【依頼人】転落、増設
第三試合まで、あと十日。
訓練室の冷たい空気の中で、ジェイクは動けずにいた。
目の前のサンドバッグが、あの夜のケンに見えた。
命乞いをする父親の顔が、殴るたびにフラッシュバックする。
義手の指が微かに震え、サーボモーターが不快なノイズを漏らしていた。
――娘に、父親が必要なんだ。
あの男の子は今頃、父親の帰りを待っているだろうか。
それとも、もう誰かが告げたのだろうか。
「お父さんは頭蓋骨を砕かれてゴミのように捨てられた」と。
「……クソッ!!」
ドゴォォンッ!
ジェイクは衝動的にコンクリートの壁を殴りつけた。
壁に蜘蛛の巣状の亀裂が入る。
強すぎる力。呪わしい力。
この手は金を生む魔法の杖ではなく、ただの処刑道具だった。
「ひどい顔だな」
背後から、嗄れた声がした。
振り返ると、薄汚れたタンクトップの男が立っていた。
40代半ば。右腕と両脚が義体化されており、その金属パーツは無数の傷と溶接跡でツギハギだらけだった。
「……誰だ」
「同じ檻の中の獣さ」
男は自嘲気味に笑い、ジェイクの隣に腰を下ろした。
「聞いたぞ。新人、二連勝だってな。景気がいいじゃないか」
「……そんなこと、どうでもいい」
「そうだな。勝っても負けても、俺たちの懐は寒いままだ」
男は義手の指でタバコを器用に回した。
「最初は俺も吐いたよ。人を殺す感触ってのは、何年経っても指先にこびりついて取れねえもんだ」
ジェイクは男の虚ろな目を見た。そこには生気がなく、ただ諦めだけが澱んでいた。
「……何人、やったんだ?」
「数えるのをやめた。十人までは覚えてるがな」
男は煙を吐き出し、天井を見上げた。
「俺の借金は今、200万クレジットだ。勝てば賞金が出るが、それ以上にメンテナンス費、薬代、追加改造費がかさむ。
レオのシステムは完璧だ。俺たちは戦えば戦うほど、借金という鎖でがんじがらめになる」
男はジェイクの方を向き、声を潜めた。
「あの赤い薬は強力だぞ」
「え?」
「『バーサーク・レッド』だ。あれは脳のリミッターを外すが、同時に前頭葉を溶かす。飲み続ければ、恐怖も罪悪感も消えて、ただの殺人人形になれる。……俺みたいにな」
男は自分の頭を指差した。
「人間でいたけりゃ、飲まないほうがいいかもな。まあ、飲まなきゃ痛みで死ぬかもしれないが」
男は去っていった。
ジェイクは一人、自分の義手を見つめる。
――人間でいたい。
それは、この狂った世界における最後の抵抗だった。
■
決戦の日。
控室で、レオが例のアンプルを差し出した。
「さあ、飲みな。今日の相手はタイタス。五連勝中の重戦車だ。シラフじゃミンチにされるぞ」
ジェイクはアンプルを見つめた。
毒々しい赤色。これを飲めば、楽になれる。
痛みも、ケンを殺した罪の意識も、すべて消えてなくなる。
「……いらない」
ジェイクは首を振った。
レオの眉がピクリと跳ねる。
「なんだと?」
「薬には頼らない。俺は、俺の意志で戦う」
レオは呆れたように鼻を鳴らし、肩をすくめた。
「崇高な心がけだこって。まあいい、好きにしろ。後悔しても知らんぞ」
ジェイクはアンプルを拒絶し、リングへの道を歩き出した。
心臓が早鐘を打っている。指先が冷たい。
これが本来の恐怖だ。これが、人間が感じるべき恐怖なのだ。
リングイン。
観客の歓声が、今日はやけに耳障りだった。
彼らは人間同士の殺し合いを見に来ているのではない。
化け物同士の共食いを見に来ているのだ。
しばらくして対戦相手、タイタスが現れた。
「グオオオオ……!」
人間というよりは、歩く鉄塊だった。
身長2メートル強。全身の60%以上が重装甲の義体に換装されている。
むき出しの油圧シリンダーが、獣の呼吸のように伸縮していた。
タイタスはジェイクを見下ろし、排気口のような口で笑った。
「新人か。柔らかそうな肉だな」
審判が手を挙げる。
「戦闘、開始!」
ゴングと同時、タイタスが突進した。
重戦車のような質量が、信じられない速度で迫る。
「……ッ!」
ジェイクは反応した。だが、体が恐怖で僅かに硬直していた。
回避しきれず、タイタスの巨大な手がジェイクの肩を掴んだ。万力のような握力。
「捕まえたぜ、小僧!」
「テメェッ、離せ――」
そのまま持ち上げられ、コンクリートの床に叩きつけられた。
ドゴォォンッ!
「がぁッ……!」
脊椎がきしむ激痛。薬がないため、脳にダイレクトに痛みが走る。
肺の空気が強制的に排出され、視界が明滅した。
痛い。これが、本当の痛みか。
「おらぁッ!」
マウントポジションからの鉄拳制裁。
ジェイクは義手でガードするが、衝撃で腕の骨にヒビが入るのが分かった。
――死ぬ。
本能が警鐘を鳴らす。
だが、ジェイクは歯を食いしばり、義手の出力を全開にして殴り返した。
タイタスの顔面を捉える。
ガキィン!
