【断罪】触れ得ざる記憶
やがて二人は、「VIPルーム」と書かれた扉の前に到着した。
ヴィットはドアを開け、中に入る。
部屋の中央には特殊な椅子。
通常の抽出椅子より洗練されているが、基本的な機能は同じだ。
人間の記憶を強制的に抽出するための装置。
ヴィットはカーバンクルをその椅子に座らせ、拘束具で固定した。
「これから君の記憶を味わわせてもらう。始末屋の少女の記憶とは、どんなものだろうね」
彼は装置の電源を入れた。複雑な機械が唸りを上げ、天井から複数のケーブルが降りてきた。
先端には細い針が付いている。これが脳に接続されるのだ。
「心配しないでくれ。痛みはほんの一瞬だけ。そのあとは……私が君の記憶を堪能する」
ヴィットはコントロールパネルを操作し、自分の頭にも別のヘッドセットを装着した。
これで、抽出された記憶を直接体験できる。記憶カクテルと違いその記憶体験はリアルタイムであり、その鮮度も高い。ヴィットはそう感じていた。
「さあ、始めようか。君の記憶の秘密を教えてくれたまえ」
針がカーバンクルの頭部に近づいていく。
彼女の赤い瞳が、ヴィットを冷たく見つめていた。
表情には変化がないが、その目には何か――計算するような光が宿っていた。
「さぁ、抽出開始だ」
ヴィットがスイッチを押した瞬間、カーバンクルの脳に接続されたケーブルが光を帯びた。
記憶抽出装置が彼女の神経信号をデジタル化し、ヴィットのヘッドセットへと送信する。
「さあ、君の秘密を見せてもらおう。どんな過去があるのかな」
ヴィットは期待に満ちた顔で装置を見つめ、そして目を閉じる。
通常なら、被験者の記憶が断片的に表示され始めるはずだった。
しかし、流れ込んできたのは彼が想像していたものとは全く異なっていた。
――戦場での銃撃戦。血と硝煙の匂い。敵兵の首を素手で折る感覚。
拷問室。被害者の悲鳴。電気ショックを与える快感。
暗殺現場。標的の恐怖に歪んだ顔。ナイフが肉を裂く手応え――
「……何だ、これは」
ヴィットの顔に困惑が浮かんだ。
一人の子供の記憶にしては、あまりにも異質で暴力的だった。
――薬物による拷問実験。実験台の痙攣。データを記録する。
人体実験室。生きたまま解剖される被験者。科学的興味だけで行われる残虐行為。
爆破現場。建物の崩壊。巻き込まれた民間人の最期の表情――
「やめろ、これは……これは何だ!?」
ヴィットは装置を止めようとしたが、記憶の奔流は止まらない。
むしろダウンロード速度は加速していく。一つひとつの記憶があまりにも鮮明で、まるで自分が体験しているかのようだった。
――連続殺人犯の記憶。獲物を追い詰める興奮。殺害の瞬間の陶酔感。
戦争犯罪者の記憶。村を焼き払う命令。無実の住民たちの絶望。
人身売買組織の記憶。商品として扱われる人間たち。金銭と引き換えに売られる尊厳――
ヴィットの額から冷や汗が流れ始めた。
何よりも異様だったのは、それらの異常な量の暴力の記憶の中に、カーバンクル――目の前の少女が、登場していないことだった。
「この記憶はッ、何だ!? お前の記憶じゃないのか……!? なぜこんな量の記憶がぁ……ッ!」
――医師による非人道的実験。麻酔なしの手術。実験台の苦痛を観察する冷たい目。
テロリストの記憶。爆弾の爆発。建物に取り残された子供たちの叫び声。
独裁者の記憶。大量粛清の命令。数千人の市民を処刑する決断――
「うわああああ! やめろ! 離せぇっ!」
ヴィットは椅子から立ち上がろうとしたが、記憶共有システムは彼を椅子に拘束していた。
装置の安全機能により、セッション中は移動できない設計だったのだ。
――拷問の専門家の記憶。人間を壊す技術。精神を破綻させる方法論。
サイコパスの記憶。他人の痛みへの無関心。感情のない殺人。
兵器開発者の記憶。化学兵器の効果。被験者たちの苦悶――
「止めてくれ! 頭が……頭が裂けそうだ!」
ヴィットの鼻から血が流れ始めた。脳が情報過多で機能不全を起こしつつあった。
――組織犯罪者の記憶。報復のための拷問。家族を人質にした脅迫。
戦争の記憶。戦場に散らばる死体。爆撃で破壊された病院。
