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けむりの家  作者: 三毛猫
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第4話 亜子さん

   *


「また馬鹿なこと言っている」

 幸助にそう言ったのは亜子さんだ。それが亜子さんと彼が初めて会話をした最初の一言だった。幸助はそれにどうしてだろうか? と思いながら笑いで応えた。彼が大学三年になって研究棟に出入りするようになってから、亜子さんとは度々学科の資料室で会うようになった。亜子さんは彼に何かしらの好意をもって接しているようだった。彼女ほど自分のことを的確に言える人は他にいないだろうと、その時幸助は思った。亜子さんが彼に何を感じたのかは定かではないが、いちばん最初に話した時から亜子さんと幸助は何か通じるものがあった。それが何だったかは分からないが、その時話をしてから2年音沙汰なしだったのを、彼は思い出した。彼が三回生になって、祖母とふたりきりで生活している中で、亜子さんは大学でよく顔を合わせる友人のひとりだった。あとは毎日が暇な山本というものぐさな学生くらいである。

 幸助が通う大学は東京のはずれの小高い丘の上にあった。T川に沿って通る小道を半時間ほど歩かなければたどり着くことができず、夏場はその通学だけで全身が汗でぐしゃぐしゃになるほど、道が遠かった。そのために最寄りの駅からは大学専用のバスが運行されていたが、全学生を運送できるほどの本数をこのバスが運行していることはなく、半数以上の学生は徒歩で大学へ通わざるを得なかった。大学の裏には山が広がっており、冬場は真っ黒な森がその背後を覆った。小道の南側は絶壁と呼べるほどの斜面が続いており、その斜面全体を覆いつくすほどの戸建て住宅が奇妙に組立てられた積み木のように敷き詰められている。幸助は父のいなくなった家から、何の感慨もなく家から駅までを歩き、鉄道で移動したのち、またこの小道を歩いて大学へ寄った。幸助は2年間でほとんどの単位を取り、あとは専門研究と研究ゼミ、卒業論文を残すだけであった。幸助は丘の上の研究棟を目指して最後の急な上り坂を歩いた。エントランスまで着くと自動ドアをくぐってすぐ左のエレベーターに乗った。8階まで上がると幸助は資料室まで行き、文献を見ながらその日は終日、論文を書き続けた。


「女は子宮で考えるって、」

 その日も唐突に彼女は幸助に話しかけた。資料室から出て直ぐの廊下ですれ違った亜子さんに彼は突然言われた。久しぶりに会話した第一声がこれだ。幸助は驚いて笑うことしかできなった。何があったのだろうと思ったが、最近人文学系の講師にセクハラ講師いるのを思い出した。

 その日の朝、大学へ行く小道の途中で幸助は亜子さんに会った。

「あら、お兄さん。」

「あら、お姉さん。」

 彼女の方からおかしな挨拶をしてくるので、彼は一芝居うつかの如く、返事をした。

 小さな緑の自転車に乗って悠々とやって来たお姉さんは、彼の傍に寄って来て自転車から降りた。紺色のジャケットに白い3段のフリルのロングのスカートはいている。そしてふたりで並んで歩くことにした。

 実際のところ彼は、亜子さんが何をやっている人なのか、ほとんど知らなかった。居酒屋で夜に働いていると言うこと、あとは腹の据わった恰幅良いひとだと言うことだけの認識しかない。他には煙草が似合わないのと、四年生の山本に尻を追いかけられていると言うことだけだ。幸助は亜子さんと歩きながら持て余したその通学の時間を沈黙で迎えるのに苦しさを感じた。どことなくいたたまれなくなって、亜子さんの最近聞く噂を話してみた。それはやはり山本についてのことしかなかった。

「アイツはさ――」

 山本は、亜子さんと同じゼミにいた。彼の話をすると亜子さんは少し目を泳がせたが、しかしはっきりとこう続けた。

「――もう、いいよ。」

 幸助は亜子さんのそう言って呆れた顔を見て笑った。

「だって彼は甲斐性無しじゃない。なににしても」

 確かに山本は、すぐに誰かの言葉に依存する癖があり、言葉だけで中身を伴わない。いつもやることが二転三転し一貫性のない人物なのは確かだった。幸助はなんでそうなるのだろうかという少し力のこもった彼女のその表情を見て苦笑せざるを得なかった。

「それでも先生には気に入られているんだよね」

 しかし幸助は、少しの間をおいてそういった亜子さんの気持ちもわからなくはなかった。無粋で貧相な出達の彼がどことなく頼りなく感じるのも分からなくはなかったが、頑としてものを語らない学生が多い中で、自分語りばかりする山本は悪い奴ではないと思えるのであった。

「可愛いものなんじゃないですか?」

「先生も会話の相手が欲しいからね」

「亜子さんも別の意味では可愛がられているじゃないですか」

 彼女はそうかなと言いながらも少しはにかんで嬉しそうな顔を見せた。幸助はそんな亜子さんを見て、彼女の快活のある女らしさが先生に気に入られていたのだと思った。けれども幸助は亜子さんのそうした快活の好さとは違う、もう一つの顔を見ることがあった。彼はそれの所為で亜子さんが壊れるのではないかと思うこともあった。

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