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【依頼人】命の価値

 西暦2080年。

 汚染された外気から隔離されたドーム都市、ネオ・アルカディア。


 天蓋を覆う巨大スクリーンが「夜」のモードに移行し、人工の星々が冷たい光を放ち始める。

 地上では雨が降り出し、路地という路地に張り巡らされたネオンサインの光をアスファルトに滲ませていた。


 都市の南側――サウス区の奥まった路地。

 ドローン配送便の低周波音が絶えず響く一角に、その安宿「ナイト・レスト・イン」はあった。


 剥がれかけたネオンは雨に打たれ、ショートするように不規則なノイズを発している。

 薄汚れた外壁は、反体制的な電子グラフィティで幾重にも上書きされていた。


 重い化学素材の自動ドアが、空圧の抜ける音を立てて開く。入ってきたのは、疲弊しきった男だった。


 ミシマ・ジン、42歳。

 イースト区の巨大工場で働く契約労働者。

 彼が着込んだナノファイバー作業着は、機械油と冷却液の酸っぱい匂いを吸って重くなっていた。


 胸にプリントされた「クロノス・インダストリー」のロゴは、汚れと摩耗でほとんど判読できない。


 視神経インプラントが不調なのだろうか、視界の端に、警告を示す赤いアイコンが絶えず点滅している。

 ここ三日、彼はろくに睡眠もメンテナンスも行っていなかった。

 有機質の腕は小刻みに震え、サイバネティクス化された脚は関節部から軋むような音を立てている。


「……ようこそ」


 フロントカウンターの向こうから抑揚のない声がした。

 禿げかけた夜勤係の男が、古びたコンソールから顔を上げる。

 彼の目もまた、安物の義眼に置換されていた。


「部屋を……」


 ジンの声はひどく枯れていた。

 体内の水分量が危険域にあることを、身体管理AIが警告している。


「一泊で?」

「404号室を……頼む」


 フロント係の義眼のレンズが、カチリと音を立てて絞られた。

 一瞬、男はジンの顔をデータ照合でもするかのように凝視する。


 404号室。

 それは、裏社会のネットワークの最深部でだけ囁かれる、存在しないはずの部屋番号。


「……404?」

「ああ。それ以外は、いらない」


 ジンの濁った瞳の奥に、最後の残り火のような強い意志が宿っていた。


 フロント係はしばらく無言だったが、やがてカウンターの下から一枚の古い磁気カードキーを取り出した。

 チップ式の最新キーではない、時代錯誤な代物だ。

 キーには確かに「404」という数字が刻印されている。


「料金はクレジット先払いだ。端末にIDを」


 ジンは震える指で端末に触れ、認証を済ませた。

 微かな電子音と共に、彼の口座から決して安くはない金額が引き落とされる。

 カードキーを握りしめる力だけは、まだ彼に残されていた。



 404号室。

 ドアを開けると、オゾンの匂いが鼻をついた。他の部屋と変わらない、殺風景な空間だ。

 ベッド、小さなテーブル、一脚の椅子。

 壁に埋め込まれた情報端末のスクリーンは、砂嵐のようなノイズを映し続けている。


 ジンは部屋に入るなり、糸が切れたようにベッドへ崩れ落ちた。

 ちらつく天井照明を見つめながら、ひび割れた唇から言葉が漏れる。


「すまない……すまない、ミカ……パパは、何も……」


 涙がこめかみを伝い、汚れた枕に染みを作った。

 警察も公安も、巨大企業の名前が出た途端に及び腰になった。

 この三日間、彼はあらゆる正規の手段を尽くし、そして絶望した。


(404号室の都市伝説……)