暗殺者の記憶。標的の子供を狙撃する瞬間。任務への冷徹な割り切り――
彼の視界がぼやけ始めた。
あまりの暴力的記憶の奔流に、彼の脳は現実と記憶の処理をしきれなくなっていた。
微睡んでいたカーバンクルの瞳がゆっくりと開く。
拘束具に固定されたまま、彼女は冷静にヴィットを見つめる。
「どうだった? 私の記憶の味は」
「や、やめろ……もうやめてくれ……なん、なんだ、お前は」
ヴィットは震え声で言った。彼の顔は恐怖で青ざめている。
目の前にいるのは人間ではない。人間らしい記憶を持ち合わせていない。
無数の暴力の記憶を、人間の子供の形にねじ固めた――怪物だ。
「私の頭の中には100人以上の殺人者とか軍人とか……そういう暴力のプロの記憶をストックしてるの。仕事に必要だからね」
カーバンクルは淡々と説明した。
その莫大な記憶は、当然いかに優れた脳インプラントを入れたところで、通常処理しきれるものではない。
記憶量に人格は圧迫され、無数のPTSDにより精神は崩壊する。――通常ならば。
「あなたの脳はまだ5%程度くらいしか見てないよ。残り95%の記憶が控えてる」
「そんな……そんなこと、ありえない……そんなの、店の記憶サーバーの容量すら越えて……!」
ヴィットは絶望的な表情を浮かべた。逃げ出そうとするも、やはり機材から立ち上がれない。
「止めてくれ、もう……もう充分だ。記憶は、記憶はもういらない」
「そう? それは残念だな」
カーバンクルは手首の拘束具を軽く引っ張った。
金属が軋む音とともに、拘束具がひとりでに開く。システムエラーのビープ音が鳴るが、すぐに止まる。
「ば、馬鹿な……不可能だ! セッション中に出られるはず……」
「この程度だったらどうにかなるよ。もう少し複雑なセキュリティもあるし」
立ち上がったカーバンクルは、記憶抽出装置のコントロールパネルに向かった。
彼女は設定を変更し、出力を最大にセットした。
「何を……する、気だ……」
「あなたの記憶を全て抽出する。言ったよね、記憶はもういらないって?」
ヴィットの顔に絶望が浮かぶ。その言葉を真に理解するのに、時間がかかった。
ガタガタと震え、拘束されながら暴れ始める。
「言ってない! そ、そんなことは言ってない! やめろ、頼むやめてくれ!!」
「記憶提供者に同じことをしてたでしょう?」
「私は商売をしているだけだっ! 需要があるから供給しているだけなんだ!」
「エリナを騙して依存症にさせ、記憶を奪い、体まで売らせた」
カーバンクルは操作を続けた。
装置の設定画面に「全記憶抽出モード」が表示される。
「やめろ……頼む……それは、人間を廃人にする設定だぞ……!」
「そう。あなたがエリナや他の被害者にしたのと同じこと」
「待ってくれ、待ってくれ! 取引をしよう! 君の求める記憶カプセルは全部渡す。それに加えて金も払う! 有り金全部払うよ!!」
カーバンクルは振り返り、ヴィットを見つめた。
「お金……」
「そうだ、そう……金さえあれば何でも手に入る。君だって、何かしら欲しいものがあるだろう!」
「でも、あなたが奪った人たちの尊厳と人生は、お金で買い戻せない」
カーバンクルは最終設定を完了させた。
「頼む……頼む……。殺すなら……殺してくれ。だが記憶を奪うのだけは、やめてくれ……!」
ヴィットは涙を流しながら懇願した。
恐るべき黒幕の姿は、もはやそこにはない。
「記憶を失うことがどれだけ恐ろしいか、よく知ってるんだね」
「そうだ……記憶をなくしたら、それはもう人間の抜け殻になる……それだけは」
しかし、カーバンクルは首を横に振った。
無慈悲な赤い瞳がヴィットを見下ろす。
「やめてくれ、頼む、家族がいるんだ」
「エリナにも家族と人生があった。あなたがそれを奪った」
「やめろおおおおおおお!!」
カーバンクルが、スイッチを押した。
記憶抽出装置が最大出力で作動を開始する。
ヴィットの脳から、全ての記憶が強制的に吸い出され始める。
「ぎゃああああああ!」
ヴィットの絶叫が部屋に響いた。
幼少期の記憶、学生時代の思い出、家族との時間、仕事の経験、人間関係、感情、価値観。
