第36話 医者
祖母が一人で歩けなくなったのは退院してすぐのことだった。祖母の退院の日、伯母と一緒に二人で脳神経外科に呼ばれた。それは入院中にした検査の結果を聞くためであった。
幸助は前日に電話で聞かされた時間になると玄関から降りて、伯母の車が来るのを待った。言われた時間通りに降りると数分も待たないうちに伯母の車は来た。黒のセダンで、年代もだいぶん古いものだ。運転しているのは伯父の方だった。後部座席に座るとシートにはほのかに煙草の匂いを感じた。シートは化繊のタオル生地のようなフカフカとした触感で座り心地は悪くなかった。伯母とも伯父とも特に何も話すことはなかったので外の景色をずっと眺めていた。西洋風の家並みと初夏の陽光が並木を照らして、通りに程よく影を落としている。いくつかの丘を上り下りすると最後に丘の上にそのS病院はある。
病院に着くとロビーの左手に受付がある。受付の手続きは伯母に任せると幸助はロビーからそのまま続いている待合スペースのソファに座った。待合室は昔よく見たドラマなんかで見るような無機質な感じはなく、クリーム色でラバー生地の半円形のソファで、そのソファが蛇行するように並んでいる。半円の芯には観葉植物が大きな鉢ごと置かれていて、天窓から自然光を入れる採光のとり方をしており、待合室にある陰気さは全くない。伯父は祖母のところに行って片づけをしてくると言ってすぐに離れていった。祖母は伯父が先に家へ帰す手はずになっていて、診断の結果は聞かされないらしかった。
待合スペースで数十分待っていると看護師が近寄ってきて、ついてくるように言われた。待合スペースより奥へ歩いていくと搬送用の通路になった。こっちの方は幸助も少し見覚えがある。祖母が入院した後に脳神経外科の棟へ部屋を替えられた際に通った通路である。要するにこちらは入院棟の通路で、一般患者は入れないようなところである。通路の一郭に小部屋があり、伯母と幸助はそこに通された。
「これだけご老人になられて、一日寝っ放しにしているとすぐに筋力が落ちますから、杖をついて歩けるとしても、それ以上の回復は見込まれません。でもこの歳でまだ歩けると言うのはすごいことです——」
医者は挨拶するときは少し表情を柔らかくするが、話をはじめるとその冷淡さが鼻についた。ロマンスグレ―の髪が鬣のように逆立って直立しているのを見ると、冷淡さからひとつのおかしさがこぼれた。
「それから肝臓の方ですが、――」
医者は肝臓にゴルフボールぐらいののう胞を見つけたと言った。
レントゲンの黒地のペラに白い骨や臓腑の形が、青白く光っている。差し棒でレントゲンの大きく白く映るところを指すが、どれをのう胞といっているのかさっぱりわからない。
「ここです。この濃い塊がのう胞、つまり血の塊です。これがあって、消化不良を起こされているみたいですね」
「それは、どうなるんでしょうか――」と伯母が訊ねた。
医者はこのまま膨れ上がるか、その前に、と話した。
話していた医者が目配せをすると今度は別の医者が出てきた。
「この脳の方のCTですが――」
医者は脳の断面の写真を刷った紙を出してきて、左右両方の脳みその前頭葉の辺りを指して〝ここ〟〝これ〟と言うのだけれども、何がここで何がこれなのだろうかと思うのである。
「では、抗ヒスタミン剤を処方しておきますから、毎食ごとに飲ませて下さい――」
医者の説明はそれだけだった。
伯母は病院の帰り、車を動かしながら話した。
「先生の言ってること分かった? 先のお医者さんは外科から来てたみたいね。後に話したお医者さんは脳の所に影が見えるっていうけど、――全然分からなかったね。一応、文科省から賞をもらえる位権威みたいだけど」
「そう――。分からなかった。と言うかあんまり見てなかったね、僕は」
「駄目じゃない」
「何にしてももうこれから面倒を看ないといけないんでしょう」
「そうね――」
医者の診断は余命半年だった。幸助はそれだけ分かれば充分だった。




