第3話 兄
まだ禿山だった彼のいる土地に立った日の、祖母の顔を思い出していた。優しい訳でもないが温和な顔で、彼はそんな祖母に手をひかれて、ここに来ることができた。
「幸ちゃんはどうして言えないのかしらね」
祖母は電車に乗るたびに、駅の名前を順番に言えるかしらと彼に尋ねた。それは子供を落ち着かせるためのいわば遊びのようなもので、幸助はいくつかは答えられたが、全部はわからなかった。
「孝ちゃんは幸ちゃんの歳でも言えたのよ?」
幸助には孝道と言う兄がいた。
幼いころの彼はいつも孝道と比較されて育った。
家族はいつも幸助に言うのだった。――孝道は、――孝道は。そしてそれに比べて幸助はと言われるのが常だった。両親も祖母と同じように、孝道が自慢だった。しかしどうして家族は孝道と幸助を比較するのか、彼にはわからなかった。そして彼はもの心ついたときから孝道が嫌いだった。嫉妬心、もあるかも知れないが、その他にも嫌いな理由があった。
「お前は馬鹿なんだよ」
それだけ言って孝道は幼い幸助を殴った。
公園から帰って、洗面所で口を洗ってから六畳の一間で、学校から帰ってきた孝道から突然羽交い絞めにされ、顔や頭を何度も殴られた。体の具合が悪い幸助は隣りの部屋の台所にいる母親の助けを呼べるほどの声が出なかった。
孝道は幼い頃の彼を度々訳もなく殴ることがあった。母はそれを止めるだけして、喧嘩の訳も聞かずに放るだけだった。孝道も幸助のことを嫌っていたから暴力をふるうのだが、彼には、その訳を聞かせてはくれなかった。だから彼は、孝道を嫌うことしかできなかった。けれども、孝道は幸助の何を嫌っていたのだろうか。孝道の鬼畜のようなその暴力は、母がとめるまで延々続くのだ。いつも孝道は母のいないところでも彼に暴力をふるった。幸助のこの時の力では、孝道には抵抗ができなかった。彼はまだ4の歳で、孝道は8歳だった。記憶の最初はそこからだった。