人格を形成する全ての要素が、容赦なく抽出されていく。
「止めてぇ! 私の記憶がぁ! なくなってしまうぅぅ!!」
しかし、抽出は続いた。
装置のモニターには、抽出されていく記憶データがリアルタイムで表示される。
彼の人生が数値化され、デジタルデータとして保存されていく。
「やめ……やめっ? どこだ、ここ? なんだ? どうした?」
記憶を失うにつれ、ヴィットの言葉は混乱していく。
自分の正体を忘れ、なぜここにいるのかも分からなくなっていく。
「あー……わ……あぁ」
……やがて抽出が完了すると、彼は完全に虚ろな目をしていた。
名前も過去も、全て失った空の殻。
今日から彼は、歩き方も、排泄の仕方すらも覚えてはいない。
カーバンクルは抽出された巨大な記憶データを削除する。
ヴィットの人生の記録は、これで永久に失われた。
「これであなたの記憶はもう、どこにも|存在しない《404 Not Found》」
彼女は部屋を出て、データバンクに向かった。
そこでエリナの記憶カプセルを回収し、プルースト・バーを後にする。
「……あー……」
背後では、記憶を失ったヴィットが、自分が何者かも分からないまま虚空を見つめ続けていた。
その不安も恐怖も、判断する記憶を持たない。
心の内を紡ぐ言葉も、全て失われていた。
■
フェイデッドスターモーテル、404号室。
朝の人工光がウエスト区に差し込み始めた頃、エリナは浅い眠りから目を覚ました。
ベッドで身を起こすと、部屋の隅に見慣れた小さな人影があった。
カーバンクル。水色の髪と赤い瞳を持つ少女が、そこに静かに佇んでいた。
「あ……お、お帰りなさい」
「ただいま」
カーバンクルは小さなケースをテーブルに置いた。
中には青く輝く結晶体が整然と並んでいる。
「これが……私の、記憶なの?」
エリナは恐る恐るケースに近づいた。
23個の記憶カプセルが、まるで宝石のように輝いている。
「主要なものは回収できた」
「これで私は……元に戻れるの?」
カーバンクルは首を振った。
「完全には戻れない。失った時間と経験は別物だから。大学に今から戻ることはできないし、お金も戻っては来ない。
それでも、あなたの核となる記憶は復元できる」
エリナは震える手でカプセルの一つを取り上げた。
ラベルには「17歳誕生日」と記されている。知らずに、涙が溢れ出した。
「……大事な、誕生日のはずなのに。今は何も覚えてないの。これを見たら、思い出せるのかな……」
「……たぶんね。あなた自身を取り戻せるはず」
そう言いながら、カーバンクルはポケットから小さなカードを取り出した。
「これはセントラル区の『ムネーモシネー・クリニック』のアドレス。記憶復元の専門医療施設だよ」
「え……!? で、でも私、もうお金は……!」
「支払いは済ませてある。ヴィットの隠し資産から調達したから」
エリナは驚いた表情を見せた。
同時に、当然の帰結として疑問にぶつかる。
「……彼は? どうなったの?」
「記憶を全て失った。今は自分が何者かも分からないし、言葉も、歩き方も忘れてる」
「それって……」
「少なくとも、もう元に戻ることはない」
カーバンクルは無表情のまま続けた。
「レイラ・ウィンターズも、セントラル区から追放された。サウス区の底辺生活を体験中だよ」
「……二人とも……」
「あなたから奪ったものを、彼らからも奪った。それだけ」
エリナは壮絶な彼らの行く末を想像し、思わず胸を痛めた。
直後に、そんな同情の気持ちを消そうと記憶カプセルを強く胸に抱く。
「……ありがとう。本当に、ありがとう……!」
「依頼は完了した。これで契約終了」
カーバンクルはドアに向かって歩き始めた。エリナは慌てて声をかける。
「待って。あなたの名前、本当はなんていうの?」
「……? 私の名前は、カーバンクル……」
「本名は?」
少女は振り返り、わずかに首を傾げた。
「……覚えてない。余計な記憶を詰め込みすぎて、元の記憶は上書きされた」
「え――」
エリナは胸が痛んだ。
もしかしたらこの少女もまた、似たような記憶の犠牲者なのかもしれない。
「もしかして……だから、助けてくれたの? あなたの境遇と似ていたから……」
