第4話 亜子さん
「また馬鹿な事言ってる。」
そう言ったのは亜子さんだった。
それが亜子さんと彼が初めて会話をした最初の一言だった。
幸助はそれに笑いで応えた。
彼が三回生になって研究棟に出入りするようになってから、亜子さんとは度々学科の資料室で会うようになった。
亜子さんは彼に好意をもって接しているようだった。彼女ほど自分のことを的確に言える人は他にいないだろうと、あの時彼は思っていた。
亜子さんが彼に何を感じたのかは定かではない。彼がいちばん最初に話した時から亜子さんと幸助は何か通じるものがあった。それは何だったか分からないが、その時話をしてから2年音沙汰なしだったのを、彼は思い出していた。彼が三回生になって、祖母とふたりきりで生活している中で、亜子さん大学でよく顔を合わせる友人の一人だった。あとは毎日が暇な山本というものぐさな学生くらいである。
「女は子宮で考えるって、」
その日も唐突に彼女は幸助に話しかけた。資料室から出た直ぐの廊下ですれ違った亜子さんに彼は突然言われたのである。
幸助は驚いて笑うことしかできなった。何があったのだろうと思ったが、最近人文学系の講師にセクハラ講師いるのを思い出した。
その日の大学へ行く途中、幸助は亜子さんに会った。
「あら、お兄さん。」
「あら、お姉さん。」
彼女の方からおかしな挨拶をしてくるので、彼は一芝居うつかの如く、返事をした。
小さな緑の自転車に乗って悠々とやって来たお姉さんは、彼の傍に寄って来て自転車から降りた。そして二人で並んで歩くことにした
しかし実際のところ彼は、亜子さんが何をやっている人なのか、ほとんど知らなかった。居酒屋で夜に働いていると言うこと、あとは腹の据わった恰幅良い女だと言うことだけの認識しかない。他には煙草が似合わないのと、四回生の山本に尻を追いかけられていると言うことだけだった。幸助は持て余したその通学の時間を沈黙で迎えるのに苦しさを感じた。どことなくいたたまれなくなって、亜子さんの最近聞く噂を話してみた。それはやはり山本についてのことしかなかった。
「アイツはさ――」
山本は、亜子さんと同じゼミにいた。
「――もう、いいよ。」
幸助は亜子さんのそう言って呆れた顔を見て笑った。
「だって彼は甲斐性無しじゃない。なににしても。」
確かに、山本はすぐに誰かの言葉に依存する癖があり、言葉だけで中身を伴わないため、いつもやることが二転三転し一貫性のない人物であった。
「それでも先生には気に入られてるんだよね。」
「可愛いもんなんじゃないんですか?」
「先生も会話の相手が欲しいからね。」
「亜子さんも別の意味では可愛がられてるじゃないですか。」
「そうかな。――」
彼女はそうかなと言いながらも嬉しそうだった。