第5話 家
「ねぇ、ちょっと待ってよ」
「え?」
ショベルカーが住宅の密集している何だか汲々としているような所を一台、一軒の家を崩していた。
「あれ、面白くない?」
「ああ、家ね。壊しているんでしょう?」
幸助は急に素っ気なくなった。亜子さんの好奇心とは裏腹に、そこで起きている情景が無味乾燥とあるように見えた。あんな物、壊れてしまったって、彼にとっては関係ないと思って見ていた。
亜子さんが勿論そんなことを言いたいが為に〝面白い〟と言った訳ではなかったのは分かっていた。唯、その時の幸助には、その誰のものでもないような家がショベルカーで崩されていくという非凡な様を、何でもないような事柄に見えて仕方なかった。
タイル貼りの風呂場に浴槽があって、それがショベルカーに因って剥き出しにされてしまったとしても、もぬけのからのその家に人間味のある時間を見出すことへの感慨は、彼にとって崩れていくその一軒の家を見ているより更に無意味に見えた。
そしてその浴室の隣の小部屋、凡そ四畳半か、六畳かの部屋の棚が何故か未だ残されて、その中からハンガーに掛けられているその家のもとの家主の服が露わになって彼の眼に付いて、その家の生活を想像させ得たとしても、又、廊下の壁の下半分が板張りで、もう上半分が壁紙の貼られた清潔感の感じる清らかな場所だとしても、彼にはもうどうでもいいことなのだと、なんとなしに彼は言いたかった。
どうせこの家に不幸はないのだ。これで幸せに終わるのだ。彼にはこの終わりがとても幸福なのだと思った。
――それに、確かに彼には、何も関係なかった。
何の話にも汚されていないそのままの無垢な家が、こうして意味有り気に、不要なものとして壊されて行く。その瓦礫の落ちる瞬間を、一階を制しているキッチンのあの雑多な空間を、何の問題をも感じずに唯、そう、彼は見ていた。
「——中、ああなっているんだね」
「本当だ」
幸助はそのあと黙ったまま、大学の小高い丘をあがった。亜子さんとは資料棟の前で別れた。幸助はこの後、必修のゼミへ赴かなければいけなかった。
ゼミの後、幸助は大学の図書館によって、課題に取り組んだ。レポートの大枠を仕上げて、文献に目星を付けると、学生証を受付で差し出してその文献を数日借りることにした。図書館を抜けて直ぐ左手に研究棟の2階に直接通じる入り口がある。学生課を通り過ぎてエレベーターに乗って8階まで行くと、学科の資料室に行ける。幸助はエレベーターを出て資料室とは反対の大きな窓越しの景色を眺めた。彼はそこからの眺めが好きで、たびたびぼんやりとその場所にたたずむことがあった。幸助は資料室にあるコピー機を借りに来ただけだった。文献に貼ったたくさんの付箋の頁を資料として印刷しておく必要があったのだが、帰るまでにはまだ時間があった。その束の間の時間に、亜子さんは資料室から出てきて彼に声をかけた。「やあやあ」と言われて低く手を振る亜子さんを見ると「どうも」と無作法な応答しか幸助にはできなかった。
「これから御用?」
「本を何頁かコピーしようと思いまして」
「だったらコーヒー淹れるよ」
亜子さんはオレンジ色の革のショルダーバッグを肩にかけてこれから帰ろうかとしているように見えたが、幸助を認めると資料室に戻って湯沸かし器の電源を入れた。幸助はそんなにしてもらう必要はないと思った。けれど、亜子さんは「遠慮しなくてもいいよ——」というので、幸助は亜子さんの厚意に甘えて「それじゃあ」と言って、礼を言ってから資料室で文献を探しはじめた。亜子さんは資料室のド真ん中にあるその部屋の大半を占める大机の端に、肩に掛けていたバッグをばさりとおいて、湯沸かし器の脇に置いてあるいくつかのマグカップの中からふたつ取りだして、インスタントコーヒーの蓋をキュッと音を立てて開けた。見かけにも香ばしく見えるその瓶に入っているコーヒーの粉がマグカップの中に入れられるのを見ていると、幸助は少し嬉しい気持ちになった。幸助は亜子さんコーヒーの準備をしている間に、いくつかの文献を取り出して、大学の図書館で借りた文献と一緒にコピー機に向った。亜子さんは、大机の脇に立ったまま並べたコップを少し眺めてから、傍にあった椅子に座って、幸助を見た。幸助は文献の頁を刷ってはまためくり、刷ってはまためくりと繰り返して必要な頁をいくつも開いて作業をこなした。彼はそうしているうちに、近くに座っている彼女が自分を見ていることに気が付いて目を合わせて少し笑った。そうすると彼女も目じりを柔らかく落として微笑んで見せた。
「どんな論文を書くのかな?」
「それは……秘密です——」
ひとこと会話を挟むと湯気がゴウと音を立てて沸き上がった。亜子さんはインスタントの粉が入ったふたつのマグカップを手にもって湯沸かし器の注ぎ口に充ててお湯を入れた。幸助はすぐに印刷を終えて亜子さんに淹れてもらったコーヒーを飲み、ゆったりした時間を過ごした。亜子さんは大机のコピー機側に座り、幸助もその傍に座っていたが、たがいにコーヒーを口にしているだけで、その時はほとんど会話をしなかった。コーヒーを飲み終えると、亜子さんはマグカップを持って資料室から出ていこうとする。幸助は僕がするからというと、亜子さんは〝いいって〟と言って、廊下の反対側にある給湯室に行った。使った食器はそこで洗って乾かさないといけない。幸助は少しバツ悪く思ったが、亜子さんがそうしている間に印刷した資料をカバンに仕舞うことを思いついて、印刷機のそばへ行った。幸助は資料と文献をカバンにしまうと帰る準備をした。そこへ亜子さんが戻ると〝待ってよわたしも行くから〟と少し懇願するように幸助に言った。そして幸助は亜子さんと一緒に帰ることにした。




