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【断罪】ウェルカム、下層生活

 セントラル区・ウィンターズ邸。


 レイラは豪華な自室のドレッサーに座り、髪にブラシを通していた。

 セントラル区の上層階に位置する高級アパートメントからは、ドーム全体を見渡せる特等席の景色が広がっている。


 毎晩のルーティン。

 高級ブラシによるブラッシングで輝く完璧な髪を維持する。


 彼女の髪は家系の誇りだった。

 セントラル区の名家ウィンターズ家の象徴である金色の髪は、遺伝子レベルで最適化されている。


「フフッ」


 満足げに自分の姿を鏡で確認する。完璧に整った顔立ち。

 彼女は生まれながらにして恵まれていた。

 セントラル区の特権、富、美貌、そして社会的地位。


「完璧ね」


 ブラシを置き、彼女は立ち上がった。

 明日はヴィットと会う予定だった。エリナに関する「データ」について話し合うためだ。

 実験台としての価値が尽きたかどうか評価する時期だった。


「それにしてもあの子……ククッ、随分と落ちぶれたわね」


 レイラは小さく笑った。かつての優秀な学生エリナ・マクレイを思い出し、今の廃人同然の姿と比較して。

 彼女の計画は完璧に成功した。


「努力だけじゃ這い上がれないのよ。這い上がれてたまるもんですか。下層民は一生下層にいればいいの」


 天井の照明が突然、一瞬だけ明滅した。

 レイラは眉をひそめた。セントラル区で電力供給が不安定になることはほとんどない。


 彼女は肩をすくめ、ベッドに向かった。


 寝室の照明を消そうとスイッチに手を伸ばした瞬間、背後に人の気配を感じた。


 振り返る前に、小さな手が彼女の口を覆った。


「動かないで」


 冷たい声。感情のない子供の声。

 レイラの背筋に恐怖が走る。


「んんっ……! んー!」


 口を覆われたまま、彼女は必死に抵抗しようとした。

 しかし体が動かない。何かに麻痺させられたような感覚。


「レイラ・ウィンターズ。セントラル区出身。ウィンターズ家の一人娘」


 声の主が、鏡越しに彼女の視界に入った。

 水色の髪。赤い瞳。13歳ほどの少女。白いパーカーを着ている。


「エリナ・マクレイを破滅させた共犯者だね」


 レイラの目が恐怖で見開かれた。

 この少女は何者? どうやって最上級のセキュリティを突破したの?

