【依頼人】殺しの味
ジェイクの脊髄が、思考よりも速く反応した。
ヴィクターの右腕――パイルバンカーが唸りを上げ、ジェイクの顔面スレスレを通過する。
圧縮空気が炸裂する衝撃波で頬の皮膚が裂け、血飛沫が舞った。
直撃していれば頭蓋が蒸発していただろう。
だが、今のジェイクには世界がスローモーションに見えていた。
懐へ潜り込む。黒い義手を相手の脇腹へ叩き込む。
ドォンッ!
重金属が装甲ゴムを打つ重い音。
ヴィクターの巨体がわずかに浮く。だが、ベテランは笑っていた。
「い……いパンチだ。だが、軽いッ!」
返しの膝蹴りが、ジェイクの腹部に突き刺さる。
「ぐぼッ……!!」
内臓が破裂しそうな衝撃。ジェイクは弾き飛ばされ、背中から金網に激突した。
高電圧の火花が散り、背中の皮膚を焼く。
「ぐぁぁぁぁ……っ!!」
「立て! 殺せ!」
「クソが! あんなガキに賭けた俺が馬鹿だった!」
観客席から汚い野次とポップコーンが降り注ぐ。
ジェイクはむせ返りながら立ち上がった。
レオのくれた『バーサーク・レッド』が脳内で炸裂し、痛みを快楽物質へと変換していく。
恐怖はない。あるのは、目の前の敵を解体したいという渇望だけだ。
ヴィクターが距離を詰めてくる。義手の連打。
ジェイクはガードを固めた。骨が軋み、義手のサーボモーターが悲鳴を上げる。
「ウウゥゥウウッ……!」
――殺される。
一瞬、理性が警告を発した。だが、すぐに怒りがそれを塗り潰す。
ここで死ねば、姉さんはどうなる?
またあの腐ったアパートで、一生飼い殺しか?
「ふざけるな……! うおおおぉぁぁっ!!」
ジェイクは咆哮し、ヴィクターの大振りのフックを紙一重でかわした。
がら空きの顎。そこへ、全重量を乗せた義手のアッパーカットを突き上げる。
ガギィィィンッ!
硬質な破壊音。ヴィクターの顎関節が砕け、首が不自然な角度に折れ曲がった。
巨体がよろめく。その隙を、ジェイクの本能は見逃さなかった。
「オオオオォォォォッ!!」
右の義手で顔面を粉砕する。左の拳で肝臓をえぐる。義足の爪先で膝関節を蹴り抜く。
訓練室で叩き込んだ殺人プログラムが、流れるように実行されていく。
「ぐ、ガハッ……!!」
ズゥゥン……。
ヴィクターが仰向けに倒れた。
ピクリとも動かない。顔面は陥没し、義眼のレンズが割れ、そこから漏電した火花がチリチリと音を立てていた。
「……ハァ、ハァ……ッ」
ジェイクは肩で息をした。自分の拳を見る。
黒い金属が、相手のオイルと血で濡れそぼっている。
黒い甲冑の審判が、無機質に告げた。
「戦闘不能。勝者、ジェイク!」
一瞬の静寂の後、アリーナが爆発した。
欲望を肯定された観客たちの歓喜の渦。
ジェイクはその中心で、力の抜けた膝をついた。
勝った。生き残った。
レオがリングに上がり、ジェイクの腕を高く掲げた。
「イキのいいデビューだ! サウス区の新しい英雄の誕生かぁ!?」
レオはジェイクの耳元で、冷たく囁く。
「上出来だ。50万クレジット、約束通り払ってやるよ」
担架に乗せられ、肉塊のように運ばれていくヴィクター。
彼が生きているのか死んでいるのか、誰も気に留めていなかった。
ジェイクもまた、視線を逸らした。
(これは……仕事だ。割り切れ)
■
翌日、ジェイクの手元には確かに50万クレジットがあった。
レオは葉巻をくゆらせながら、チップを弾いてよこした。
「次は二週間後だ。メンテナンスを怠るなよ」
「……次もやるのか?」
「当たり前だ。契約書を忘れたか? 改造費30万の返済義務がある。それに、一度蜜を吸ったら、もう泥水には戻れねえだろ?」
レオの言葉は正しかった。
ジェイクは40万クレジットを姉の口座に送金した。メッセージを添えて。
『イースト区の現場監督になった。危険手当込みで前払いが出たんだ。しばらく寮に入るから帰れない。いいもん食えよ』
数分後、ハリソンからの返信。
『本当に? 無理してない? お金、信じられないわ……ありがとうジェイク、愛してるわ』
画面の文字が滲んだ。
姉は、この金が誰かの顎を砕いて手に入れたものだとは知らない。
血塗れの金で買った肉を、彼女は食べるのだ。
罪悪感が胸を刺したが、それ以上に安堵があった。
これで姉は救われる。
■
二週間後、第二試合のゴングが迫っていた。
控室のジェイクは、以前とは別人のように落ち着いていた。
驚異的な代謝機能を持つ肉体は傷を癒やし、さらに強靭になっていた。
サンドバッグは一撃で破裂する。自分が人間兵器であることを、彼は受け入れつつあった。
レオが入ってくる。
「調子は?」
「万全だ」
「頼もしいねえ。今日の相手はケン。20代後半、改造ランクはお前と同等だ」
レオはいつもの赤いカプセルを差し出した。
ジェイクはそれを飲み込む。
薬が食道を焼き、脳の恐怖中枢を麻痺させる。
「……いくぜ!!」
リングへ向かう花道。観客は前回よりも増えていた。
彼らは「ジェイク・ザ・リッパー」の名を叫び、更なる暴力を期待していた。
