続けた。
■
ウエスト区、アンダーグラウンド・ハッカーズカフェ。
剥き出しの配管が天井を這い、無数のサーバーが発する低周波の唸りが空気を震わせている。
店内は冷却ファンの風切り音と、焦げた回路のようなオゾンの臭いで満ちていた。
深夜3時。まともな神経の持ち主が起きている時間ではない。
最奥のブース。薄暗い影の中に、緑色の燐光が浮かんでいた。
白髪の少年、ショウ。
その右目の義眼で、展開された複数のホログラム・ウィンドウを高速で追尾している。
「よう、カーバンクル。とんでもねぇ時間に尋ねてくるな、まったく」
ショウは視線をディスプレイから外さずに言った。
カーバンクルは無言で向かいの席に滑り込み、テーブルの上にデータチップを弾く。
「調べて」
「へいへい」
ショウは左手の義手を持ち上げ、指先のジャックを展開すると、チップを直接接続した。
瞬間、彼の周囲に展開されていたウィンドウが赤く染まり、新たな情報の奔流が流れ出す。
「ヴィクター・グレイソン、45歳。元特殊部隊、現フリーランス・マーセナリー……ふーん、企業の番犬か」
ショウの義眼が激しく明滅し、膨大なテキストを咀嚼していく。
「6年前の強盗殺人。同日のネオ・テック社火災。グレイソンの位置情報……なるほど。状況証拠のパッチワークだな。法廷じゃ鼻で笑われるレベルだ」
「でも、私たちの仕事に法廷は関係ない」
「たしかに、違いない」
ショウはニヤリと笑い、空中に浮かぶキーボードを叩いた。
義手の指が残像となり、セキュリティの壁を次々と溶解させていく。
「こいつの裏の顔を引っくり返してやる。企業のブラックリスト、闇市場の取引ログ、削除された通信記録……俺の目からは逃げられねえぜ」
カーバンクルは何も言わず、ただ赤い瞳で空中の光を見つめていた。
1分。3分。5分。
やがて、ショウの指がピタリと止まった。
軽薄な笑みが消え、代わりに怪訝そうな皺が眉間に寄る。
「……気味が悪いな」
「何が?」
「あまりにも『綺麗』すぎる」
ショウは指先でホログラムを弾き、グレイソンの経歴をカーバンクルの前に押し出した。
「この街の傭兵だぞ? どいつもこいつも脛に傷の一つや二つはある。違法な護衛、口封じ、恐喝……叩けば埃が出るのが普通だ」
ショウは苛立ち紛れに虚空をスワイプする。
「だが、こいつには何もない。正規の契約、正規の報酬、正規の納税。まるで教科書通りの優良市民だ。裏の仕事の形跡が一切ない」
「隠蔽は?」
「それも……ないんじゃないかと思う。だって俺様だぜ?」
ショウは心外だと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「セントラル区の軍用ICEだって突破できる俺が、何も見つけられないんだ。個人の傭兵が雇えるレベルの隠蔽工作じゃない」
ショウは椅子の背もたれに深く体重を預け、天井の配管を睨み上げた。
「可能性は二つ。一つ、バックに国家レベルの組織がいて、完璧に情報をクリーニングしているか」
「もう一つは?」
「……本当に、ただの『クリーンな警備屋』か、だ」
カーバンクルの目が細められる。
依頼者の告発と、ショウの調査結果。矛盾する二つの情報。
「依頼者が嘘をついている可能性は、あると思うか?」
ショウが試すように問う。カーバンクルは即座に首を横に振った。
「あの目は嘘じゃない。彼女は確信してる」
「なら、こっちのグレイソンって男が化け物ってわけだ」
カーバンクルは席を立った。白いパーカーのフードを目深に被り直す。
「調査を継続して。もっと深く潜って」
「無茶言うねえ。そう簡単じゃないんだぜ?」
「ショウならやれるでしょ」
カーバンクルは背を向け、ブースを出た。
階段を上がり、地上へと出る。
ウエスト区の湿った夜風が頬を撫でた。
ネオンの明滅が、視界を毒々しい極彩色に染め上げている。
ヴィクター・グレイソン。清廉潔白な経歴を持つ、元特殊部隊員。
依頼者は復讐を望み、データは無実を示唆している。
どちらかが間違っている依頼。
カーバンクルはポケットの中で、冷たい硬貨を弄んだ。
真実がどうあれ、依頼はすでに受託された。
彼女は夜の闇に紛れ、スカイライン・タワーの方角へと歩き出した。




