【依頼人】サウスの沼と闘技場
サウス区の路地裏は、いつも肺が焼けつくような臭いが淀んでいた。
頭上を覆うドームの空調システムは、この最下層エリアまで清浄な空気を運んではこない。
漂うのは廃棄ダクトから漏れ出す廃油、そしてどこかで腐敗しつつある有機タンパクの甘ったるい悪臭だ。
「きったねぇな」
さらに今日は、足元に誰かの吐瀉物がぶちまけられていた。
ジェイクは眉をひそめ、極彩色のネオンが水たまりに反射するぬかるみを避けて歩いた。
「……でさぁ! 見たかよ昨日の!」
「FPSチャンピオンの俺に不可能はないってな! ハハッ!」
前を行く仲間たちは粗悪な合成ドラッグでハイになっているのか、馬鹿でかい声で昨晩の戦果を喚き散らしている。
サウス区とイースト区の境界線。
警備の死角を突いて無人の配送ドローンを撃ち落とし、その中身を略奪したのだ。
「ほらよ、ジェイク。2000だ。端金だが文句言うなよ」
リーダー格の男が、指先で汚れたクレジットチップを弾いた。
ジェイクはそれを空中で掴み取ると、黙ってジャケットの裏ポケットにねじ込む。
2000クレジット。
姉のハリソンが、肺を悪くしながら工場で一週間働き詰めてようやく手にする額だ。
それを、彼はたった一晩のスリルと引き換えに手に入れた。
(……でも、この程度じゃな)
ジェイクは19歳。
6年前、両親を工場の爆発事故で失った。
企業発表は「操作ミス」だったが、実際は老朽化したリアクターの暴走だ。
安全コストをケチった結果の蒸発。
企業から投げ与えられた補償金は葬式代にもならず、姉と二人、このサウス区の集合住宅にしがみつくしかなかった。
14歳でドロップアウトした学校のことは、もう記憶の彼方だ。
学費の未納通知よりも、教師たちの目が耐えられなかった。
「サウスの人間」を見る、あの蔑んだ目。
この街において、IDコードに刻まれた居住区番号こそが全ての運命を決めるのだ。
気づけば、彼は路地裏のネズミになっていた。
ハッキング、恐喝、傷害。
生きるために必要な汚い手口はすべてストリートで学んだ。
仲間たちは彼を「ジェイキー」と呼び、安酒を回し飲みする。
そこには確かに、腐りかけの温もりと居場所があった。
(……だけど、なんかな……)
姉のハリソンを裏切っているという罪悪感。
彼女は毎日12時間、強化外骨格のアームを操作し続け、油まみれになって帰宅しては弟のために食事を作る。
一度も愚痴をこぼさない姉の静かな瞳を見るたび、ジェイクの胸は締め付けられた。
■
「……ただいま」
錆びついたドアを押し開けると、狭いリビングの空気が変わった。
キッチンに立つハリソンの背中が見える。
25歳。ジェイクより6つ上だが、過労と栄養不足でその背中はもっと老けて見えた。
短く切り揃えた黒髪の下、首筋には安物のインターフェイス端子が埋め込まれている。
フライパンで焼かれているのは、合成タンパクのブロック肉と、LED照明だけで育った色の悪い野菜だ。
サウス区の底辺に配給される、餌のような夕食。
「おかえり」
背中を向けたままの声。その硬さに、ジェイクは足を止めた。
「……ああ」
靴を脱ぎ、リビングに入る。
空気清浄機が唸りを上げて回っているが、部屋の緊張感は拭えない。
「今日は何をしてたの?」
静かな問いかけ。だが、それは導火線に火がついていることの証左だった。
「別に……連中とダベってただけだ」
「また、あのゴロツキたち?」
ハリソンが振り返る。その瞳は冷たく、弟の浅はかな嘘を見透かしていた。
「ニュースフィードで見たわ。昨夜、イースト区境界で配送ドローンが襲撃されたって。犯行時刻の映像、あんたのジャケットと同じのが映ってた」
ジェイクは唇を噛んだ。否定しても無駄だ。姉は一度言い出したら引かない。
「ジェイク」
ハリソンはため息をつき、料理の手を止めた。怒鳴り散らされる方がまだマシだった。
「いつまで続ける気? いつかコーポレートのドローンに蜂の巣にされるわよ。それとも、監獄行きがお望みなの?」
「……分かってるよ」
「分かってない!」
珍しくハリソンが声を荒らげた。
「あんたはまだ19よ。まともな職業訓練を受ければ……」
「まともな職業ってなんだよ!」
ジェイクの叫びが、狭い部屋に反響した。
「姉さんみたいに、神経すり減らして12時間働いて、それで月にたったの3万クレジットか? 俺たちはこの先ずっと、このカビ臭い部屋で、プラスチックみたいな肉を食って死んでいくのかよ!」
「……っ」
ハリソンは言葉を失い、ただ悲しげに弟を見つめた。
その視線の痛々しさに、ジェイクの怒りは急速に萎んでいく。
