第36話 殺せ
納戸で父と会話をした後から、孝道はいっそう激しくに喚くようになった。
――殺せ! 殺せ! ……殺すぞ!
ある日、幸助が予備校から帰宅すると祖母が前に干菓子をくれた時のように迎えに出てこう言うのだった。
「コウちゃん。ちょっと、静かに、こっち」
祖母の手が幸助を招いていた。
「今あっち行かないで、ちょっと」
「え、なに、なに」
幸助は祖母の部屋に呼ばれた。
「しっ、静かにね」
変な気がした。それは祖母が急に呼びとめたことからも言えたが、それよりも変に感じたのは、静かすぎることだった。
「ねえ、もしかして」
彼は今まで予想していたことが本当に起きたのだと分かった。
「駄目よ。行っちゃ、駄目!」
幸助は祖母が強かに言うのを振り切ってリビングに向かった。
!
皿の破片が床に散乱していて足の踏み場がないぐらいに床を埋め尽くしていた。扉も打ち破られて、硝子戸も粉々だった。パソコンや電話もテレビも何もかも滅茶苦茶に壊されて、床には金属バットが転がっていた。
幸助は二階の孝道の部屋に行った。家の中なのに冷たい風が酷く通っていた。
カーテンが波打っていた。その向こうから一筋光が抜けていた。
いつも閉め切っているはずの窓のシャッターはどうしたのだろうか。大分陽の光もあてていない部屋の灯りをつけると、黴臭い臭いと汗臭い臭いと共に、焦げた臭いがした。万年床の周りでは紙クズや下着が散乱している。そしてその床の真ん中にひとつの空き缶が置かれていて、缶の中で数枚の紙幣が燃やされていた。窓際には砕かれたガラス戸の破片がチリチリ光って、シャッターはあの金属バッドで殴ったのか、縦にベロリと裂けていた。そして孝道はどこにも居なかった。
幸助はそれらのすべてを一瞥して、孝道の部屋の向かいにある自分の部屋に行った。洋服ダンスに向かって、財布から取り出した父の名刺を見た。箪笥から服を取り出しながらそこに在る番号にかけると、女性の声がした。
「はい、○○支部の××です」
「そちらの部長の息子です。父に繋いで下さい」
「はい、――部長の息子さん?」
父にはすぐに繋がった。
「家を出ます」
「どうした?」
「孝道が――」
「何処へ行くつもりだ」
「母親のところ」
「何があった、言え」
「分からない。でもとりあえず、限界です」
それだけ言って着るものだけ持って家を出た。
幸助は家の近くに間借りした母親の別居先に来ていた。アパートの五階で、鉄筋の建物で武骨な感じがするのは、もう十五年は外装修繕をしていないからだった。そんなぼろアパートを、荷物をパンパンにして彼は階段を上がった。母の別居先は五階で、その建物の高さの関係でエレベーターはなかった。幸助はさっき見たことを思い起こしながら、何かから逃げたい一心で階段を一段飛ばしながらぐいぐいあがって、手渡されていた合鍵を使った。
そして彼は一番南の畳の敷かれている部屋に寝転がって、千夜ぶりぐらいの安眠を摂った。
夜暗くなったころ母親が帰宅した。母親は父から連絡を受けていて、事情を知っていたが、母親は帰宅しても彼を見ているばかりで何もできないと言うような雰囲気だった。
「アンタ、アイツに何か言ったろ」
幸助は母親の帰宅の物音に気付いて、寝ている身体を起こしてからそう言った。
彼は祖母からポツポツ聞いていたのだ。
「アンタの母親、たまにアンタたちがいない時に家に来るのよ」「――図々しいわね。家の事何にもしない癖に出入りして」「節操がなさすぎるじゃない? それであれは絶対孝ちゃんに何か余計な事言っているんだわ」「――どうしてなのかしら。アンタの母親が来た日の夜は孝ちゃんことに荒れるのよ」




