第7話 ニュータウン
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幸助はあの日、祖母とここまで来たのだ。私鉄路線の駅の名前なんてどうだっていいじゃないかと思いながら、苦しい思いをぐっと唾をのむようにこらえながら、幼い彼は高架下のレンガ畳のユリの木の並木道を歩いていた。母親と孝道は先に新しい家へと向かった。彼と祖母は遅れてくるようにして、幸助と孝道の間に諍いを起こさないようにとしていた。
このころはまだ、この丘陵地帯に作られたニュータウンは寒々していて、空気も緑の匂いがしていた。やがて、あののっぺらとした丘に家が建ち、大通りは整備され、車が多く行きかうのだが、それまでには15年は月日を要した。
改札を抜けて、まっすぐ行くとロータリーが在って、そこにはすでにバスがいた。祖母は幸助に〝行くよ〟と言いながら、走り出していて、彼の腕は大きく引っ張られて痛かったけれど、すぐに彼も駆け足になって、祖母の走りを追いかけていた。
バスに乗るとよくわからない臭いが鼻を打つ。金属のこすれた後の熱っぽい臭いか、ゴムを焼いた後の苦い臭いか。幸助にとってそれはいい臭いのようでもあるし、毒のような気もする。大型バスは武骨な見た目通りの内装をしているといつも感じた。まだそれは小さな子供であるからだろう。手すりを掴まなければ幸助には乗車できないし、乗り込むための段差も足を目一杯上げなければ躓いて転げてしまいそうになる。祖母は先に上にあがって手すりを掴んで幸助を見た。気をつけて上がってくるんだよと言われて、幸助は縁石の端に立ったまま祖母を見上げた。早く乗り込まなければと思いながらも、縁石から一段降りたロータリーの舗装に両足をついて、入口の脇にある手すりを両手得つかまって、自分の身体を強く引っ張り一段目に乗り込むと両足をついたときはしゃがんだ姿勢になった。もう一段高い段差をあがるのに幸助は今一段上がっただけでぜんそくの発作を起こして息を荒々しく呼吸をした。治まるまで不ヒューヒューと笛のような息を鳴らしている。気を落ちすかせた頃に、つばを大きく呑み込んで、発券機の脇の手すりにしがみつきもう一段強く足を延ばして全身を押し上げた。
運転手は放送のアナウンスをすると、その瞬間強く咳払いをして喋りだした。
「発車しますよお——」
祖母は先に席を取っていてくれたらしく、バスにやっとの思いで乗り込んだ幸助を認めると手招いて急いで彼を空けてとっておいた席に座らせた。その瞬間バスはガタガタと震えだし、エンジンがぶるぶると揺れだした。景色は動き出し、幸助は背もたれに勢いよく押し付けられるようになった。バスはハンドルを切ってロータリーを回りだし、行き先へと出発した。
遠方には小高い山脈が見える。その日は、昼間はよく晴れた。富士が建物の隙間から時々顔を覗かせているのが幸助の目にもよく見えた。駅の高架をくぐると、大通りは桜の木の並木になっている。一直線に伸びるその道は軽い傾斜の上り坂になっていて、遠方にはいくつもの棟が建つ団地群が見えた。そして午前中の空は明るすぎるくらいの陽ざしを乱反射し、まぶしかった。
大通りを登りきったところのR寺というバス停で降りて、祖母はなおも幸助の手を引いて歩いた。
「新しい家はあそこ」
祖母は大通りを渡って小道を抜けた先の神社の前を通り抜け、広い公園からひと区画過ぎたところで灰色の黒い屋根の家を指した。バス停からは5分たらずでその家についた。その家は新しい木の匂いと、土の匂い、そこに芽吹く花の匂い、そんなものがあった。それ以外にその家の在る通りには、何軒も家はなかった。まだ空き地がそこらにたくさんあって、草がボウボウと生えていた。
よく覚えていないがこの日も幸助は体調を悪くしていた。彼は幼いころ病弱で、風邪でなくても常に鼻炎を起こして鼻が詰まり、いつも頭はぼうっとしていた。少し油断すれば、その鼻炎から熱が出たり咽喉を壊したりして、すぐに風邪を引いた。引っ越してくる前までは、保育園に通っていた。しかしその病弱さゆえに保育園はちょくちょく休んで、祖母の家に預けられたり、母親に連れられて病院に行くことが多かった。そのために彼の幼少は友だちのいない独りぼっちの時だった。
この日も彼はぼうっとしていて、結局、左官がまだ塗ったばかりの玄関の前のセメントの段に足を落としてしまった。そのことで父が不機嫌になった。彼はいつもそうだった。いつもそうした病弱さゆえに家族の足を引っ張るようなことをして、父を怒らせた。しかし父がそんなことでどうして怒ってしまうのか幸助には分からなった。彼には理解できない厳しさが父にはあった。
「すみません。うちの馬鹿が、足を下ろしてしまったみたいなので。塗りなおして頂けないでしょうか?」
左官屋は快く「はいよ」と言ってセメントを塗りなおした。
幸助は均されていく三和土の平場の面を見ながら、幼いながら自分がなぜここに来たのだろうと思わざるを得なった。