「……クソッ」
ジェイクは視線を床に落とした。
本当はこんなことを言いたいわけじゃない。ただ、姉に楽をさせたいだけなのに。
「いいのよ」
ハリソンは弱々しく微笑み、再びフライパンに向き直った。
「ご飯、もうすぐできるわ。手を洗ってきて」
ジェイクは逃げるように自室へ戻った。
ベッドに倒れ込み、シミだらけの天井を見上げる。
この閉塞した日常をぶち壊すには、圧倒的な金が必要だ。
小銭稼ぎの犯罪なんかじゃない、人生を一発で逆転させるような大金が……。
脳裏に、仲間の男がヤク混じりの息で囁いた言葉が蘇る。
――「アリーナ」に行け。
法の及ばぬ地下闘技場。
そこには、命と引き換えに掴める巨万の富があるという。
これまではただの都市伝説だと思っていた。
だが今のジェイクには、それが唯一の希望の光に見えた。
「……アリーナか」
■
翌日、ジェイクは仲間たちのたまり場へ向かった。
廃ビルの上階。
窓ガラスは全て割れ、ホログラム広告の残骸がノイズ交じりに点滅している。
ジャンキー崩れの仲間が一人、視神経に直結させたVRポルノに没頭して涎を垂らしていた。
「おい」
ジェイクはリーダー格の男の肩を掴んだ。
「昨日言ってた『アリーナ』の話。詳しく教えろ」
男はニヤリと笑い、吸っていた違法タバコの紫煙を吹きかけた。
「おやおや、優等生のジェイキーが人殺しに興味津々か? ……あれは最高のショーだぜ。
地下深層区画にある鉄火場だ。全身サイボーグの化け物たちが、オイルと血を撒き散らして殺し合う」
「……殺し合うのか」
「当たり前だろ。観客は富裕層だ。『安全な暴力』に大金を払うのさ」
男は端末を操作し、空中に粗い解像度の動画を投影した。
鉄格子の中で、腕をチェーンソーに変えた男が相手の頭部を粉砕している映像だ。
カメラに、血漿が貼り付く。
「……っ」
「勝てば一試合で50万クレジット。負けても、五体満足なら10万は出る」
「でも、負けたら死ぬんだろ?」
「運が良けりゃ生き残れるさ。ま、勝つには身体をイジる必要があるがな。筋繊維の強化、神経加速、装甲皮膚……生身じゃ秒殺だ」
50万クレジット。姉の年収の何倍だ?
リスクは死。リターンは、このクソ溜めからの脱出。
「改造費はどうするんだ。そんな金はない」
「興行主が立て替えてくれる。『出世払い』ってやつだ。勝てば返す。死ねば……まあ、回収屋がパーツを剥ぎ取るだけだ」
男たちの下卑た笑い声が響く中、ジェイクだけは真顔だった。
「誰が仕切ってる?」
「レオだ。レオナルド・マルコーニ。表向きは輸入業だが、裏じゃサウス区の命を握ってるフィクサーだ」
男はジェイクの目を覗き込んだ。
「本気なら紹介してやる。レオはいつだって、『新しいオモチャ』を探してるからな」
オモチャ。その響きに胃が縮んだが、ジェイクは頷いた。
「……頼む。繋いでくれ」
「ほう。気が変わらないうちに急げよ。次の興行は三日後だからな……」
■
その日の夕食。
皿の上には、いつもと同じ味気ない合成肉のソテー。
だが今日のハリソンは妙に静かだった。
工場での過酷なシフトが、彼女の生気を削り取っている。
目の下のクマ。荒れた指先。
ジェイクはフォークを止め、姉を見つめた。
「姉さん」
「ん? なに」
「もしさ、すげえ大金が手に入ったら……何がしたい?」
ハリソンはきょとんとして顔を上げた。
「大金? またそんな夢みたいなことを」
「いいから。もしも、の話だ」
彼女は少し考え込み、フォークで肉をつついた。
「そうね……まずは、本物の肉が食べたいかな。培養液臭くない、牧草で育った本物の牛のステーキ。それから、空調の効いた広いアパートに引っ越して……」
ふと、彼女の目が柔らかく細められた。
「でも、一番欲しいのは、あんたのまともな人生よ。悪い連中と縁を切って、真っ当に働いて、誰にも怯えずに暮らす。それが私の贅沢」
ジェイクは喉の奥が詰まり、言葉が出なかった。
姉の望みはあまりにささやかで、そして残酷なほど遠い。
「……分かった」
ジェイクは無理やり笑顔を作った。
「俺、ちゃんとするよ。姉さんを絶対に楽にさせてやる」
ハリソンは困ったように笑った。
それは弟の嘘を何度も許してきた姉の、諦めに似た微笑みだった。
「ありがとう、ジェイク。期待しないで待ってるわ」
(……ああ。待っててくれ、姉さん)
そんな彼女の微笑みの裏で、彼は冷たい決意を固めていた。
(絶対、姉さんを楽させてやるから。こんな狭苦しいところ出て、いい暮らしをさせてやるから)
最近は少し意識して一話の文字数を減らしています
そのうち最初の方の激長話も減らしていくかも