金属音が響くが、タイタスは首を少し振っただけだった。装甲が厚すぎる。
「いいパンチだ。だが、俺には効かねえ!」
タイタスはジェイクの左腕――唯一残された生身の腕を掴んだ。
「この腕、邪魔だなあ?」
「やめ――!」
ニヤリと笑い、タイタスが腕を逆方向にねじり上げた。
バキボキッ!
湿った音が響き、ジェイクの左肘が不自然な方向に曲がった。
「ぎゃぁぁぁぁぁぁっ!!!」
絶叫。喉が裂けんばかりの悲鳴。
骨折の激痛が神経を焼き尽くす。視界が真っ白になり、涙と涎が止まらない。
「まだだ、もっといい音を聞かせてくれよ!」
タイタスはさらに力を込めた。そして、引きちぎるように腕を引っ張った。
ブチブチブチッ――!
筋肉が断裂し、靭帯が弾け飛ぶ音。
次の瞬間、ジェイクの左肩から先が消失した。
「――ッ!!??」
声が出ない。あまりの衝撃に脳が処理を放棄した。
真っ赤な血が噴水のように吹き出し、リングを濡らす。
タイタスはちぎり取った左腕を掲げ、観客に見せつけた。
「おらよ! 新人の『手』土産だ!」
熱狂する観客席へ、その腕が投げ込まれる。
誰かがそれをキャッチし、まるでホームランボールのように奪い合っている。
俺の腕。俺の体の一部が、おもちゃにされている。
失血で意識が急速に遠のく中、審判の声が聞こえた。
「戦闘不能。勝者、タイタス!」
床に倒れ込みながら、ジェイクは思った。
ああ、これで終わる。
やっと、この地獄から解放される……。
■
覚醒は、不快な電子音と共に訪れた。
白い天井。無影灯の光。
ジェイクは自分の体を見下ろした。左肩には分厚い包帯が巻かれ、その先は虚空だった。
「目が覚めたか、馬鹿野郎」
レオがパイプ椅子に座り、つまらなそうに端末をいじっていた。
「……俺は」
「負けたんだよ。無様に腕をもがれてな」
レオは立ち上がり、ジェイクの顔を覗き込んだ。
「薬を飲まなかったからな。崇高な人間性の代償がこれだ。片腕を失って、満足か?」
ジェイクは乾いた唇を動かした。
「……もういい。やめる。もう戦いたくない」
「やめる? ハッ、面白い冗談だ」
レオは冷酷に笑い、端末の画面をジェイクに見せた。
「現在のお前の借金総額、75万クレジットだ」
「……は?」
「内訳を教えてやろう。初期改造費30万。今回の緊急手術費、輸血代、ICU使用料で30万。さらに、失った左腕の代わりになる最新型義手の代金25万。だが敗北した試合の出場費10万まけてやって、しめて75万だ」
ジェイクは言葉を失った。
「待て……俺が稼いだ、賞金は……」
「全部、姉貴に送っただろ? つまりお前の手元には一銭もない。あるのは莫大な借金だけだ」
レオはジェイクの胸を指先でつついた。
「いいか、これはビジネスだ。お前が勝とうが負けようが、俺には金が入る。お前がボロボロになればなるほど、修理費で借金が増え、俺の懐が潤う。お前は一生、このループから抜け出せないんだよ」
蟻地獄。
最初から、出口などなかったのだ。
レオにとって、ジェイクはファイターですらない。
ただ金を吸い上げるための「生きた資産」に過ぎなかった。
「いやだ……返してくれ、姉さんのところに……」
「返せないなら、体で払ってもらうしかないな」
レオが合図を送ると、無表情な技師たちが手術器具を持って近づいてきた。
「強制執行だ。左腕も機械に変える。喜べ、次はきっと勝てるぜ」
「おい……!!」
ジェイクは叫ぼうとしたが、麻酔ガスがマスクから噴き出した。
意識が溶けていく……。
■
手術完了、6時間後。
目覚めたジェイクの左肩には、真新しい黒色の義手が装着されていた。
右腕と同じ軍用モデルだが、こちらは手首に高周波ブレードが内蔵されている。
人間をバターのように切り裂くための凶器だ。
ジェイクは鏡の前に立った。
そこに映っていたのは、もうジェイクではなかった。
両腕が機械。右足が機械。
(だれ、だ……これは……?)
「どうだ、素晴らしい仕上がりだろ」
レオが背後で笑っている。
「これで両腕が武器になった。お前は最強だ! 次の試合は一週間後。稼いでもらうぞ、俺のために」
ジェイクは呆然と頷いた。
怒りも、悲しみも、絶望さえも感じなかった。心の一部が完全に壊死していた。
――ただの作業だ。
あの先輩の言葉が蘇る。
ジェイクは訓練室へ向かった。
新しい左腕の感触を確かめる。ブレードを展開する。
キィィィン……。
青白い刃が空気を震わせる。
「……ッ!!」
彼はサンドバッグを切り裂いた。
中身がこぼれ落ちる様を見ても、何も感じなかった。
「……畜生。なんだよ、これ。なんなんだよ……」
なんなんすかね




