【依頼人】試合開始
翌日。ジェイクは後戻りできない橋を渡った。
仲間の手引きで向かったのは、サウス区の最深部。
廃棄された地下鉄構内を利用した無法地帯だ。
壁一面のグラフィティが、ブラックライトに照らされて不気味に浮かび上がっている。
重厚な防音扉の前で、ジェイクは足を止めた。
赤いネオン管で『ARENA』と殴り書きされている。
ノックに応じ、扉が開く。
現れたのは、顔の半分を金属プレートで覆った巨漢の警備員だ。
「何の用だ」
「レオに会いに来た。紹介がある」
巨漢の義眼がジェイクをスキャンする。数秒後、彼は無言で道を空けた。
「ワアアアアァァァ……!」
中へ入ると、凄まじい熱気と騒音が鼓膜を叩いた。
かつての駅のホームを改造した巨大なホール。
その中央、高電圧が流れる金網の中で、二人の改造人間が火花を散らして殴り合っている。
観客席からは罵声と歓声、そして賭け金のレートを叫ぶ声が渦巻いていた。
「よく来たね、迷える子羊くん」
背後からかけられた声に、ジェイクは振り返る。
上質なイタリア製のスーツを着崩した男。
30代後半、オールバックの髪にギラギラとした目。
レオナルド・マルコーニ。この地下帝国の支配者だ。
「俺がレオだ。ここじゃ神様より偉い」
レオは値踏みするようにジェイクの全身を眺め回した。
「いい目だ。飢えた野良犬の目をしてる。金が欲しいか?」
「……ああ」
「正直さは美徳だな」
レオは口角を吊り上げ、リングを指差した。
「ルールは単純だ。殺るか、殺られるか。勝てば50万クレジット。負けても生き残れば10万。どうだ、工場労働の何年分だ?」
「改造の費用は……?」
「俺が投資してやる。最新の軍用筋繊維、反応速度ブースター、痛みを感じない神経遮断処理。お前を最強の兵器に仕立て上げてやるよ」
空中にホログラムの契約書が表示される。
免責事項、身体所有権の譲渡、死亡時の処理。
おぞましい条項が並んでいたが、ジェイクは金額の欄だけを見た。
借金30万クレジット。勝てば返済。負ければ、死体袋行き。
「サインしろ。明日の朝には手術台の上だ。三日後には、お前は英雄になれる」
レオが電子ペンを差し出す。ジェイクの手が震えた。
だが、その震えを握り拳で押し殺す。
姉の疲弊した寝顔が脳裏に焼き付いている。
ジェイクはペンを取り、殴り書きするようにサインした。
「契約成立だ!」
レオは大仰に手を叩き、獣のような笑みを浮かべた。
「明日8時、ここに来い。手術は12時間かかる。麻酔は最小限だ、脳が馴染まないからな。地獄の痛みだが耐えろ。それを超えれば、新しい人生が待っている」
ジェイクは無言で頷いた。
心臓が早鐘を打っている。恐怖か、興奮か、自分でも分からなかった。
■
翌日、アリーナの最下層。
そこは「医療施設」というよりは、精肉工場と整備工場を足して二で割ったような場所だった。
鼻を突くのは強烈な消毒液の臭いと、焦げたタンパク質の臭気。
壁は白かったが、ところどころに落としきれない赤黒い染みがこびりついている。
ジェイクは拘束具付きの手術台に固定されていた。
天井の手術用ライトが眩しく、視界が白く飛ぶ。
「いいか、全身麻酔は使わん。意識は残す」
レオがマスク越しに淡々と言った。
「神経系を完全にシャットダウンすると、新しい四肢との同調率が下がるんだ。脳に『これは自分の体だ』と無理やり認識させるには、痛みが一番の手っ取り早い接着剤になる」
ジェイクの周りには、ゴムのエプロンをつけた三人の「医師」――あるいは技師たちが無言で準備を進めている。
彼らは手にしたドリルやカッターの動作確認を行っていた。
すでにジェイクの四肢には極太のカテーテルが突き刺さり、蛍光色の薬液が血管へと強制注入されている。
「まずは筋繊維のリビルドだ。お前の貧弱な筋肉を一度溶かし、高密度の繊維として編み直す」
「……っ」
技師の一人が抑揚のない声で告げた。
直後、血管に焼きごてを差し込まれたような熱さが奔った。
「ぐ、うぅ……っ!?」
「暴れるな。舌を噛むぞ」
マウスピースをねじ込まれる。