 それは最後の蜘蛛の糸だった。

 ネットワークの深層で、真偽不明の情報に混じって囁かれる噂。


 ――404号室を予約すれば、「復讐屋」が現れる。

 ――法では裁けぬ悪を、痕跡もなくデジタルとフィジカルの両面から「削除」してくれる、と。


 馬鹿げた与太話だ。だが、彼にはもうこれに賭けるしかなかった。


 ――そのとき、部屋の照明がノイズを発して一瞬、消えた。


 非常用電源の赤いランプが点灯し、部屋が不気味な静寂に包まれる。

 空調の音も、外の喧騒も、すべてが遮断された。


「な、なんだ……っ?」


 ジンは身を起こした。空気が違う。密度が、温度が変わった。

 部屋の隅の暗がりに、人影が立っている。


「……誰だ?」


 影が、赤い光の中へ一歩踏み出す。そこにいたのは、ひとりの子供だった。


 最初に目に入ったのは、水色の髪。

 ふわりとしたショートヘアは、非常灯の光を乱反射し、デジタル粒子のようにきらめいている。


「私の名前は、カーバンクル」

「……?」


 顔立ちは幼く、13歳ほどにしか見えない。とても中性的で、男とも女とも見える。

 だが、その表情は完璧な無機質。

 精巧に作られたアンドロイドのように、感情の起伏が一切読み取れなかった。


 そして、その瞳。

 暗闇で燐光を発する、鮮やかな赤色の義眼。

 瞳孔の部分が絞られる代わりに、複雑な幾何学模様が明滅し、高速で何かを演算しているようだった。


「あなたが、私を呼んだ」


 子供の声は低く、平坦だった。しかしその中にも、どこか舌足らずな幼さがあった。声を聞いてようやく、その子供が女らしいとわかる。

 ジンは言葉を失い、ただその赤い瞳が自分をスキャンしていく感覚に身を固くした。


「依頼内容を言って」


 それは質問というより、システムがユーザーに入力を促す音声ガイドのようだった。

 ジンの心臓が激しく脈打つ。本当に現れた。都市伝説は、現実だった。


 "カーバンクル"と名乗った少女は、彼の前の椅子に音もなく腰を下ろす。

 その赤い義眼が微かに駆動音を立て、ジンの心拍数や発汗量をスキャンしているかのように明滅した。


「三日前……俺の娘が。ミクが……」


 言葉が詰まる。ジンはサイバネ化されていない生身の拳を、膝の上で強く握りしめた。



 ――三日前、午後3時42分。


 イースト区とサウス区を隔てる境界大通り。

 教育ドローンに引率された子供たちが、一斉に歩道で足を止める。

 彼らの網膜ディスプレイに、歩行者用の停止を示すARマーカーが赤く点灯していた。


『赤ダカラ、止まってネ』

「はーい。わかってるよ」


 ミク・ミシマ、8歳。

 父親に似て少し頑固そうな眉に、母親譲りの大きな瞳。

 背負った学習用データ端末が、彼女の小さな肩に重くのしかかっている。

 教育ドローンに軽く返事をしながら、青信号に切り替わるのを待っていた。


 その時、セントラル区へ続く高架道路から、一台の高級エアカーが猛スピードで降下してきた。

 反重力エンジンが空気を焼く低周波音を撒き散らす。

 ボディは最新の光学迷彩で真紅に彩られ、滑るように地上路へ進入してくる。


 コックピットでは、若い男が苛立たしげに舌打ちしていた。

 リチャード・ハミルトン、28歳。

 彼の体内ナノマシンが、許容量を超えるアルコールを分解しきれず、警告アラートを発している。

 だが彼はそれを無視し、操縦桿を握りしめていた。


「クソが……! この会議に遅れたら、また親父の説教だ……!」


 彼は網膜に表示される交通法規を無視した。

 歩行者用信号が青に変わった瞬間、加速ブーストを起動。

 子供たちの群れに向かって機体を突っ込ませる。


 最初に悲鳴を上げたのは、教育ドローンの合成音声だった。


『危険! 危険!』


 しかし、モーターの加速は並大抵のものではない。子供が避けるような猶予はなかった。


「え――」


 エアカーの機首が、ミクの小さな体を真正面から捉えた。


「あぎゃっ」


 金属と生身が衝突する、濡れて鈍い音。

 彼女の首筋に埋め込まれた学習用チップが火花を散らし、砕け散った。


 ミクの体は、まるで出来の悪い人形のように宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる。

 リチャードの視界の隅で、彼のエアカーの対人センサーが【TARGET LOST: ORGANIC】――生体反応ロスト――という無機質なログを吐き出した。


「チッ……! ボディに傷がついたか……?」


 リチャードは一瞬だけ機体を停止させる。

 強化ガラス越しに、赤い水たまりの中に転がる「障害物」を視認した。


 周囲の人間がこちらを見ている。

 誰かの網膜カメラが、自分を記録しているかもしれない。


「……面倒なことになったな、クソ!」


 彼は再びアクセルを踏み込んだ。

 機体は轟音と共に再加速し、セントラル区へと消えていく。

 後には、機能停止した教育ドローンの警告音と、動かなくなった少女だけが残された。



「ミクは……即死でした」


 ジンの声は、怒りと悲しみで原型を留めていなかった。

 カーバンクルはただ黙って、その言葉の全てを受け止めている。


「街頭の監視システムに、ナンバーも顔認証データも全部残ってた。なのに……!」