「関係ない。私は404号室を予約した人のための復習屋だから」
無感情に言い放つカーバンクル。
それが本心なのかどうかは、エリナにはわからなかった。
「もう、会えないの?」
「必要なら404号室を予約して。あんまり何度も会わないほうがいいと思うけどね」
カーバンクルは微かに笑ったような表情を見せた。
それは、エリナが見た彼女の初めての人間らしい表情だった。
その表情を残して、彼女は部屋を出て行った。
「……カーバンクル」
エリナは窓際に立ち、街を見下ろした。
ウエスト区の朝は、いつものように騒がしく活気に満ちている。
彼女の手の中には、失われた自分自身の欠片が収められていた。
■
三日後。セントラル区・ムネーモシネー・クリニック。
「記憶復元手術は成功しました」
白衣の医師がエリナに告げた。
「ただし、完全回復には時間がかかります。それと、肉体の経験は戻りません」
エリナは頷いた。頭部の小さな傷跡が、手術の証拠として残っている。
「でも、あなたの研究者としての記憶と知識は復活していることでしょう」
彼女の脳内に、かつての明晰な思考が戻り始めていた。
神経工学の知識、実験の手法、そして何より研究への情熱。
「……これから、どうされますか?」
「研究を続けます」
エリナは決意に満ちた声で答えた。
その表情は引き締まり、かつての堕落した愚かな姿はもはやない。
「記憶障害の治療法開発。……そして、記憶犯罪の防止技術を」
「記憶犯罪?」
「私のような被害者を出さないために。……記憶抽出を、無効化する技術を開発したいんです」
■
ウエスト区・アンダーグラウンド・ハッカーズカフェ。
地下に隠された違法なネットカフェで、複数のモニターに囲まれた一人の少年がキーボードを叩いていた。
白い髪、小柄な体格。
そして右目に埋め込まれた緑色のアイインプラントが、データの流れに同期して明滅している。
「こいつは、また404号室の仕業か」
エナジーバーをかじりながらデータを読む少年の名前はショウ。
『殺し屋ハッカー』を自称する17歳。
モニターには、プルースト・バー事件の詳細な捜査資料が表示されている。
一般には公開されない機密情報だが、彼の技術にかかれば企業のデータベースなど紙同然だった。
「ヴィット、記憶喪失で廃人化。レイラ・ウィンターズ、身元データ改竄によるセントラル区追放ね……」
彼は冷笑を浮かべながら分析を続けた。
(手口は確かに巧妙だ。でも、俺ならもっとエレガントにやれる)
ショウの指が宙に舞い、ホログラムキーボードを高速でタイピングする。
数秒で都市の監視システムにハッキングし、過去の類似事件を検索した。
「半年間で7件。全て『原因不明』の事故死や失踪か」
彼の緑の目が興味深そうに細められた。
(404号室の始末屋――。都市伝説だと思ってたが、案外本物らしいな)
立ち上がり、ショウは自分の姿を鏡で確認した。
まだ子供のような外見だが、その目には大人顔負けの冷静さと計算高さが宿っている。
(だが、所詮は過去の技術に頼った旧世代の暗殺者だろ?)
彼は自信満々に宣言した。
「俺は新世代。ハッキング、サイバー戦、そして必要なら直接戦闘も可能だ。俺のほうが上だ!」
ポケットから小さなデバイスを取り出し、ネットワークに接続する。
闇サイトの依頼掲示板が表示された。
『娘を助けて』『復讐を頼みたい』『正義を求む』……。
次々と表示される絶望的な依頼の数々。
「どれも、404号室に流れそうな案件ばかりだな……わかってねぇ」
ショウは不敵な笑みを浮かべた。
「なら、先に解決してやる。このショウ様こそが、胡散臭い都市伝説より優秀だってことを証明してやるよ」
彼の指が特定の事件をマークした。SNSでの書き込みが重なっていく。
ニタリと笑うと、ショウは端末をシャットダウンし、カフェを出た。
ドーム内側に映し出された夜空を見上げながら、彼は呟く。
「待ってろよ、404号室の怪物。お前の仕事は俺様が全部いただく!」
少年の緑のアイインプラントが、闇の中で一際鋭く光った。
緑アイって珍しいですよね