熱さはすぐに激痛へと変わった。
全身の筋肉が内側から雑巾絞りにされているようだ。ミシミシと骨が軋み、眼球が裏返りそうになる。
「うぐっ……! ぐぅぅぅぅぅぅっ!!」
声にならない悲鳴がマウスピース越しに漏れる。
涙と涎が垂れ流しになるが、誰も拭おうとはしない。技師たちはモニターの波形だけを見ていた。
「バイタル安定。心拍数180。筋繊維の融解と再結合、順調」
「次は神経加速処理。脊髄にバイパスを通す」
背中をひっくり返され、背骨に沿って何かがねじ込まれる感覚。ドリルの回転音が頭蓋骨に直接響く。
ガガガガガッ――。
まるで脳みそを直接かき混ぜられているような吐き気と激痛。
「ガアアアアアアアア……!!」
意識が飛びそうになるたび、ジェイクはハリソンの名を心の中で叫んだ。
この地獄の先に、金がある。光がある。
「よし、脳神経の接続完了。メインイベントだ。四肢を切断する」
ジェイクは仰向けに戻された。
視界の端に、鈍く光る黒い金属の塊が見えた。戦闘用義肢だ。
表面にはカーボンファイバーの編み目が走り、関節部には剥き出しのサーボモーターが唸っている。
「右腕と右脚を置換する。左は生身のままだ。重心バランスを取るためにな」
技師がレーザーカッターを起動した。高周波の不快な音が鼓膜を刺す。
ジェイクは恐怖で見開かれた目を閉じることができなかった。
「ま……少し待っ……」
「始めるぞ」
躊躇なく、青白い光の刃が右肘に押し当てられた。
ジュッ――!
肉が焼ける音。そして、信じられないほどの悪臭。
痛みは一瞬遅れてやってきた。
神経の末端が焼き切られ、脳へ向けて絶叫の信号を送る。
「ギャァアァァァァァァッ!!!」
ジェイクの体は海老反りになり、拘束ベルトが千切れんばかりに軋んだ。
腕がない。あるはずの腕がない。
焼けるような幻肢痛が脳を焼き焦がす。
「止めるな、すぐに接続しろ。神経が生きているうちに繋ぐんだ」
切断された断面に、冷たい金属のコネクタがねじ込まれる。
肉と金属が融合する、ぬちゃりとした感触。
続いて右脚。膝から下が切り離される衝撃。骨を断つ振動が全身を駆け巡る。
痛みで視界が明滅し、意識が断続的に途切れる。
それでも手術は続いた。12時間。永遠にも等しい解体と再生の儀式。
ジェイクは人間であることを辞め、兵器へと作り変えられていった。
■
さらに翌日。
ジェイクはステンレスの鏡の前に立ち尽くしていた。
映っているのは、見知らぬ怪物だった。
薬物で異常発達した筋肉は不自然に隆起し、皮膚の下では血管がどす黒く脈打っている。
そして右半身。肘から先、膝から下が、無骨な黒い金属に置き換わっていた。
義手の指を動かしてみる。
ウィ、ン……。という微かなモーター音と共に、鋼鉄の指が握り込まれた。
自分の手であって、自分の手ではない。
冷たく、重く、そして圧倒的に硬い。
「どうだ、最高の気分だろ?」
背後からレオが声をかけてきた。
その笑顔は、出来の良い商品を見る商人のそれだった。
「ああ……力が、溢れてくる」
「当然だ。お前はもう、ただの貧民街のガキじゃない。サウス区最強の殺戮マシーンだ」
レオは顎で隣の部屋をしゃくった。
「明後日が初陣だ。訓練室で新しい体に慣れておけ。操作を誤れば、自分の頭を握り潰しかねんからな」
訓練室はコンクリート打ちっぱなしの広い空間だった。
ジェイクは目の前に吊るされた重量級のサンドバッグに向かった。
以前なら、全力で殴っても揺らすのが精一杯だった革の塊だ。
右の義手を構える。
意識するより速く、腕が弾かれたように動いた。
ドォォォンッ!
破裂音が響いた。
サンドバッグが中から折れ曲がり、天井の鎖が悲鳴を上げて引きちぎれた。
巨大な袋は部屋の反対側まで吹き飛び、中身の砂と鉄屑を撒き散らして転がった。
ジェイクは自分の拳を見た。義手の塗装すら剥げていない。
「……化け物だ」
呟きと共に、口元が歪んだ。笑いが込み上げてくる。
これだ。この力があれば、もう誰も俺たちを見下せない。
金も、未来も、この鋼鉄の腕で引きずり込める――!