「いけー!」
「殺れ! 今度も顎を砕いてやれ!」
「いや、脳が弾けるのが見たい!!」
しばらくして対戦相手、ケンがリングインする。
痩せた男だった。
両腕と左足が義体化されているが、そのパーツは酷く中古臭かった。
塗装は剥げ、配線がむき出しになり、継ぎ目から錆びたオイルが滲んでいる。
男はジェイクと目が合うと、小さく震えながら頭を下げた。
「……よ、よろしく頼む」
「……あ、あ」
戦士の目ではなかった。
追い詰められ、逃げ場を失った小動物の目だ。
ジェイクの中で、薬で抑え込んだはずの違和感が鎌首をもたげる。
「戦闘、開始!」
ゴングが鳴る。だが、ケンは動かない。
ただ棒立ちになり、引きつった顔でジェイクを見ているだけだ。
「おい! やれよ!」
「金返せこの臆病者!」
罵声に背中を押されるように、ケンがのろのろと構えた。素人でも分かる隙だらけの構え。
ジェイクは悟った。こいつはプロじゃない。
金に困って体を売った、ただの一般市民だ。自分と同じ穴の狢だ。
「う――あああぁぁぁああぁあっ!!」
ケンが突っ込んでくる。悲痛な叫びと共に放たれた拳は遅すぎた。
ジェイクは最小限の動きでかわし、ボディに一撃を入れる。
ドスッ。
軽い音。ケンが「がはっ」と血を吐き、無様に転がった。
肋骨が折れたのが分かった。勝負ありだ。
だが、審判は止めない。ルールは「死か、完全破壊」。
「まだ……まだだ……」
ケンが血の泡を吹きながら、這いつくばってジェイクの足首を掴んだ。
「頼む……負けられないんだ……」
観客席からブーイングが飛ぶ。
「とどめを刺せジェイク!」
「頭を潰せ!」
リングサイドのレオが、氷のような視線を送ってきた。
――やれ。
商品に感情はいらない。
ジェイクは拳を振り上げた。
だが、下ろせない。
ケンが泣いていた。義眼ではない、生身の右目から涙を流して見上げていた。
「娘がいるんだ……まだ五歳で……病気なんだ……」
「……なに?」
「治療費が要る……俺が死んだら、あの子は……頼む、殺さないでくれ……!」
――時が止まったように感じた。
娘のために。家族のために。
ジェイクの脳裏に、ハリソンの笑顔が重なる。
この男もまた、誰かを救うために地獄へ降りてきたのだ。
殺せるわけがない。
だが、殺さなければ試合は終わらない。
終わらなければ、金は入らない。レオは許さない。
「早く殺せよッ!」
誰かの怒号が引き金になった。
ケンが縋り付く力を強める。「頼む、頼む」とうわ言のように繰り返す。
ジェイクは目を閉じた。
「……すまない」
謝罪は、誰に向けたものだったのか。
ジェイクは無慈悲に、機械的に、右の義手を振り下ろした。
グチャリ。
熟れた果実を叩き潰したような、生々しい音がした。
ケンの体がビクンと跳ね、そして動かなくなった。
頭蓋が陥没し、脳漿と血がリングの床に広がる。
「戦闘不能。勝者、ジェイク!」
審判の声が遠い。歓声が耳鳴りのように響く。
ジェイクは自分の手を見た。
他人の血と脳みそが、黒い義手にべっとりと張り付いている。
(……あ)
俺は、殺した。
戦士ではなく、ただの父親を。
吐き気がこみ上げた。ジェイクは逃げるようにリングを降りた。
「……っ! ぐ、うう……!!」
控室。レオが上機嫌で入ってくる。
「素晴らしい! 非情な一撃だったぞ!」
「……あの、男は」
「死んだよ。即死だ。苦しまなかっただけ感謝してほしいもんだな」
レオはチップを投げ渡した。50万クレジット。一人の人間の命の値段。
「気にするな。ここはゴミ捨て場だ。お前はゴミを掃除して、生き残った。それだけだ」
ジェイクはチップを握りしめた。プラスチックの角が掌に食い込む。
アリーナの裏口から外へ出る。
ドーム都市の空には星もなく、配管から漏れる蒸気が霧のように立ち込めている。
ジェイクは路地裏のゴミ箱に手をつき、胃の中身をすべてぶちまけた。
「オェッ……ガハッ……!」
胃液の酸っぱい臭い。だが、鼻の奥にこびりついた血の臭いは消えない。
――娘に、父親が必要なんだ。
ケンジの最期の言葉が呪いのようにリフレインする。
俺は、あの男の娘から父親を奪った。
金のために。姉さんのステーキのために。
(俺は……もう、人間じゃない)
震える義手を見つめる。涙で視界が歪んだが、雨は降らない。この街は、罪を洗い流してはくれない。
だが、立ち止まることは許されなかった。
利子を含めれば、改造費の完済にはまだ金が足りない。あと二人は殺さなければならない。
そのとき、姉からの着信があった。端末が震えるのを見て、彼は電源を切る。
ジェイクは口元を拭い、よろめきながら立ち上がった。
戻らなければ。地獄の底へ。
(姉さん……ごめん。俺はもう、あんたの知ってるジェイクじゃない)
それでも彼は歩き出した。
その背中は、改造手術を受ける前よりもずっと小さく見えた。
モブの名前は過去の登場人物と被っている可能性は常にありますがモブなので見逃してください…




