第42話 間違い
*
孝道が家で暴れまわったあと、母親は孝道を見つけて家から連れ出すと言ってきかなかった。そう言って出て行った。その後暫くして父がこっちへ来た。
「何があった」
「あっちに行けば分かるよ」
幸助がそう言うと父はネクタイだけ抜き取って家へ向かった。彼は母親の別居先に留まったまま、鞄に詰め込んだ物の整理をした。
暫くして母親は戻ってきた。
母親は黙ったまま夕食を作りはじめた。父がその後すぐに来た。父母同士二人話して、その晩は三人で寝た。その夜が、彼が母親を見た最後になった。
孝道は失踪してから三日経って家に戻ったと言う話である。失踪のその間、孝道はどうしていたのかはわからない。家にいた祖母はそこに留まり、父と家の修繕のことで話をしたと言う。孝道は祖母には恨みがない。そのためなのか分からないが、孝道は祖母に危害を加えることはしなかった。父は祖母に兄の見張り役を頼み、やがて家に戻ることを考えているのだと話した。そして、孝道の失踪の間に父は家から背広やら、家の権利の書類などを全部持ち出して、幸助と、不自然にも半年近く母親の別居先で暮らした。
そうした生活はどんより淀んだ空気の中で過ぎた。カラッとした事はなく、何処となく湿っぽい長い月日だった。失望は既に前からあった。ただ事を起こすのに時間がかかるだけで、そのために酷く陰湿でしつこく、清算は早い時間では間に合わなくなっていた。母親は別居先からも離れた。それは当然のことであっただろう。居所は簡単に知れた。単に実家に帰っていたらしかった。父は母親にアパートの代金を支払うのが嫌で仕方ないらしく、毎晩独り言をぼやいた。そして父は溜息ばかりをついていた。
幸助はこのありようをよいとも思っていなかったが、やっと孝道から離れることができたと、ひとつ気が晴れる思いでもあった。しかし気の重々しさは全く変わらなかった。幸助はこれからどうなるのか心配であったし、父も母親もどの関係も家族のことは解決していない。そもそもこの家族そのものがすべて問題であった。
父の溜息は、母親のことだろう。母親が出ていって、父には何かしらの未練を感じた。それはそうなのかも知れない。
けれども――。これはなんだろう。親と子、家、関係、切っても切っても切れない。親戚、兄弟、――何なのだろうか? いいことがひとつもない。幸助は今までずっと孝道のためにダメな弟を演じてきた。そのために私は何なのだろう。私はどうすればよかったのだろう。私はこれからどうしたらよいのだろう。と自問自答を繰り返した。何をしていても、彼が考えていることとは逆さまのことが起きた。父は良いとしても、母親と兄はそれでよかったのだろうか? 彼は思った。よかったものはその時すべて覆ったのである。親も兄も何もよくない。幸助自身自分がいちばん正しかったのだと――。
彼は母を殺してしまいたかった。それから兄も――。そうしたあとは自分が死のうが生きようがどうでもよく思えた。彼はこのころ度々母親と兄を殺す瞬間を頭に浮かべた。もう一度彼の目の前に母親が来たら、兄が来たらということを考えた。その時はもう話すこともなく殺すしかないだろうと思っていた。
そう言う考えに彼を追い詰めたのは父だった。父は、ある晩に項垂れた身体を床に付けた時、幸助に向ってこう言った。
「お前は間違って生まれてきたんだ」
彼はその言葉に驚いた。目頭が熱くなった。自分の思いとは関係なく、涙が出そうになった。父は幸助が兄を殺せと父に言った時、育て方自体間違えたのだと言ったあの時のことを、そのまま彼自身に当てて父が言ったのだ。
――本気か!
幸助は父に向かってそういうふうに思った。この男、自分が抜け落ちた人間だ。という思いに駆られた。人に惑わされて生きているのだ。母親にも騙されるように自分から陰険になって仕向けたのだ。いつも人の言うことをそのままに真に受けて、結局家族がどういう思いでがいるのかなど、この親には分からないのだ。
彼は何に向かうでもなく殺意を込み上げた。そして自己嫌悪のうちにこう言った。
「もう死んでもいいか?」
「馬鹿」