 少女はレイラから手を離した。


「……よく考えたら叫んでも無駄だった。このフロアの監視システムは機能していないから」


 信じがたい言葉だが、それが事実であると彼女はわかっていた。

 そうでなければ、許可なくこの家に入れるわけがない。レイラは震える声で言った。


「あなた、誰なの? ここで何をしてるの?」

「私はカーバンクル。404号室から来た」


 レイラは混乱した表情を浮かべた。


「404……? い、意味がわからないわ」

「エリナ・マクレイを覚えてる?」


 少女の赤い目が冷たく光る。

 レイラは一瞬たじろいだが、すぐに尊大な態度を取り戻した。


「ああ、あの下層民ね。それがどうしたの?」

「彼女の記憶と尊厳を奪ったね」


 カーバンクルは静かに言った。レイラは顎を上げて答えた。


「私は何もしていないわ。彼女が自分で選んだ道よ。下層民が分を超えた野心を持って上流に来れば、そうなるのは当然じゃない」

「だから彼女をプルースト・バーに誘ったの?」

「ただのパーティへの誘いよ。彼女が記憶カクテルにハマったのは自己責任」


 レイラは優越感に浸りながら答えた。


「彼女はあなたより優秀だった。それが許せなかったの?」

「だから何!? 努力すればサウス区出身でも成功できる――そんなくだらない理想が証明されるのが嫌だったのよ! あいつの方が私より優秀だなんて認めない!」


 レイラの目に怒りが浮かんだ。一度吐き出された怒りは止まらない。


「あの子は私のすべてを否定する存在だった。親から『なぜあなたはあの下層民のように優秀になれないの』と言われ続けて……!」


 カーバンクルは無感情にそれを聞いていた。レイラは歯噛みする。


「彼女に何を言われてきたの? 私を殺すつもり? そんなことしたら、あなたは一生お尋ね者よ!」


 カーバンクルは首を横に振った。


「殺しはしない。でも、あなたは彼女から尊厳を奪った。だから同じことをするだけ」

「どういう……意味?」

「ウィンターズ家の誇り。セントラル区トップ階級の優越感。全部奪わせてもらう」


 カーバンクルはポケットから小さな装置を取り出した。

 注射器のような形状だが、どこか洗練されているデザインだ。


「何それ!? 近づかないで!」

「これはブレインタグ。犯罪者の脳に埋め込まれる監視装置の一種。それを私が改造したもの」


 カーバンクルが一歩前進すると、レイラは叫び声を上げた。


「助けて! 誰か! セキュリティ!」


 しかしカーバンクルの予告通り、そこには誰も来なかった。

 装置が彼女の首筋に押し当てられる感触。鋭い痛み。そして脳の奥で何かがパチパチと爆ぜる感覚。


「あがっ! 何をした!? 私に何をしたの!?」

「サウス区の犯罪者識別タグを埋め込んだ。これからあなたは、あらゆる機械にサウス区の犯罪者として認識される」


「う……嘘! そんなことできるはずない!」

「すでに完了してる。あなたの生体認証情報、神経信号パターン、全て書き換えられた。

 システムから見れば、あなたはもうウィンターズ家の人間じゃない。最下層のサウス区民としか認識されない」


 レイラは震える手で自分の首を触った。小さなしこりが感じられる。


「これは……と、取り外せるでしょ? パパは最高の医師を用意できるわよ!」

「無理だと思うよ。これは標準型じゃなくて、ノース区で開発された実験型。取り出そうとすると、脳に致命的なダメージを与える」


 レイラの顔から血の気が引いた。


「ノ、ノース区? 嘘よ……嘘に決まってる……」

「信じられないなら確かめて。ドアを開けるとき、セキュリティシステムがあなたを拒否するから」


 カーバンクルはベッドに近づき、何かを置いた。


「これはエリナの最後の研究ノート。彼女があなたに騙される前の頭脳を示す証拠。記録されている実験は、記憶障害を治療するための研究。

 この研究で彼女は、多くの人を救えたかもしれない」

「だから何なの? そんなの関係ないわ!」


 カーバンクルはため息を吐くと、静かに窓に向かった。


「サウス区の生活も体験してみるといいよ。あなたが軽蔑していた人々がどう生きているか、身をもって知れるから」

「待って! これを取り除く方法を教えなさい! お金ならいくらでも払うわ!」


「お金じゃ解決できない問題もある。あなたはそれを学ぶんだよ。今夜から」

