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【依頼人】岐路

 それから、三ヶ月が経った。


 ソーンの「魂」は死んだ。あるいは、麻酔がかかっているだけかもしれない。


 最初の二週間は悪夢にうなされ、夜中に何度も嘔吐した。

 だが、人間は慣れる。


 一ヶ月目には、遺体を「有機素材」として難なく認識できるようになった。

 二ヶ月目には、夢を見なくなった。

 そして三ヶ月目――彼は完璧な職人になった。


(今日は……これくらいか)


 毎日、5体から10体の「素材」を捌く。

 老人の硬い肉、病死者の痩せた肢体、自殺した若者の柔らかい筋肉。

 淡々と刃を入れ、骨を抜き、ミンチにする。


 給料は毎月90万クレジット。

 ソーンはセントラル区に高級アパートを借り、両親を呼び寄せた。


「こんな景色……死ぬまで見られないと思ってたよ」


 窓から見える人工の夜景に、父は涙を流した。

 母は最新のサイバー義眼手術を受け、十数年ぶりに息子の顔を見て微笑んだ。


「ありがとう、ソーン。お前は私たちの誇りだよ」


「……あ、ああ」


 その言葉を聞くたび、胸の奥で微かな痛みが走る。

 だが、それもすぐに消える。


(これでいい。家族が救われるなら……)


