第44話 大学
幸助は大学に向かう電車に乗ると、どっと疲れがのしかかってくることが分かった。電車の窓は頁を一枚一枚めくって行って、彼の想いとは逆に時の流れを早く正確に押しつけて行った。
幸助は中学のころに書いた卒業文集の作文を思い出していた。それは帰途の情景を小説風にした文章だった。車窓の頁を一枚一枚めくっていく度に友人たちと別れて、最後は一人になると言う話だった。いま読めば下手くそな文章だろうが、先生がそれを褒めてくれたことを覚えていた。
今も昔もあまり変わらない。彼は自分もひとりの人間だと言うことを思いながら、今めくられて行く窓の一頁一頁が憂鬱で実感の在る時間だと知らせてくれていた。彼は椅子に座ったまま、両足を弄んでいた。それは怒涛の一週間を終えて、その隙間に空いたところに吹き入れられる風のような余暇だった。その隙間にそうやって入り込んでくるものは愉快なものなのか、それとも侘しいものなのか、彼は定かにはしなかった。
大学に着いて、資料室で、講演に読んだ先生の資料と、レジュメを印刷した。まだ朝も早く、誰も資料室にはいなかった。幸助は明かりも点けず、薄暗い中でコピー機の黄緑の画面に向かいながら心を落ち着かせた。
講演が終わると幸助は試験に出た。この日彼は最後まで大学にいた。忙しい日だった。然しパスすれば学位に足りるのだった。彼はこの月殆ど寝ていなかった。寝る暇がないのではなくて、眠れなかったのだった。
試験は呆然とする中であっという間に過ぎた。出来なかった訳ではなかった。ただ、緊張も動揺もせずに、ゆらりと答案に回答したまでだった。
最後の試験の答案を書き終わると
――終わった。
と思った。これで終わると思ったのだった。
無性に臓腑の焼けるような感覚が襲った。目まいがして、けれども堪えながら、幸助は再び資料室に向かった。
資料室にはm先生がいて、酒を浴びていた。
「遅いね。」
「ええ、試験だったので。先生も御苦労さまです。」
幸助がそれを言うと先生は両手で顔を覆って伏せった。幸助は黙ってそれを見てから本を探した。
先生は言った。
「いや、女の人の話を聞くのは疲れたよ」
「へえ?」幸助はすこし素っ頓狂な相槌をしてしまった。
先生は何を言っているのかと思った。そしてそれだけ言うとまた先生は黙ってしまった。幸助は今日の講演の先生が女の人だったことを思い出して、なるほどと思った。彼はそれで、調子を合わせる様にして言った。
「私もです。」
先生はニヤリと笑った。
「貴方の歳でそれは不味いんじゃない?」
幸助は本棚の本を追いかけながら先生と同じようにニヤリとした。
「そうでなくても、――ここにきて、私と合う人はいませんでしたよ。なんて言うか、連れ合える奴と言うか。」
「俺も大学では友達なんかいなかったけどな。」
「先生は友達多いじゃないですか。――仕事仲間。」
「仕事仲間は仕事仲間だよ。仕事終わったら俺には何にもねえよ。」
先生は仕事人間だった。大学の業務以外でも五から十は仕事を受けていた。殆どが評論だったり、誌面の添削だった。
「そんなもんですか。私もこの大学で行事やイベントを幾つか加わって、いろいろ立ちまわったりしましたけど、それでも話が合う人はいませんでしたよ。」
「貴方みたいな人と合う人、いないんじゃないの」
幸助は笑うだけしてそれに応えた。
――確かにそうだ。
と思って、もう諦めがついているのだと彼には分かっていた。幸助は本棚から一数冊、本を手にとって資料室を出た。
廊下に出るとそこには亜子さんがいた。
「おおお、遅いね。今日はどうしたの?」
「テストがあって」
「そうか」
「そう言えば今日、次郎ちゃんに会いましたよ。何かお仲がよろしいようで。」
「何?」
「仲良くやってるみたいで良かったな、と思って」
亜子さんは一瞬止まってから不審な表情になった。
「もうそういうのじゃないよ。」
幸助はそのまま返す言葉も分からないで唖然とした。
亜子さんはそのまま行こうとしたので、彼は咄嗟にこう言い放った。
「それ又、どうして」
亜子さんはそのままそれには応えずに行ってしまった。
次郎ちゃんとは亜子さんが付き合い始めた相手の方で、幸助のゼミの先輩であった。去年の春、亜子さんと一緒に卒業した時はまだ付き合っている話であった。亜子さんは卒業後は資料室で研究生兼事務員として大学に残っていた。
幸助はやはり大学にいる人との関りが上手くいかなくなったと感じるほかなかった。