「やめて! パパに言いつけるわよ! 家族全員でアンタを探し出してやる!」


 カーバンクルは無表情に返した。


「探せばいい。でも『404号室』は存在しない部屋。私も同じ」


 窓が開き、夜風が部屋に流れ込んだ。


「さようなら、レイラ。新しい人生を」


 少女は窓から身を乗り出す。


「待って! ヴィット……ヴィットなら何とかしてくれる! 彼に言いに行くわ!」

「間に合わない。彼の店は今夜、もう存在しなくなるから」


 そう言い残し、カーバンクルは夜の闇に消えた。


 レイラは震えながら自室のドアに駆け寄り、開けようとした。

 ドアセキュリティが赤く点滅する。


『認証失敗。不正アクセス。警備システム発動』


 アラームが鳴り始めた。

 彼女の脳が「サウス区出身の不法侵入者」として認識されたのだ。


「いいえ! 私はレイラ・ウィンターズよ! この家の娘なのに!」


 彼女の叫び声が豪華なアパートメントに響き渡る。

 警備ロボットの重い足音が廊下から聞こえてきた。


『不正侵入者を確保。拘束プロトコル実行』

「やめて! やめなさい! 私はセントラル区の、選ばれた人間なの! サウス区のゴミなんかじゃなあぁい!!」


 レイラ・ウィンターズのセントラル区での特権生活は、この瞬間に終わりを告げた。



 プルースト・バー、裏施設内部。


 暗がりの中、カーバンクルの赤い瞳だけが微かに光を放っていた。

 壁と床に這うようにして、彼女は警備ドローンの死角を縫うように進む。


 プルースト・バーの表の顔である高級バーの裏には、まるで別世界が広がっていた。

 表のエレガントな内装とは打って変わり、ここは冷たい金属と機械音が支配する空間。

 配管が露出した天井、無骨なコンクリートの壁、床には微かな血痕が残る。


 「記憶抽出室」と書かれた部屋の前で、カーバンクルは立ち止まった。

 ドアの小さな窓から内部を覗き込む。


 絨毯の代わりに排水溝付きのタイルが敷かれた部屋。中央には金属製の椅子。拘束具付き。


 頭部に接続される複雑な装置が天井から吊り下げられている。壁には各種モニターとデータ処理装置。

 「記憶抽出」という言葉からは想像できないほど、それは拷問部屋に近い雰囲気だった。


「趣味が悪いね」


 カーバンクルは無表情のまま次の部屋へと向かった。

 廊下の奥、厳重な金属ドアの前で足を止める。


「データバンク……ここか」


 指先でセキュリティパネルに触れると、彼女の目の表面が一瞬幾何学模様に変化した。

 パネル内部の電子回路と交信するかのように、彼女の瞳が光を放つ。

 数秒後、ロックが解除される音が鳴り、ドアがゆっくりと開いた。


 中に入ると、そこは広大な円形ホールだった。

 壁一面に小さな引き出しが何千と並んでいる。各引き出しにはシリアル番号と日付が記されている。

 これが「記憶のデータバンク」。プルースト・バーの真の宝物庫だった。


 中央には円形のコンソール。

 カーバンクルはそこに近づき、検索システムを起動させた。


「エリナ・マクレイ」


 検索結果が画面に浮かび上がる。

 23件のエントリ。最初の記憶抽出から、最近のものまで全て記録されている。


 マークされた引き出し番号に従って、カーバンクルは壁面のキャビネットに向かった。

 M-17-892――彼女は引き出しを開け、中の小さな結晶体を取り出した。


 ブルーサファイアのように輝く小さな立方体。

 これが「記憶カプセル」、人間の記憶を保存する媒体だった。


「記憶……か」


 カーバンクルは一つひとつカプセルを取り出し、小さなケースに収めていく。

 エリナの人生の断片が、彼女の手の中に集められていく。

 幸せな子供時代の記憶。大学での研究成果。人生の重要な節目の瞬間。


 作業を続けるうち、カーバンクルは別の引き出しセクションに気がついた。

 「プレミアム・コレクション」と名付けられたエリア。最も高価な記憶が保管されている場所だ。


 そこには「強制セッション」「屈辱」「恐怖」といった不穏なカテゴリが並んでいた。


 すべての記憶は「提供者の同意済み」とタグ付けされているが、その真偽は疑わしい。


 カーバンクルがエリナの記憶を確保し終え撤退しようとした瞬間、警報音が鳴り響いた。