それから二日間の訓練は、没入というよりは憑依に近かった。
ジェイクは寝食を忘れ、ひたすら体を動かし続けた。
義体化された右半身は疲れを知らない。
強化された心臓は、汚れた血液を猛スピードで全身に送り続ける。
シミュレーターのホログラムが次々と消滅していく。
彼の動きはすでに人間の反応速度を超えていた。
訓練室には他の「商品」たちもいた。
頭部をカメラに換装した男、両腕が鎌になっている女。
彼らは一様に無口で、その目は虚ろだった。
ジェイクはその異様さに気づいていたが、あえて無視した。
彼らとは違う。
俺には目的がある。姉さんが待っている。
そして、試合当日の夜。
控室は独房のように狭く、陰気だった。
壁の「ARENA」という赤いロゴだけが、心拍に合わせて明滅している。
ジェイクはベンチに座り、義手の指先をじっと見つめていた。
微かに震えている。武者震いか、それとも人間としての本能が拒絶しているのか。
金属製のドアが叩かれた。
「ジェイク、時間だ」
レオが入ってくる。
上等なスーツに身を包み、強烈な香水の匂いを漂わせていた。
「準備はいいな?」
「ああ。いつでもいける」
「いい顔つきになった。飢えた獣の目だ」
レオは満足げに頷くと、タブレット端末を操作した。
「対戦相手はヴィクターって男で、このアリーナで三年生き残っているベテランだ。全身義体化率40%。右腕にパイルバンカー、両脚にショックアブソーバーを内蔵している」
「……勝てるか?」
「賭けのオッズはお前の負けが8割だ。だが、俺はお前に賭けてるぜ」
レオは懐から、毒々しい赤色の液体が入ったアンプルを取り出した。
「これを飲め。脳のリミッターを外し、痛覚を遮断する。恐怖も消し飛ぶ魔法の薬さ」
ジェイクは躊躇なくアンプルを受け取り、中身を喉に流し込んだ。
舌が痺れるような化学薬品の味。
数秒後、脳髄が沸騰するような高揚感が全身を駆け巡った。
恐怖が消え、視界が異常なほどクリアになる。
「よし、行こうか。観客席にはセントラルの豚どもが100匹以上詰めかけてる。最高のショーを見せてやれ」
レオに導かれ、ジェイクは薄暗い廊下を歩き出した。
前方から、地鳴りのような音が聞こえてくる。
歓声だ。血と暴力に飢えた、野蛮な叫び声。
ゲートの先、まばゆい照明が爆発するように視界を覆った。
「赤コーナー! サウス区の新たな凶器! ジェイクゥゥゥ・ザ・リッパァァァ!!」
アナウンスと共に、ジェイクはリングへ足を踏み入れた。
高電圧電流が流れる金網デスマッチ。
観客席には、サウス区の住人が一生かかっても買えないような服を着た富裕層たちが、ワイングラス片手に狂ったように叫んでいる。
リングの反対側、青コーナーから影が伸びた。
ヴィクター。
人間というよりは、装甲車が人の形をしているような威圧感だった。
身長は2メートルを超え、全身の皮膚は硬質ゴムのような素材で覆われている。
左目は赤く発光するセンサー義眼。
右腕は丸太のように太く、先端には鋭利な杭が覗いていた。
男はジェイクを見下ろし、排気音のような低い声で笑った。
「……随分と可愛いのが来たな。迷子か? お坊ちゃん」
「19だ。アンタをスクラップにするには十分な若さだろ」
薬の効果か、ジェイクの口からは自然と挑発が出た。
「威勢だけはいいな。俺が最初に殺したガキも、そんな目をしていたよ」
ヴィクターが首を鳴らすと、機械的な駆動音が響いた。
「手加減はしない。すぐに楽にしてやる」
リング中央、全身を黒い甲冑で覆ったレフェリーが進み出た。
「ルール無用。武器使用可。決着は死、または降参のみ!」
審判が右手を高く掲げる。
観客のヴォルテージが最高潮に達し、ドームの空気が熱狂で歪んだ。
「――ファイトッ!!」
ゴングの音が、ジェイクの新しい人生――あるいは終わりの始まりを告げた。
そこ、試合決定で