 ソーンはそうやって心を殺し、日々をやり過ごしていた。



 だが、その「平穏」は唐突に終わる。


 午後2時。

 いつものように動物肉セクターで作業をしていたソーンに、直通回線が入った。


『ソーン。ドン・カルロがお呼びだ。至急、ペントハウスへ』


 ハリソンの声が、微かに震えているように聞こえた。


 エレベーターで最上階へ。

 金箔張りの廊下を進み、巨大な扉をノックする。

 食肉の加工には慣れたが、未だにこの怪物には慣れていない。


「お入りぃ!」

「し、失礼します」


 中に入ると、カルロは紫色のフェザーボアを首に巻き、緑色に発光する縦ロールウィッグを揺らしていた。


「ソーンちゃん! 待ってたわぁ!」


 巨体が揺れ、甘ったるい香水の匂いが押し寄せる。


「最近の働きぶり、素晴らしいわぁ! ハリソンから聞いてるわよ、加工スピードも量も文句なしだって!」

「あ、ありがとうございます、ドン」


 ソーンは能面のような表情で頭を下げた。


「それで……今日はどのようなご用件でしょうか」

「あら、つれないわねぇ。でも、そういうストイックなところも好きよん」


 カルロはウィンクをし、テーブルの上のホロプロジェクターを起動した。

 空中に、一軒の粗末な家屋が投影される。


「これ、サウス区のブロック31にあるお家。ターゲットよ」

「は――ターゲット?」


 映像がズームされ、窓越しの食卓が映し出された。

 父親、母親、そして10歳くらいの兄妹。

 合成食のスープを分け合い、ささやかに笑い合っている。


「貧しいけど、愛に溢れてる。まるで絵本に出てくるような家族でしょぉ?」

「え、ええ……」


 カルロはうっとりとした溜息をついた。

 じっとりと背中が湿る。


「この家族ね、とっても『美味しそう』なの」


 ソーンの呼吸が止まった。


「……は?」

「だからぁ、次のメインディッシュはこの4人なのよ。家族の絆で結ばれたお肉、きっと濃厚でコクがあるわぁ」


 カルロは無邪気に笑った。意味が、わからなかった。


「特に、この子供たち。未来への希望で目がキラキラしてるでしょ? その『希望』を圧力鍋で煮込んだら、どんな味になるのかしらって」


 ソーンは後ずさった。

 背筋に悪寒が走る。


「ま、待ってください。彼らは……まだ生きています」

「ええ。だから殺すのよ」

「殺す……? こ、これまでは、行政から引き取った遺体でした。でも、これは……殺人です!」


 声を荒らげたソーンに対し、カルロの表情がスッと冷えた。


「あら。あなた、何を今さらイイ子ぶってるの?」


 巨大な手が伸び、ソーンの喉元を掴む。

 ギリリ、と鋼鉄の指が食い込んだ。


「ぐっ……」

「死体処理だろうが殺人だろうが、同じことよ。あなたがやってるのは『お肉屋さん』。私は『お客さん』。簡単な関係でしょ?」


 カルロはソーンを放り投げた。

 ソーンは絨毯の上に転がり、激しく咳き込んだ。


「今回はね、調理法にもこだわりたいの」


 カルロは再び笑顔に戻り、映像を切り替えた。

 映し出されたのは、火炎放射器を持った武装集団。


「『直火焼き』よぉ!」


 カルロは両手を広げ、演劇のように語り始めた。


「深夜、彼らが寝静まった頃に火を放つの! 逃げ惑う4人! 迫りくる炎! お父さんは子供を庇って焼け爛れ、お母さんは絶叫の中で炭になる!」


 恍惚の表情。涎が口紅を濡らして垂れる。


「恐怖と熱で筋肉が収縮し、アドレナリンが極限まで分泌された状態の『レア』なお肉! それをね、まだ温かいうちにあなたが捌くのよ!」


 狂気。

 純粋培養された、悪意の塊。

 ソーンは震えが止まらなかった。


「い、いつ……ですか」

「明後日よ。新月の夜。暗闇に炎が映えて、きっと綺麗だわぁ」


 カルロは満足げに頷いた。


「楽しみにしててね、ソーンちゃん。あなたには、一番いい部位を味見させてあげるから!」

「……失礼、します」


 ソーンは部屋を出た。廊下の壁に手を付き、下を向いて――


「……オェェェッ!!」


 そのまま嘔吐した。胃液しか出なかった。


 家族の笑顔。

 両親の感謝の言葉。

 それら全てが、今は鎖となってソーンを縛り付けている。


(んな、バカな……!)


 明後日。

 自分は、あの見知らぬ家族の虐殺に加担する。そしてその肉を切り刻む。


 ソーンの中で、人間としての最後の光が消えようとしていた。



 2日後。

 深夜2時30分。サウス区、ブロック31。

 ソーンは路地の闇に溶け込んでいた。


 作業着ではなく、着古した黒のパーカー姿。

 フードを目深に被り、震える拳をポケットに隠している。


 目の前にはターゲットの長屋があった。

 塗装の剥げた壁、傾いた屋根。窓からは薄暗い豆電球の明かりが漏れている。

 あの中に、4人の「食材」が眠っている。


 ソーンの隣には異質な二つの影があった。

 カルロが雇った「専門業者」。

 全身を艶消しの黒いコンバットスーツで覆い、顔には無機質なセンサーマスク。


 彼らは人間というより、殺戮のためにプログラムされた機械のように見えた。

 一人はガソリン缶を、もう一人は軍用の火炎放射器を携えている。


「周辺クリア。監視カメラのループ処理完了」


 合成音声のような声が響く。


「燃料散布開始。着火まで120秒」

「了解」


 ガソリンを持った男が、音もなく長屋へ近づく。

 玄関、壁、通気口。

 手際よく液体を撒いていく。刺激臭が周りの錆の匂いを塗り替えていく。


「…………」


 ソーンは動けなかった。


 カルロは「あなたは加工場で待っていればいい」と言っていた。


 だが、ここに来てしまった。

 なぜだ? 止めるためか? それとも、自分の罪を見届けるためか?


 どちらにせよ、足が泥に張り付いたように重い。


 家の中では、明日も当たり前に目が覚めると信じて親子が寝息を立てている。

 それを、今から焼く。生きたまま。


 ……散布を終えた男が戻ってきた。


「準備完了。焼き加減は『ウェルダン』でな」


 火炎放射器の男が前に出る。

 パイロットランプが青白く灯り、ガスの噴出音が微かに響く。


「……っ!」


 ソーンの心臓が早鐘を打つ。

 今、トリガーが引かれれば、あの家族は終わる。

 悲鳴。絶叫。炭化する肉。


 ――中にいる家族は、かつてのソーンの家族と同じだった。


 貧しくて、惨めで、でも必死に生きていたあの頃の自分たち。


(それを、「美食」のために奪うのか? 俺はそこまで落ちたのか……?)


「照射開始。3、2……」


 男の指がトリガーにかかる。

 思考よりも先に、体が弾けた。


「やめろぉぉぉっ!!」


 ソーンは叫び声を上げ、火炎放射器の男に体当たりした。


「ッ!?」


 不意を突かれた男がバランスを崩す。放射口が逸れ、虚空に向けて炎が噴き出した。


 ゴォォォォッ!!


