第49話 暗闇
それから幾晩過ぎて、祖母は浴槽に沈んでいた。気を失ったのだった。その日の晩ご飯が浴槽の中で浮遊していて、吐いたような跡があった。幸助はそれを見つけて慌てて祖母を浴槽から引き揚げた。――リビングまで抱えて持って行き、ソファに座らせた。祖母は少し目を開いて、何かを伝えようとするがそれは声にはならなかった。幸助はそのそぶりを見ながらも急いで祖母の身体を拭いて全身にバスタオルを巻いた。それから救急に連絡して、伯母にも連絡した。祖母は全身だるそうにしているが、腕と指を動かして、何かを訴えようとしていた。しかし幸助にはそれが何であるかはわからなかった。
伯母はすぐに来て、祖母の傍に駆け寄った。
「祖母さん! 聞こえる?」
伯母は大きな声を張り上げて祖母の意識を確かめようとした。祖母は目を覚ましている様だったが、危険な状態だった。
救急車がすぐに来て、祖母は担架に乗せられた。伯母は祖母の寝間着を用意して、幸助と一緒に救急車に乗り込んだ。
動き出すとサイレンが鳴った。
(不思議だった。普段遠い闇で響いているサイレンが、今は自分の頭の上で響いている)
――年齢は。
――八九です。
――血液型は。
――O型です。
――以前にこういうことは。
――三月ほど前に一度。その時の検査で肝臓にのう胞があることと、脳に腫瘍があるかも知れないと。
――他に病気は。
――在りません。アレルギーや喘息とかもありません。
――分かりました。
「年齢八九、女性、O型、三か月前に一度入院、入院時に検査、肝臓にのう胞、脳腫瘍の…………――」
祖母が救急病棟に運ばれると、幸助は担架から離れた。
その時彼はなにか大切なものを失った気持ちになった。頭の中でその何かを探ろうとしても暗い靄の中で空気を掴むばかりでその大切なものが何だったのかもわからなくなっていた。そして一時間ぐらい待合室で待たされた。医者が来て、今は安静にしていますと報告した。伯母は入院手続きをしにそこから外れた。
彼はそのとき何を思っていただろうか――。
『何だかわからなくなっていた。人のこと、自分が何をしたらいいのかということが――。』
家からはみんな消えた。彼は過去を振り返りながら友人との仲が薄れていくのも自然なこととしてみていた。父が単身赴任で出て行く中で、これは当然のことだと何となく頭に浮かんだ。そして兄はどうして気が狂ったのだろうか、昔の家族の誰からも慕われた兄がどうしてあんな狂人へと変貌してしまったのだろうか。母はなぜ病弱な彼の面倒を看てくれたのだろうか、そしてなぜまだ成人もせずにのらりくらりしている彼を放っていなくなってしまったのだろうか。
彼はそののち、週に一度は祖母を見舞った。祖母は病院の看護師に世話されながら、最期の毎日を何の弊害もなく過ごした。
食卓のそばの引き出しにお金を置いておいたのを忘れてきたと言ったり、戦死したはずの祖母の伯父が見舞いに来たと話したり、彼のことを自分の息子(彼の父親の)名で呼んで、笑いかけてきたりした。
祖母さんはこののち三カ月経って、死んだ。
彼は昔、家に帰るのが嫌だった――。それが今、こうして、ここには誰もいなくなった。彼ひとりだけが残された。どれだけひとりでやっていくのだとしても、もう彼には帰るところはなくなっていた。
待合室に伯父がきて彼の肩を叩いた。伯父は迎えのために車で病院まできていた。入院の手続きから伯母が戻ると、彼は伯父の車で伯母と一緒に家へ帰った。
家には三時間前の夕食が残っていた。
「早く寝なさいね」
伯母はそれだけ言ってすぐに帰った。
リビングは暗闇しかない。彼はその部屋の暗闇をじっくりと見た。彼は誰もいないその部屋を見て、自然と涙が出ていた。
生命の危機に対して
さて、言葉だけで状況が把握できないところも多くあるかもしれないが、ここに出てくる兄、孝道は暴言とともに暴力性を兼ね備えた人間である。そのことは幼少の彼から受け継がれる幸助が思う孝道の存在そのものである。喚き散らす、というのはただ物を言うのとは違い。威圧感や圧迫感を持っている。
サスペンスとは違い意図的な行動の謎解きよりも方々で分散していく人間それぞれの意思が繋がりのない生活感を表し、幸助は最後ひとりになっていく。彼は自嘲しながらも、家族を亡き者にするか、自らを亡き者にするかの葛藤に立って、寄る辺ない世界に迷い込んでいく様子をここに記したいと作者は考えた。
そして祖母の死を迎えて、いずれ自らも迎えるであろう死を暗闇の中の家で最後に彼は感じ取ったような気がしたのである。