 ――事故から6時間後、サウス区分署。


 ホログラムのディスプレイが並ぶ薄暗い一室で、担当刑事は疲弊しきっていた。

 安物のサイバネ義腕が、テーブルの上で微かな音を立てている。


「被疑者は特定済みです。リチャード・ハミルトン。セントラル区在住」

「逮捕はまだなのか! 娘を殺したんだぞ!」


 ジンの問いに、刑事は視線を逸らした。


「……それが、彼の父親が、ハミルトン・コーポレーションのCEOでして」


 ハミルトン・コーポレーション。

 このネオ・アルカディアのインフラを支配する巨大複合企業。

 電力供給、ネットワーク管理、そして警察組織のシステムすら彼らの子会社が提供している。


「それが何だ! 人殺しだろうが!」

「上層部から、圧力があったとしか……。我々が使っている捜査AIのデータベースにすら、アクセス制限がかけられています」

「……なんだと?」

「申し訳ない……」

「おい……おい! 何が『申し訳ない』だ!? なんなんだ! アイツを捕まえろよ!!」


 それは事実上の「捜査打ち切り」宣言だった。



 ――同日夜、セントラル区の超高層タワー最上階。会員制バー「プラチナ・スカイ」。


 窓の外にはドーム都市の夜景が広がる。

 広告飛行船のホログラムが、雲間をゆっくりと泳いでいた。


「いやー、マジで焦ったぜ。まさかオーガニックのガキにぶつかるとはな」


 リチャードは希少な天然物の酒を煽りながら、友人たちに武勇伝のように語っていた。

 後悔の色など微塵もない。


「で、お咎めなしなのか?」

「親父が全部揉み消した。どうせサウスの貧民だ、慰謝料代わりに最新の義体でもくれてやれば黙るだろ」


 友人の一人が、それでも不安げに尋ねた。


「でも、死んでるんだろ? まずいんじゃないか?」

「はっ、一匹減っただけだろ。むしろ都市のリソース浄化に貢献してやったんだ。あんな不良品の遺伝子、野放しにしとく方が社会にとっての損失だろ?」


 リチャードは肩をすくめて笑った。周囲は彼の権力を恐れ、誰も反論しない。


「ぶつかった瞬間さ、俺の対物センサーが『未知の有機的障害物』って警告出すんだよ。ボールでも蹴飛ばしたかと思ったぜ。そしたらフロントガラスの向こうで、ガキが部品みてえに吹っ飛んでさ」


 彼は楽しそうに手振りを交える。


「あの目、忘れらんねえよ。『なんで?』みたいな顔してこっち見てんの。自分の価値も理解してねえ、ただの生体部品のくせによ。ああ、パーツのクリーニング代の方が高くつきそうだぜ」


 バーの空気が凍りつく。だが、リチャードは意にも介さず、次の酒を注文した。



「奴は……今もセントラル区で、何一つ変わらない生活を送っている」


 ジンの声は、憎悪で低く唸っていた。

 彼は窓際へ歩み寄り、この安宿からは米粒のようにしか見えないセントラルの摩天楼を睨みつけた。


「金と権力があれば、命の価値さえ捻じ曲げられるってのか。このクソったれな都市では……!」


 カーバンクルが、静かに立ち上がった。


「ターゲットは確認した」


 その声は、相変わらず感情の無いシステム音声のようだった。


「リチャード・ハミルトン。ハミルトン・コーポレーションCEOの嫡男だね」


 カーバンクルは小さく頷いた。


「契約成立。――それじゃ、今から行ってくるから」

「え……お、おい!?」


 その言葉と共に、彼女の赤い義眼の幾何学模様が一つの点に収束する。

 そして、まるで散歩にでも行くようにホテルのドアを開いて出ていってしまった。


 部屋には重すぎる静寂と、彼の口座から高額な依頼料が引き落とされたことを示す電子通知の光だけが残されていた。


 ジンは呆然と、少女が立っていた空間を見つめた。

 現実感が、急速に薄れていく。


(……何だったんだ、今のは?)


 冷静になってみれば、あまりに馬鹿げた話だった。

 水色の髪をした小さな少女。どう見ても、巨大企業の権力に立ち向かえるような百戦錬磨の猛者には見えない。

 あれは、本当に都市伝説の「始末屋」だったのか?


(からかわれただけじゃないのか……?)


 最悪の可能性が脳裏をよぎる。

 絶望した人間を食い物にする、手の込んだ詐欺だったのかもしれない。サウス区では珍しくもない話だ。

 娘を失い、なけなしの金まで騙し取られた惨めな男。それが今の自分の姿なのではないか。


 無力感が、鉛のように全身にのしかかる。

 彼はふらふらとベッドに戻り、再び崩れるように身を投げ出した。


 だが、それでも。

 脳裏に焼き付いて離れない光景があった。


 あの赤い瞳。

 子供らしい純真さなど微塵もない、冷徹なまでに研ぎ澄まされた光。

 「今から行ってくる」と告げた時の、揺るぎない確信。


 信じたいわけではない。ただ、もうそれに縋るしか残されていなかった。

 警察も、社会も、この都市のシステムも、彼には味方してくれないのだから。


(……くそ……)


 ジンは固く目を閉じた。

 騙されたのだとしても、構わない。

 せめて一夜だけでも、憎い男が地獄へ落ちる夢を見させてくれるなら、支払った金は決して高くはない。


 彼はただ、この長い夜が明けるのを待つことしかできなかった。

 復讐の行方を、あの小さな暗殺者に委ねて。

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