 天井の赤いライトが回転し始め、緊急の音声アナウンスが流れる。


「侵入者検知。セキュリティレベル5。全職員は避難プロトコルに従ってください」


 カーバンクルは冷静に状況を判断した。

 収集したエリナの記憶カプセルを確保しながら、出口へと向かう。


 だが、データバンクの重厚なドアが開いた時、そこには一人の男が立っていた。


「珍しい客人だ」


 ヴィット。プルースト・バーのオーナー。


 銀色の髪を後ろで結び、黒いスーツに身を包んだ彼は、微笑みながらカーバンクルを見つめていた。


「私の大切なコレクションに興味があるようだね」

「……エリナ・マクレイの記憶を取り返しに来た」

「ああ、彼女か。興味深い実験台だった」

「実験台……」

「そうだよ。彼女の脳は記憶の受容性が極めて高かった。彼女のようなケースは非常に貴重なんだ」


 カーバンクルは静かにヴィットを見つめ言った。油断なくその背後の警備員たちの武器を確認しながら。


「あなたは人間を商品にしている」

「商品?いや、芸術だよ。私は記憶という芸術を扱っているのさ。人々は喜んで記憶を売り、また買う。需要と供給の原則通りだ」

「騙して依存症にさせ、記憶を奪う。それは犯罪じゃないの?」

「法律では明確に禁止されていないんだ。グレーゾーンというやつさ」


 ヴィットは肩をすくめ、カーバンクルを興味深そうに観察した。


「君は一体誰なんだい? 普通の子供には見えないね」

「私は404号室から来た」


 その言葉を聞いて、ヴィットの表情がわずかに変化した。


「なるほど。君が噂の『始末屋』か。都市伝説だと思っていたよ」


 始末屋という言葉を聞き、武装した警備員たちが武器を構える。

 しかし、ヴィットは手を上げて彼らを制止した。


「大丈夫だ。私が対応する」

「は、はぁ」


 警備員たちは躊躇いながらも後退した。

 そのデータバンクは二人だけの空間になり、ヴィットは再びカーバンクルに向き直った。


「君のような存在に興味がある。どんな記憶を持っているのか見せてくれないか?」

「…………」


 カーバンクルは黙って出口を見た。そこはヴィットによって遮られている。


「取引しよう。エリナの記憶カプセルはすべて持って行っていい。代わりに、君の記憶を少し見せてほしい」

「取引をするつもりはない。力ずくで記憶を持っていくだけ」

「残念だ。……では、力ずくで」


 彼はコートの内側から小型のスタンガンを取り出した。


「子供相手には使いたくなかったが」


 カーバンクルは防御の姿勢を取る。

 しかし、ヴィットは武器を使わず、突然別のボタンを押した。

 すると天井から細いワイヤーネットが落下し、カーバンクルを覆い尽くす!


「!」

「最新のニューラルスタンネット。神経系を一時的に麻痺させる。動けなくなるはずだ」


 ネットに絡まれたカーバンクルは、一瞬身体が硬直するのを感じた。


「ぐ……!」


 ネットが激しい電流で光り輝く。

 通常の人間なら即座に倒れるはずの電流量だが、彼女は何とか立ったままでいた。

 しかし、完全に動きを取り戻すには時間がかかる。


「驚いたな。普通の人間なら即効なのに」


 ヴィットは近づき、スタンガンをカーバンクルの首筋に押し付けた。

 高電圧の放電音が鳴り、彼女の体は強張った。


「ぐっ、あ……!」

「君は本当に特別だ。是非とも研究させてもらいたい」


 完全に意識を失うわけではなかったが、カーバンクルの体は思うように動かなくなった。

 彼女の赤い瞳はなおも鋭く光を放っていたが、身体の自由は奪われていた。


 ヴィットは満足げに微笑み、コムリンクで部下に指示を出した。


「VIPルームを準備しろ。特別な客人だ」


 彼は麻痺したカーバンクルを抱え上げた。子供のような体格通り、その体重はひどく軽い。


「君の脳が持つ記憶を見るのが楽しみだよ。きっと素晴らしいコレクションになる」


 ヴィットはデータバンクを後にし、狭い廊下を抜けて奥へと進んでいった。

 カーバンクルの意識はまだ残っていたが、身体はほぼ完全に麻痺していた。

 彼女の手から、エリナの記憶カプセルが詰まったケースが落ちた。

大丈夫か!?カーバンクルさん

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