 路地が一瞬で真昼のように明るくなる。


「貴様、何をする!」

「逃げろ! 火事だ!!」


 ソーンは男を突き飛ばし、長屋のドアを狂ったように叩いた。拳から血が出るほど強く。


「起きろ! 殺されるぞ! 逃げろぉッ!!」


 中からドタドタという足音。

 ドアが開き、寝ぼけ眼の父親が顔を出した。


「な、なんだあんた……」

「走れ! 家族を連れて裏口から逃げろ!」


 その時、背後でカシャリと硬質な音がした。

 もう一人の男が、懐からサプレッサー付きの拳銃を抜いていた。


「裏切り者が。排除する!」


 銃口がソーンに向けられる。

 だがソーンは父親を突き飛ばし、自分も屋内へと転がり込んだ。


 シュッ、シュッ。

 乾いた発砲音が二回。ドア枠の木材が弾け飛ぶ。


「エマ! 子供たちを! 早く!」


 父親の叫び声。母親が子供二人を抱えて飛び出してくる。


 直後、玄関に火炎放射が撃ち込まれた。

 ガソリンに引火し、爆発的な勢いで炎が壁を這い上がる。


「窓からだ! 急げ!」


 ソーンは家族を裏窓へ誘導した。

 ガラスを肘で割り、子供たちを外へ放り出す。

 熱気と煙が充満し、視界が奪われる。


「あんたは!?」

「いいから行け! 俺にかまうな!」


 ソーンは家族を全員脱出させると、自分も窓枠を乗り越えた。

 路地裏を走る。

 背後で長屋が崩落する音が響いた。


 迷路のような路地を駆け抜け、大通りに出る手前でソーンは足を止めた。

 家族は無事だ。闇に紛れて逃げ延びたはずだ。


 ……だが、代償は大きかった。


 カルロへの明確な反逆。契約違反。


 これは「クビ」で済む話ではない。「死」だ。それも、最も惨たらしい形での。


「はぁ……はぁ……!」


 汗で濡れた顔を拭う。

 遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。


 ソーンは震える手で、路地裏の公衆端末に向かった。

 自分のIDはもう使えない。カルロの手が回っているはずだ。

 コインを投入し、実家の番号を押す。


 プルルル……プルルル……。


 長い呼び出し音。心臓が張り裂けそうだ。


(頼む、出てくれ……早く!)

『もしもし?』


 父の声だ。

 ソーンはその場に崩れ落ちそうになった。


「父さん……俺だ」

『ソーンか? こんな夜更けにどうした』

「聞いてくれ。時間がない」


 ソーンは早口でまくし立てた。


「今すぐ母さんを連れてアパートを出ろ。何も持つな。着の身着のままでいい」

『な、何を言ってるんだ? 火事か?』

「もっと悪い。……俺は、会社の怒りを買った」

『会社? あのオーナーか?』

「そうだ。俺は……彼らの命令に背いた。もうすぐ、そっちに追手が来るかもしれない」


 受話器の向こうで、息を呑む気配がした。


「すまない、父さん。俺のせいで……せっかくの生活が……」


 涙が溢れて止まらなかった。

 贅沢な暮らし、最新の医療、安らかな老後。すべて自分が奪ってしまった。


『……ソーン』


 父の声は、驚くほど静かだった。


『お前は、正しいことをしたのか?』


 その問いに、ソーンは唇を噛み締め、頷いた。


「……ああ。俺は、人殺しになるのをやめた」

『そうか』


 父の声に力が戻る。


『なら、いい。胸を張れ。……母さんは私が守る。イースト区の古い隠れ家に向かう。そこで落ち合おう』

「父さん……」

『死ぬなよ、ソーン』


 通話が切れた。

 ツーツーという電子音が、路地に吸い込まれていく。


 ソーンは受話器を戻し、空を見上げた。

 鉛色の雲の向こうに、セントラル区の摩天楼が光っている。


 あそこには、ドン・カルロがいる。

 そして、自分を「食材」として狙っている。


 逃げなければ。

 だが、どこへ?

 この街全体がカルロの狩り場だ。


 ソーンはフードを目深に被り直し、闇の中へと歩き出した。

 孤独な逃亡者としての夜が始まった。

この街で逃げ切れる人間なんてそれこそカーバンクルさんくらいなんスよ…

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